47 風の笛 ークラウス・クラカラインの帰還

「わたしはクラカライン家の当主、セイジェル・クラカライン。

 この白の領地ブランカの領主をしている」


 このマルクト国に王はいない。

 青の領地アスール緑の領地ベルデ赤の領地ロホ、そして白の領地ブランカ

 四つに分けられたこれらの領地、それぞれを治める四人の領主による合議制をとるこの国で、白の領地ブランカを治めるセイジェル・クラカラインと対等な立場にあるのは他の三人の領主のみ。

 そのセイジェル・クラカラインが子どもを相手にひざまづき、自ら名乗る様を見て周囲を取り囲む騎士たちはそれぞれに驚く。


 元々時間が出来れば騎士団の修錬所に出向き剣の稽古に参加することはもちろん、気分転換にと遠乗りに出掛けることもよくあったから、突然遠乗りに出掛けると言い出した領主に護衛として付くことを命じられても騎士たちは特段驚きはしなかった。

 向かった先に同じ騎士がいたこともやはり驚きはしなかったけれど、この光景には驚きを隠せなかったのである。

 自分たちの主人あるじが子どもを相手に跪き、自ら名乗っているのだから無理もないだろう。


 しかも相手の子どもはほんの五、六歳で、ひどく痩せ細っているためか、みすぼらしく見えたからなおさら。

 さすがに領主を相手に尋ねることは出来ないけれど、何事かといつになくざわつく。

 領主のそば近くに控える小隊長などはその前にあった会話も聞こえていたが、それでもやはり驚きを隠せない。

 相手の子どもが領主の 「従妹いとこ」 であることにも、見たこともない黒髪であることにも。


 クラウス・クラカラインが、養子という形でクラカライン家を追放されたのは先々代領主の時代。

 跡を継いだ先代領主に貴族たちは忖度し、クラウス・クラカラインの名を忌避する形で過去に抹消したため、今回護衛を言いつかった若い騎士たちがその名はもちろん存在すら知らなくても無理もない。

 そのためセイジェル・クラカラインが口にした 「従妹いとこ」 という言葉で騎士たちが思い浮かべるのは、この場にいるセルジュ・アスウェルを含めて五名だけである。

 しかも皆とうに成人しており、ノエルのような子どもは存在しない。


 おまけに見たこともない黒髪である。

 アーガンの大きな手によってすぐ帽子の中に隠されてしまったけれど、その色に見間違いはなく、皆、一様に奇異の目をノエルに向けてざわつく。

 もちろん周囲の警戒を怠るわけにもいかず凝視するわけではないが、いつものノエルならその視線に気づかないはずがない。

 けれど今のノエルの関心事はもっと他にあった。

 アーガンやイエル、ファウスとの別れである。


 道中、アーガンやセルジュが話してくれた色々なことのほとんどは、ノエルには難しくて理解出来なかったけれど、セイジェル・クラカラインと会えばこの旅は終わり、それだけは理解出来た。

 そのセイジェル・クラカライン本人が目の前にいるのである。


 遥か上空から降り注ぐ陽の光に輝く金の髪をした青年が、紫水晶アメジストのような瞳でまっすぐにノエルを見てそう名乗ったのだから間違いないだろう。

 ノエルはセイジェル・クラカラインを知らないけれど、アーガンもセルジュもなにも言わないから間違いないはず。

 ノエルに疑う余地はなく、俄に焦り出す。


 けれどすぐにはなにも言えず、なにも出来ない。

 しばらく堅く閉じた口をモゴモゴしていたが、不意にハッとして肩から提げる鞄を手繰り寄せたと思ったら小さな手を突っ込む。

 そして急いで中を漁り、古い革の袋を取り出す。

 クラウスの笛が入った袋である。


 ノエルの鞄の中に危険な物が入っていないことを知っているアーガンとセルジュは黙ってその様子を見ていたが、騎士たちの視線は不意に厳しさを増し、空気に緊張が走る。

 しかもノエルが鞄から取り出したのは細長い革の袋だったから、騎士の中には刀剣類を想像して色めき立つ者もあった。

 けれどギリギリまで堪えたのは日頃の訓練の賜物だろう。

 ノエルはほんの五、六歳の子どもというだけでなく、領主が膝を折り自ら名乗った相手である。

 その正体はわからずとも、領主が特別な処遇を与える相手に迂闊に斬り掛かることは出来なかったのである。


「これ……」


 父の形見とも言える笛と引き替えに望みを叶えてもらう。

 それはアーガンたちとずっと一緒にいたいというものなのか、あるいはせめて領都まで一緒に行きたいといったものなのか。

 ノエル自身具体的な望みがわからず上手く言葉に出来なかったのだが、とっさに笛のことを思い出して取り引きをしようとしたのである。

 もちろん取り引きなんてしたこともなければそんな言葉も知らない。

 それでも笛を渡せば、自分のお願いを聞いてもらえるのではないかと思ったのである。


「あの……セイジェルさま……あの……あ……」


 骨と皮ばかりに痩せ細った小さな手に革袋を握り、震えながらも必死にお願いしようとするのだが言葉が出てこない。

 いつもなら助けてくれるアーガンも、この時ばかりはノエルがなにをしようとしているのかわからず、隣で片膝を付いたまま戸惑うばかり。


 そして笛を差し出されたセイジェル・クラカライン。

 アーガンですらわからないノエルの望みが彼にわかるはずもないのは当然だが、それでもなにか思うところでもあったのか、無言のまま少しばかり笑みを浮かべ、やがて独り言のように呟く。


「……例の」


 そう言ってノエルから笛を受け取る。

 まだ全然言いたいことを伝えられていないノエルはわずかに抵抗を試みるけれど、あっさりと革袋ごと笛をセイジェルに奪われてしまう。


「あ……」


 驚きと絶望にも似たノエルの呟きを意に介さないセイジェルは、袋から取り出した白銀色をした美しい笛をしげしげと眺める。


「……これが風の笛。

 わたしも初めて見るが、光の笛と同じ模様が彫られているな。

 おそらく間違いないだろう」


 独り言のように呟くと、改めて視線をノエルに移す。


「よくぞ持ち帰ってくれた。

 なにか褒美を……」


 言い掛けたセイジェルは、不意に悪戯でも思いついたように小さく笑むと、ゆっくりと立ち上がる。


「褒美に笛のを聴かせてやろう」


 クラカライン家の所蔵する魔術具の一つともなれば高価であることは間違いない。

 褒美ならもっといいものを……とアーガンは思ったけれど、口を開くことは許されない。

 もちろんセルジュは知らん顔である。

 片膝を付いたままのアーガンがチラリとセイジェルを見れば、同じタイミングでアーガンを見たセイジェルと目が合う。

 そしてその内心を見透かすように小さく笑う。

 けれど何も言葉を掛けてこなかったから、アーガンも言い返すことは出来なかった。


 薄く笑みを浮かべたまま笛を構えたセイジェルは、長く綺麗な指でいくつかの穴を塞ぐ。

 そしてゆっくりと、細く整えた息を吹き込む。

 次の瞬間に放たれる最初の一音を皮切りに、高く低く、長く短く重ねられる音の数々。

 時に細く軽快に、時にゆっくりと重厚に奏でられる澄んだ音色に魔力は込められておらず、小高い丘の上から風に乗って周囲へと広がる。


「相変わらず見事な腕だな」


 周囲の騎士たちと同じように、セイジェルの奏でる笛の音色に耳を傾けていたセルジュは変わらない従兄弟の腕前を素直に褒める。

 言葉や態度にこそ出さないけれど、心の中でセルジュの言葉に同意していた騎士たちと違い、セイジェルのすぐそばで聴くノエルは別のことを考えていた。


「……しってる。

 おとうさん、ふいてた」


 なんの偶然か。

 この時にセイジェルが選んだ曲は、様々な技工を必要とする難曲と呼ばれるものだったが、それは赤の領地ロホへと逃れたクラウスが、暑い赤の季節に涼を求めて吹いていた曲と同じものだったのである。


「公子もご覧になったでしょう?

 あそこはとても小さくみすぼらしい村です。

 あんな辺鄙な田舎に、どうしてこれほどの名手がいるのかと不思議に思うほど見事な笛のにつられて外に出てみれば、クラウス様が吹いておられたのです。

 自分のような、無骨な武人崩れでさえ聴き入ってしまうほど、それはそれは見事な音色でございました」


 あれほどの音色は二度と聴けないだろうと、ユマーズに言わしめたクラウスの笛の

 なんの偶然か、その曲を今、セイジェルが吹いているのである。

 ユマーズとは違い、クラウスの生前に何度もその曲を聴いて覚えていたノエルだが、クラウスとセイジェル、どちらが上手いかなどわかるはずもない。

 ただいつも聴いていた曲なのに、吹いているのが父親でないことが不思議でならなかった。

 よくよく聴いてみれば、細かいところでセイジェルとクラウスでは癖などが違うのだが、ノエルにそんなことがわかるはずもなく、余計に吹いているのがクラウスでないことが不思議に思えるのだろう。


 元は笛を持ち帰ったノエルに褒美として与えられたはずの曲だったが、なにも遮るもののない屋外での演奏は、すぐそこを通る街道から田畑を渡る風に乗って遠くまで運ばれてゆく。

 だがそのたえなる音色に、人以外のモノが耳を傾けるなど誰が予想しただろう。

 実際は違うのだが、まるでその音色に惹かれるようなタイミングで出現したため、セイジェルの笛の音がソレを呼び寄せたと勘違いされたのである。


 以後、双笛光の笛と風の笛。

 その風の笛のはソレを呼び寄せると言われるようになる。


「閣下!」


 遥か上空を音もなくひっそりと近づいたソレは、その影をセイジェルたちの上に落として存在を知らしめる。

 直後、側に控える小隊長の掛ける声に、笛を下ろしたセイジェルはゆっくりと頭上を見る。

 そのすぐ近くでは立ち上がったアーガンがノエルを側に寄せ、少し離れて立つセルジュに声を掛ける。


「セルジュ、こちらへ」

「セイジェル、なにをやらかした?」


 相手の正体を見極めようとしていたセイジェルは、近づいてくるセルジュの問い掛けに薄く笑みを浮かべながら答える。


「とんだ濡れ衣だ」

「なにもしていないと?」

「笛を吹いていた、ただそれだけだ」

「そのような言葉、信じられるか」

「随分な言われようだ」


 平時と変わらぬ様子で話す二人と違い、周囲にいる騎士たちは突然現われたソレを警戒し、次々に上空を見上げては剣を、槍を、あるいは弓を構えようとする。


「獣か!」

「周囲の警戒も怠るな!」

「大きい……」

白い巨鳥ルフかっ?」

「この距離では弓も届かぬ」

「引きつけろ」

「絶対領主ランデスヘルに近づけるな」


 遥か上空から落とされる影の大きさに、魔物、あるいは鳥形の獣を想定して臨戦態勢に入る騎士たち。

 その緊迫した様子にノエルも怯える。


「あーがん、さ……」

「大丈夫です、側を離れぬように」


 セイジェルの護衛は決して多くはない。

 けれど少数精鋭である。

 まして一騎当千の大魔術師が二人もいる。

 よほどのことがなければノエルに害が及ぶことはないはず。

 それこそ万が一の時には、いつかの夜、ユマーズに襲われた時のようにアーガンが身を挺して守る。

 そのために彼は剣を抜かず、ノエルを側に寄せて遥か上空と周囲に忙しく視線を巡らせる。


「怖いか?」


 まるで緊迫感のないセイジェルは、笛を革袋のしまいつつ怯えるノエルに話し掛ける。

 そのすぐ隣ではセルジュが、やはりまるで緊迫感のない様子で立っている。


白い巨鳥ルフ程度なら一瞬で片が付く。

 クラカラインの魔術師を見せてやろう」

「あれが白い巨鳥ルフならばわたしが片付ける。

 お前が手を下す必要はない」

「間違いなく白い巨鳥ルフならば任せよう」

「セイジェル?」

「光を宿すモノ……面倒な気配だ」

「……!」


 上空で大きく旋回をしたソレは、大きな翼をはためかせた……と思ったら大きく広げて急降下で近づいてくる。


「来るぞ」


 空を見上げるセイジェルは、ソレの動きを眼で追いながら声を掛ける。

 騎士たちもまた、動く。


「矢をつがえろ!

 ギリギリまで引きつけろ!」


 セイジェルたちの護衛を副長に任せた小隊長の指示に合わせ、馬を下りた騎士数人が構えた弓に矢をつがえる。

 矢尻を引っ掛けてゆっくりと大きくつるを引くと、しなる弓がギリギリと軋む。


「放て!」


 正面から降下しながら迫ってくるソレに対し、番えた矢を射かける騎士たち。

 放たれた弓は風を切って襲いかかるけれど、ソレは広げた翼を二、三度羽ばたき風を起こして跳ね返す。


「あれは……」


 信じられない! ……と言わんばかりの声を上げるセルジュは、表情もまた信じられないと言わんばかりにソレを見ている。

 なにかしら予感があったらしいセイジェルも、やはり驚きを隠せないのか、やや表情を強ばらせている。


「これは……さすがにわたしでも一人では手を焼きそうだ」

「なにを言っている?

 あんなもの、人の手に負えるものか」

「そなたがいてくれて助かったな」

「くそ……」


 ソレは射かけられた矢を起こした風で跳ね返すと、そのまま羽ばたきを強くしてさらなる風を起こす。

 そうして巻き起こる砂嵐の中、視界を塞がれ身動きが取れなくなる騎士たち。

 下手に動こうものなら風に足を取られてひっくり返されかねない。


「アーガンさま……」

「大丈夫です、わたしがお守りいたします。

 閣下!」

「こちらは気にしなくていい。

 そなたはそれ・・を守れ」


 すぐ近くにいるのに満足に眼も開けられず視界は不鮮明。

 だがその声だけは、耳を塞ぐほど強い風の音の中でもはっきりと聞こえてくる。

 先程と変わらない平時の、まるで緊迫感のないセイジェルの声である。

 そのそばでセルジュもなにか言っているようだが、風の流れがそうさせるのか、アーガンのところまでは届かない。

 不意にその風が止んだ……と思ったら、アーガンたちのすぐそばにソレは舞い降りていた。


「まさか……本当に……」


 驚きに表情を強ばらせるセルジュの声がかすれる。

 騎士たちもまた、信じられないものを見た驚きと恐怖に全身を硬直させ、声を発することも出来ない。

 それはアーガンも例外ではなかった。


 ただ一人、セイジェル・クラカラインをのぞいて、誰もが身動き一つ取れないどころか声を発することも出来ずにいる。

 だがそれも、恐怖と緊張が限界に達すれば誰かが動く。

 そして一人が動けば次の瞬間にはこの場に生きた人間は一人として残らない。

 そんなとんでもないものの登場に限界はすぐにやってくる……はずだった。

 来なかったのはセイジェルが、その恐怖と緊張を破ったからである。


「誰も手を出すな」

「……か、か!」


 セイジェルの声で弾かれたように我に返る小隊長だが、強ばる喉に声が詰まる。

 ソレの正体を理解していながらも、平時と変わらない様子を見せるセイジェルは繰り返す。


「手を出すことは許さぬ」


 そう言い置くと、改めてソレを正面から対峙する。


「風の暴君が我ら人の前にお出ましとは、珍しいこともあるものだ」


 風を自在に操る大空の守護者、金獅子グリフォン

 黄金に輝く巨大な翼を持った純白の獅子はゆっくりと頭をもたげると、話し掛けるセイジェルをまっすぐに見返す。

 闇を裂くとされる琥珀トパーズの双眸に、人とは違う意志を秘めて……。


『……生意気な小僧、誰に向かって口を利いている?

 その口を閉じるがいい』



【セルジュ・アスウェルの呟き】


金獅子グリフォンだと?

 あんなものが実在するはずは……いや、灰青狼フェンリルが実在するのだから……いや、そうじゃない。

 あんなものを相手にどうしろというのだ。

 こんな人里近くに出現するなど……さすがにクラカラインの魔術師わたしたちといえど、分が悪いというのに……セイジェルめ、挑発するな!」

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