41 消えたアーガンの傷 (3)

 イエルには、ファウスと同じくアーガンの傷が消えたことは話してある。

 実際にあるはずの傷がない腕も見せた。

 そしてなにが起こったのかわからないことも話してある。

 だから状況の理解も早かったのがアーガンには助かった。

 そうでなければいったいどんな濡れ衣を着せられていたか……。


「……とりあえず、水を飲みましょう」


 そうイエルに切り出され、降参するように両手を上げていたアーガンはホッと息を吐く。

 食堂で借りてきた水差しとコップを手に持っていたイエルは、水を注いだコップをノエルに差し出すけれど、怯えるノエルは受け取ろうとしない。

 身を小さくして怯えた目を忙しく動かし、アーガンとファウスを交互に見ている。


「そうだな。

 昨日は一日飲まず食わずだ。

 まずは水を飲んで……」


 話しながら鞄を抱きしめるノエルの手を無理矢理取ってコップを握らせたアーガンは、そのまま口元に押しつけて水を飲ませようとする。

 最初は怯えて飲めなかったノエルだが、やがてゆっくりと、少しずつ飲み込む。

 辛抱強くコップを押さえたまま待っていたアーガンも、その様子を見て小さく息を吐く。

 少し離れて見ていたイエルも。


「次は食事ですね。

 でもこの時間は……」


 すでに宿の食堂は朝食を終えている。

 今頃は一階の食堂で昼の仕込みをしつつ、上階の客室を、次の客を迎えるための掃除やなにやらで宿の主人もおかみも忙しくしているはずである。


「外に買いに行きますか?」


 それこそ軽快にひとっ走りしてきますと言うイエルだが、それは駄目だとアーガンは言う。


「セルジュたちが戻ってからだ」

「そういえば公子たち、遅いですね」

「少し町を見て回ると言っていたからな。

 それとも神殿で面倒なお偉いさんにでも捕まったか」


 赤の魔術師であるアーガンだが、彼の母親や姉は白の魔術師である。

 セルジュ従兄弟もその父伯父も。

 そのため少なからず白の神殿と関わりを持ち、何度か神官たちの面倒なお喋りに付き合わされたことのあるアーガンは、その時のことを思い出しでもしたのか、肩をすくめてみせる。


 いずれにせよセルジュとファウスが戻るまでは新たな外出は出来ないと言われ、そのあいだもアーガンやイエルの様子を伺いながらもゆっくりと水を飲むノエルを見て、イエルは考える。

 そしてその視線が膝に置いたノエルの鞄を見て、閃いたらしい。


「……パン……あの村でもらったパン、朝飯用にとっておいた分を食べてませんでしたよね?」


 この鞄もユマーズの襲撃時に少しアーガンの血で汚れてしまったが、ノエルが眠っているあいだに染み取りをして綺麗になった……といっても元々古い鞄である。

 元の状態以上に綺麗になることはなかったけれど、少なくとも血の染みは消えている。


 アーガンたちはユマーズ襲撃の翌朝、この町を目指す途中で食べてしまったが、ノエルは今まで眠っていたので朝食分に取っておいたパンがそのまま鞄の中に入っているはず。

 警戒しているためなかなか水を飲み終わらないノエルを辛抱強く待った二人は、これ以上ノエルを怯えさせないように、あのパンを食べようと話し掛ける。


「……ごはん、たべられる」

「食べられる……が……」


 ノエルが肩から提げたままの鞄に、アーガンが太い腕を無理矢理突っ込んだものだから少し手間取ったが、取り出したパンを見て困惑する。

 おそらくユマーズ襲撃時に鞄を握りしめたためだろう。

 日が経ってすっかり固くなったパンは見事に潰れてしまっていた。


「たべる」

「あ、ああ、そうだな」


 村で焼き立てのパンを見て喜んでいたノエルを思い出して可哀相に思ったアーガンだったが、気にする様子のないノエルは小さな両手でパンを受け取ろうとする。


「少しだけ待ってもらっても?」

「どうした?」


 またまたなにか閃いたらしいイエルは、アーガンの問い掛けに答えるのももどかしく、水差しをアーガンに預けて部屋を出ていく。

 戻ってくるまでそれほど時間は掛からなかったけれど、ノエルと二人きりにされたアーガンにはひどく長く感じられた。


「ごはん……たべる……」

「少しだけ待ってくれ。

 イエルが……」


 すぐ目の前にパンがある。

 けれどアーガンが渡してくれず食べられないノエルだが、無理矢理奪おうとはしない。

 アーガンの大きな手の上に小さな手を添え、ただ食べたいと訴えるだけ。

 もちろんノエルの力でアーガンの手からパンを奪うことなど不可能だが、渡してやらない自分がひどく意地悪をしているようでアーガンの良心が咎める。


「……ごはん……」

「すまん、もう少しだけ待ってくれ。

 本当にすまん」


 内心でイエルに助けを求めながら待っていると、戻ってきたイエルは、なぜか皿に温めたミルクを入れて持ってきた。


 ミルクはコップに入れて飲むもの。

 そう思っていたアーガンは、なぜ皿なのか? という疑問を持ってイエルを見る。

 すると彼は少し肩をすくめるように苦笑いを浮かべる。


「ちょっと行儀の悪い食べ方ですが……」


 そう言った彼は潰れてすっかり固くなったパンを一口サイズに千切り、温かいミルクに浸し、たっぷりと含ませて柔らかくなったパンをノエルの口に運んでやる。


「こうしたら温かくなるし、柔らかく食べられます」

「ほぉ」


 騎士団の隊舎ではイエルたちと同じ生活をしているアーガンだが、やはり貴族である。

 生活の知恵というより庶民の知恵とでもいうべきかもしれない。

 その食べ方に感心し、イエルを真似てノエルに食べさせてやる。

 丸一日食べていなかったとはいえノエルの食の細さは相変わらずで、アーガンやイエルを心配させたけれど、本人は食べられたことに大満足していたから全部食べるように無理強いはしない。

 最後に少しぬるくなったミルクを飲み干して少しばかりの食事が終わると、階下の食堂に皿を返しに行ったイエルが、今度は桶に湯を入れて運んでくる。


 腹が満たされたノエルは再び眠くなり、毛布に潜り込もうとしたがアーガンに止められてしまう。

 昨日、宿に着いてすぐシーツや毛布を汚さないように服を脱がし、肌着だけにして手や顔、髪などを拭いてやってはいるけれど、二日も野宿をして全身が埃っぽくなっている。

 髪だって簡単に拭いてやっただけだから、まだアーガンの血が残っているかもしれない。

 時間もあることだし、イエルがもらってきた湯で少しゆっくりと、まずは手足や背中を拭いてやると、前回と同じように 「前は自分で拭いてくれ」 と言ってアーガンとイエルは一度席を外す。


「ふく、きた」


 廊下で待っている二人に、わずかに開けた扉の隙間からノエルが呼びかけてくる。

 イエルが新しい湯をもらってくると、すっかり汚れてしまった手ぬぐいを洗ったアーガンが、寝台にすわるノエルの髪を拭いてやる。

 髪や体を綺麗にしてもらいさっぱりして、さらにノエルの眠気が増したところにセルジュとファウスが戻ってきた。


 当たり前のように脱いだマントをファウスに預けるセルジュは、大きな手で不器用に、それでも少しでも優しく丁寧を心掛けてノエルの髪を拭いてやっているアーガンに、それはそれは奇妙なものでも見るような目を向ける。


「なんだ?」

「……いや、なにも」

「言いたいことがあるなら言え。

 お前も少しはかまってやれと何度言ったらわかる」

「先にそっちが言うのだな」

「世話をしろとまでは言わんが、もう少し話し掛けてやるとかだな」


 始まったアーガンの小言を聞きながら、セルジュはイエルとファウスに、退室とともに桶を片付けるよう促す。

 言われるまま部屋を出た二人は、イエルは桶を片付けに行き、ファウスが閉めた扉の前で立ち番をする。

 それらを見届けて、セルジュはもう一つの寝台に腰を掛け話し出す。


「お望み通り、話をしよう。

 訊いてみたのか?」


 すぐにはなんのことかわからなかったアーガンだが、セルジュが視線でアーガンの右手を示すのを見て思い出す。


「……そのことだが……」


 目を覚したノエルにアーガンは礼を言うつもりで訊いたのだが、ノエルの反応は思わぬものだった。

 そのことをセルジュに話すと、彼はしばらく黙ったまま考え込んでいたが、やがて話し出す。


「……怯えたということは折檻された……ということは、エビラあの母親は知っていたということか」

「ああ、なるほど、そういうことか!」


 思わぬノエルの反応に驚き、さらにそこをイエルに見られてすっかり動揺してしまったアーガンは肝心なことに気づいておらず、セルジュの指摘でようやく気づいて驚きの声を上げる。

 だがそれでも納得出来ないことがある。


「しかしおかしくないか?

 傷を治してなぜ叱られねばならん」

「それはわからないが……」


 それこそ役に立っているのだから、褒められこそすれ叱られる筋合いのことではない。

 母親の仕打ちをあまりにも酷いのではないかと返すアーガンに、セルジュも返事に困る。

 そもそもエビラは知っていたのではないか?……というのも、あくまでノエルに対する仕打ちからセルジュが推測したに過ぎない。


 実際のところは、エビラが知っていたかどうかも、本当にノエルにそんな能力があるのかどうかもわからない。

 そこで、ここにいないエビラはともかく、アーガンの望み通りノエルと直接話して訊いてみようということにしたセルジュだったが……


「アーガンさま、おひざ」


 なんの偶然か、セルジュの視線が改めてノエルに向いたところで、眠くてたまらないらしいノエルがアーガンに膝枕をせがむ。


「眠るなら枕を使ったらどうだ?

 体を伸ばして休んだほうが……」

「そなたと話をしようとしているのに、どうして眠ろうとする?

 アーガン、そなたもだ。

 わたしにそれ・・と話せと言っておきながら、なにをしている?」


 せがまれたアーガンはいつものようにノエルに膝を貸そうとするが、すかさずセルジュに止められ、自身のうっかりに気づいて 「すまん」 と謝る。

 そして自分の膝に手を着き、今にも眠る態勢に入ろうとしているノエルを慌てて止める。


「すまん、もう少しだけ起きていられるか?

 セルジュがそなたに訊きたいことがあるそうだ」

「セルジュさま……おこる」

「大丈夫だ、怒らない」


 ノエルを安心させるためだろう。

 少しゆっくりと、だがはっきりと言い切ったアーガンは 「そうだ」 と独り言のように呟くと、ノエルを抱え上げて自分の膝にすわらせる。


「これでもうしばらくだけ我慢してくれ」


 最初は落ち着かずモゾモゾとしていたノエルだったが、アーガンの膝から下りようとはしない。

 つまり嫌というわけではないらしい。

 その様子を少しのあいだ見ていたアーガンとセルジュだったが、完全に落ち着くと眠ってしまう恐れがあったため、ほどほどのところでセルジュが話を切り出す。


「率直に尋ねる。

 そなたには傷を治す能力があるのか?」


 するとノエルはわずかに首を横に振る。


「わからないならわからないでいい。

 他に言いたいことがあるのならそのことでもいい。

 なにか答えられるか?」

「……おかあさんにおこられる……」


 肩から提げたままの鞄を膝に置き、両手にぎゅっと抱えたノエルは上目遣いにセルジュを見る。

 その表情は明らかに怯えている。


「ここに母親はいない。

 我々もあの女にいちいち話したりしない。

 だから心配せず話しなさい」


 子どもの前で母親を 「あの女」 などというのはよろしくない。

 そのことに気づいたアーガンは眉をひそめたが、ここで水を差してはまた話が中断、あるいは脱線してしまうと思い、あえて口を噤む。


「……おこらない」

「そなたの母親とは、もう二度と会うこともないだろう。

 わたしにそなたを怒る理由はない。

 むしろそなたがアーガンの傷を治したというのなら、従兄弟として礼を言いたい」

「……わからない。

 でもおかあさんにおこられる」


 状況的にアーガンの傷を治したのはノエルしかいないのだが、やはり本人に自覚はないらしい。

 エビラに怒られる理由もわかっていないというが、おそらく以前にも傷を治したことがあり、そのタイミングでエビラに怒られた。

 だが無意識にしているため怒られる理由がわからず、ただエビラに怒られたことが怖かったのだろう。

 色々と矛盾はあるのだが、これ以上をノエルに訊くことは難しそうである。


「念のために訊いておくが、アーガン」

「俺?」

「そなたにそういった能力がある……ということはないのだな?」

「あるわけがないだろう」


 なにを言っているのか? ……といわんばかりに呆れてみせるアーガンだが、どうやらセルジュは本気で可能性を考えているらしい。


「帰城後、しばらく魔術師団か神殿に拘束される可能性がある。

 覚悟しておくんだな」

「そんな報告をするつもりか」

「当然だ。

 自身の危機に際し、なにかしらの能力が開花した可能性も無きにしもあらず。

 赤については、白の領地ブランカではまだまだ未知の分野だからな」

「おいおい、親族を売る気か」


 渋い顔をして抗議するアーガンだが、セルジュは少し思案げに視線を床に落として呟く。


「セイジェルがどう判断するか、だが……おそらくそなたには興味を示さないだろう。

 安心しろ。

 今の関心は黒だ」

「それはそれで淋しいというか、なんとも……」


 複雑な気分になるアーガンだが、視線を上げたセルジュは言う。


「そういうことはセイジェルの前で言わないほうがいい」

「なぜだ?」

「碌な目に遭わんからだ」

「碌な目?」

「そなたは知らぬほうがいい。

 それより……」


 話を無理矢理戻してきたセルジュは、視線もノエルに戻す。


「そなたにはもう一つ、訊きたいことがある。

 笛のことだ」

「おとうさんのふえ……」



【エビラ・マイエルの呟き】


「傷が消えるんだよ、どんな深い傷だってね。

 骨を折ってやったこともある。

 それなのに二、三日熱を出して寝込んだだけで、目を覚した時には治ってやがった。

 あいつはひとじゃない。

 きっとひとの形をした魔物だ。

 魔物なんだよ。

 恐ろしい……なんて恐ろしい……」

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