40 消えたアーガンの傷 (2)

 ファウスの提案で安息香あんそくこうを使った魔術で、ノエル、アーガン、セルジュの体力を回復させることにした一行は、早速術に必要な道具を揃えるためファウスは神殿に向かうことにした。

 そのため隣の部屋で仮眠をしていたセスが叩き起こされる。

 もちろん彼が黙って起こされるはずもなく、文句をタラタラと垂れ流しながらである。


 アーガンが剣を振るのに問題がないため、少なくとも術を使って三人が休むまでならセスを休ませていても問題はなかったのだが、実はセスにアーガンの傷が消えたことを話していない。

 面倒になることがわかっているからである。


 そもそも傷が消えた理由がわからないのだから説明のしようがないし、帰城後に言い触らされても困る。

 幸いにしてセスはアーガンの傷を直接見ていないため、そこで出血こそ多かったけれど傷はたいしたことはなかったことにしたのである。


 もちろんアーガンは当分のあいだ傷がある振りをしなければならないが、おそらくセスのことである。

 大事なかったと知れば、傷のことなんてあとはそれほど気にもしないだろう。

 そう取り決めをしてからセスを起こし、ファウスは神殿へ向かう。

 だが待っているあいだにもすることはあった。


「alu …… 世界を渡る風よ、我が言葉をことに変えて御身おんみに託す。

 風に舞う葉の如く、遠方おちかたへ、我が心、風のねねに変えて疾《とく届けられたし」


 セルジュには、無事東の街道に入ったこととノエルのこと、アーガンの傷が消えたこと。

 そして獣のことを依頼主に報告する必要があった。

 ノエルやアーガンの傷のことは帰城してから改めて詳細を報告することになるが、獣のことは帰城してからでは遅い。


 領都ウィルライトまではあと数日の距離だが、彼らが帰城してから報告、領主の裁可、騎士団にて派遣部隊の編制。

 編制の前に派遣規模を決めるため、まずは先遣隊を派遣して現地の下調べをする必要がある。

 それらは全て省くことの出来ない手順だが、一日でも早い騎士団の派遣が望まれる状況である。


 あるいはすでに死者が出ているかもしれない状況を想定すれば一刻を争う。

 さすがのセルジュも領主の裁可などには干渉出来ないが、まずは報告を上げなければ始まらない。

 ファウスが戻るのを待っているあいだに……と思って早速始めたセルジュだが、思っていた以上に内容が多く、結局ファウスが戻ってくる少し前になって、ようやく言葉をしたため終えたほどであった。

 あとは先方からの返事待ちということで、ファウスが行なう安息香の術で三人は休息の眠りにつく。


 ファウスが神殿から借りてきた香炉は四つ。

 一般的な香炉より小振りで、神殿が所有する魔術具にしてはずいぶんと、よく言えばシンプル。

 悪く言えば貧相な品である。

 おそらく四つの香炉を全て同じデザインにするため、あえて派手な装飾を施していないのだろう。

 小振りという以外は一見普通の香炉だが、内側の底に魔術陣が描かれている。

 その上に粉末状の安息香がまぶされているため、蓋を開けて覗きこんでも、一見では魔術具であることはわからないようになっている。


 香に火を入れて蓋をすると、香炉を、本来は部屋の四方に配置するのだが、宿の狭い部屋は二方向を寝台の角が塞いでいる。

 そのため今回は二つを部屋の角に、残る二つは並んで置かれた寝台のあいだに、少し離して配置する。


「alu …… かぐわしきこうに眠りの門は開かれる。

 ひと、ふた、み、よ……ひと、ふた、み、よ……。

 番人はまねきて導き、番人は招きて導き、番人は招きて導き、番人は招きて導き。

 ひと、ふた、み、よ……ひと、ふた、み、よ……」


 アーガンとノエル、そしてセルジュが寝台に横たわる中、扉を背に立つファウスが、ややうつむき加減に低く唱える。

 祈るように合わせた手に、拳より少し小さいくらいの黒い石を握り軽くひたいにあてている。

 この黒い石は魔石である。

 昨夜、一行を襲撃したユマーズもこれと同じ物を幾つか持っていたはずである。


 使用方法は幾つかあるが、基本的には魔力の底上げ。

 ファウスやユマーズのように、下位魔術であってもその全てを自在に操れるほどの魔力を持たない。

 けれど魔力は持っているという、魔術師未満の者が多く用いる。


 何度も使用することの出来る高価な魔宝石と違い、そのほとんどが使い捨てで、ユマーズは襲撃時の隠形おんぎょうの術で使用したと思われる魔石をセスに投げつけている。

 中には再使用に耐えうる物もあるが、当然値が違う。


 少し前にファウスが、町の道具屋でも魔術具を取り扱っている店では魔石を取り扱っていることもあると話しているが、偽物も少なくない。

 神殿での入手が確実だが、なにぶん形式を重んじるため布施をして授けてもらうという上辺だけを取り繕った手間が掛かる。

 今、ファウスはその魔石を一つ、両手に握っている。


 ファウス自身が言っていたように、安息香の魔術は決して彼一人の魔力で出来ない魔術ではない。

 だがしばらくのあいだアーガンとセルジュが眠りにつくため、ファウスとイエルの負担が増える。

 もちろん何事もなければそれに越したことはないし、その場合は負担と言えるほどのものはない。

 だが備えとは有事を想定したものであり、なにかあればファウスの負担が一番大きい。

 セスは論外だが、イエルに魔力は無いし、騎士としての経験もファウスには及ばない。

 そのため魔術を使うことによる消耗を最小限にするため、セルジュがかかる費用を負担して魔石を入手させたのである。


 なにも起こらなくてもすることがないわけではない。

 香を焚いているため部屋の中には誰も入れないが、いつもどおり一人は部屋の外、扉の前で立ち番をする。

 他の二人は、替えの利かないアーガンの上着に付いた血の染みを落としたり、裂けた袖口を繕ったり。

 また外に出て、血の臭いを消すために燃やしてしまったノエルの毛布や手ぬぐいなど必要な物を調達に行ったり。


 ここから先は東の街道沿いに進む一行に野宿をする予定はないが、昨夜のようなことが起こらないとは限らない。

 そのため使う予定はなくても、必要最小限の装備は調えておく必要があった。

 それらが終わると食堂から湯をもらい、隣の部屋で一人ずつ体を拭いてゆく。


 三人目のイエルが拭き終え、使った湯を捨てて桶を返し部屋に戻ってきたところでセルジュが目を覚ました。

 日頃から体を鍛えていて体力もあるアーガンのほうが先に目覚めると思われたが、やはり傷の治癒に体力を奪われたのだろう。

 その方法は依然わからないままだが、セルジュに大きく遅れ、夕方近くになってアーガンもようやく目を覚ました。


 香が消える頃を見計らって様子を見に来たファウスが気がつき、そのことをセルジュに知らせる。

 先に目を覚ましたセルジュもまた、改めて湯を用意してもらい、隣の部屋で体を拭いて着替えを終えたところ。

 ファウスの報せを受けてさっぱりした顔で部屋に戻ると、寝台の上であぐらをかいて大きく伸びをするアーガンに声を掛ける。


「目を覚ましたか」

「……どうしてお前が先に起きている?」


 掛けられるセルジュの声に、まだ少し眠そうなアーガンは不満そうな顔で、声で返す。

 そして深く大きく息を吐くと、改めて自分の右腕を見て傷がないことを確かめる。


「それを隠しておけ」

「ああ、セスか」


 セスには傷が消えたことは話していない。

 これから先も話す予定はない。

 だから二人が眠っているあいだに、毛布などと一緒に調達されてきた包帯をそれらしく見えるように巻いておくようにセルジュが言うと、香炉に蓋をして回収していたファウスがすぐに持ってくると言う。


 この時間から香炉を返しに行っても、神殿に着く頃には一般礼拝の時間は終わっている。

 騎士ファウスの認識票があれば入れなくはないが、神官にも色々といて、場合によっては厄介なことにもなりかねない。

 セルジュは可能な限りノエルの存在を隠すよう言うけれど、実際は彼らの赤の領地ロホ行き自体が内々の話であり、おおやけには出来ない事情もある。

 騎士が神殿や神官と揉めるのもよろしくない。

 そこでセルジュと相談して香炉の返却は明日にし、今日はこの部屋で保管しておくことになった。


 蓋をして四つの香炉を一つ処に集めて置いたファウスは一度部屋を出て行くと、すぐに隣の部屋から包帯を持って戻ってくる。

 ついでに可能な限り染みを落とし、裂けた袖口を繕ったアーガンの上着も持ってくる。

 だがアーガンは着替える前に湯を用意してもらい体を拭うことにした。


 未だ目を覚まさないノエルが寝台に横たわっており、万が一にも目を覚ました時に見られたら恥ずかしいとでも思ったのか。

 この時だけそっと毛布をノエルの顔まで被せると、あとはセルジュとファウスだけになる。

 男ばかりだと思うと急に面倒に思ったのか、大胆になったのか。

 それこそ下穿き一枚になって、豪快に体を拭いながらセルジュに話し掛ける。


「それで、どうしてお前のほうが先に目覚めている?」

「まだそれを言うのか」

「当たり前だろう。

 俺のほうが体力はある」


 どうにもそこが納得いかないと口を尖らせるアーガンに、セルジュは付き合いかねるとそっぽを向き、ファウスは苦笑を浮かべる。


「久々に寝台を一人で使えたからな。

 体を伸ばしてゆっくり休めた」


 昨夜、出血の多さから体温が下がることを心配されたアーガンの湯たんぽにされたノエル。

 今度はノエルの体温が低いことを心配し、アーガンが湯たんぽになったのである。

 そのおかげで久しぶりに一人で休んだセルジュは、寝台を広く使うことが出来たのである。

 それどころか今夜から目的地に着くまでアーガンとノエルで一緒に寝て、自分は一人で休むとまで言いアーガンを呆れさせる。


「お前が閣下に余計なことを言わなければそれでもいいが」

「面倒はわたしも御免だ」

「それならいいが」


 アーガンにしても、セルジュと休むよりノエルと一緒のほうが寝台を広く使える。

 なにしろ小さなノエルは抱き枕程度の存在なのだから。

 しかもノエルは 「しがみつく」 ということをしない。

 これは昼間、町を歩く時にはぐれないようアーガンが抱えている時も同じで、肩から提げる鞄を抱きしめてじっと体を小さくしているのである。


 おそらくずっとそうだったのだろう。

 幼い子どもが親や身近な大人を頼ってしがみつくなんてよくあることだが、ノエルのはそれが許されなかった。

 そうやって彼女を守ってくれる大人は誰もいなかった。

 おそらくそういうことなのだろう。

 昨夜のユマーズ襲撃の時でさえ、ノエルはアーガンにしがみついてはこなかったのである。


 手早く肌着を着たアーガンはノエルが休む寝台に腰を掛け、傷があるように装うためファウスに包帯を巻いてもらう。

 そのあいだも目覚める気配のなかったノエルだが、アーガンが役目を果たしたのか、体温は戻り、呼吸も脈も安定している。

 ひとまずは安心だろう。


 この夜も早く休むことにした一行は、階下にある食堂で夕食が始まるとすぐに摂ることにした。

 ファウスたち三人は、部屋で摂るアーガンとセルジュの給仕や廊下で立ち番をしながら交代で摂ることになるのだが、二人分の食事を持ってきたファウスにセルジュが一つの頼み事をする。

 明日、神殿に香炉を返しに行った帰りに用を足してきて欲しいと。


「そのぐらいのことはお安いですが……」

「では頼む。

 引き渡すまでは生きていてもらわねば困るからな」


 表情こそ変えないけれどひどく迷惑そうな声で言うセルジュの目は、アーガンの背後で眠ったままのノエルを見ている。


「お前……」

「わかっていると思うが、場合によってはそなたもわたしも首が飛ぶ。

 相手が誰あれ、そうと決めたらあれ・・は容赦しないからな。

 もちろんお前の部下たちも、ここに連れてきている者たちだけでなく、残してきている者たちも無事には済まされぬぞ」

「わかっている」


 わかっていてもアーガンに選択肢はなかった。

 貴人の依頼というものは話を聞けば断れない。

 いや、選ばれた時点で断れないと相場が決まっている。


 白の領地ブランカの名門貴族アスウェル家。

 その公子であるセルジュを従兄弟に持つアーガンは、赤の魔術師とはいえアスウェル家の血を濃く引く公子である。

 それこそ一人っ子のセルジュになにかあれば、養子という形でアスウェル家を継ぐことになるかもしれないほどの立場である。

 そんなアーガンでも分の悪い相手は大勢いて、セルジュの首さえ飛ばせるというのはその最たる相手だろう。

 ただ剣を振っているだけでいられればどれだけよかったかと溜息を吐くアーガンは、運悪く話を聞かされたファウスに申し訳なさそうな顔を向ける。


「すまんな、面倒に付き合わせて」

「騎士の道を選んだのは自分です。

 隊長がお気になさることはありません」


 そう言って少しばかりの笑みを返したファウスは部屋を出て行った。


 翌朝、少し遅く目を覚ました一行は売り切れるギリギリで朝食を摂り、ノエルが目を覚まさないためアーガンは側に残り、扉の前ではセスが立ち番をする。

 結局は町の様子を見たいと言って、神殿に向かうファウスにセルジュも同行。

 二人と一緒に宿を出たイエルは途中で別れ、一人で駅に預けた馬の様子を見に行く。


 ノエルが目を覚ましたのは、一足先にイエルが戻ってきてすぐのことである。

 廊下で立ち番をしているセスに、ファウスとセルジュがまだ戻ってきていないことを聞いてから、アーガンに戻ったことを報告する。

 まるでそのイエルの声で目を覚ましてしまったようなタイミングで、ノエルが目を覚ましたのである。


「起きたか」

「……ん……」


 肌着であることも、ボサボサの髪も気にせず、掛けられるアーガンの声に小さく返したノエルは、掛けられていた毛布を肩から滑らせるようにゆっくりと体を起こす。


「……アーガンさま、おみず……くむ」

「汲まなくていい」


 だが寝ぼけているらしい。

 体がだるいのか、眠いだけなのか。

 ひどくゆっくりとした動きで起き上がったノエルは、ぼんやりとした様子で呟きながら手の甲で目を擦る。

 寝台に掛けて剣の手入れをしていたアーガンは手早く鞘に刀身を収めると、改めてノエルを振り返り苦笑いを浮かべる。

 自分が起こしてしまったのではないかと焦っていたイエルもまた、小さく息を吐いてから苦笑いを浮かべる。


「水をもらってきましょう。

 少しお待ちください」


 そうしてイエルが部屋を出ていくと、アーガンは眠ければまだ眠っていていいと声を掛けるけれど、ノエルはしばらくのあいだ寝台の上に座ったままぼんやりとしていた。

 やがて少し目が覚めたのか、ノエルを観察するように見ているアーガンを改めて見る。


「……アーガンさま、いたい」

「いや、もう大丈夫だ。

 心配はいらない」

「いたくない」


 眠気の残る表情で質問を重ねるノエルに、アーガンは少しばかり思案し、それから思い切って尋ねてみる。


「……そなたが治してくれたのか?」

「なおす」

「そうだ、俺の傷を治してくれたのはそなたか?」

「……わからない」


 なにかに気がついたノエルの眠気は一瞬で消し飛び、急に表情を強ばらせ、不安げな目をアーガンに向ける。


「おねがい、おこらないで。

 たたかれるの、いや。

 いたいの、いや」

「どうした?」


 アーガンもまた、急変したノエルの様子が理解出来ず戸惑う。

 そこに水差しとコップを持ったイエルが戻ってくる。


「おこらないで……おねがい……」


 今にも泣きそうな顔をして怯えるノエルの懇願を見て、イエルはアーガンに尋ねる。


「……隊長?」

「待て、俺じゃない。

 俺はなにもしていない」



【リンデルト卿フラスグアの呟き】


「シルラスか。

 今期の魔物討伐からは外されて退屈をしておったところだ。

 若いのを実践で鍛えるのにも丁度よかろう。

 剣の錆取りにでも行ってくる。

 本隊の編制は任せる。

 俺は一足先に行って……駄目とは、なんとも面倒な。

 ただ剣を振っているだけでよかった頃を懐かしむほど、歳はとっていないつもりだったが、この身分というものは不自由でいかん」

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