39 消えたアーガンの傷 (1)

「……傷がない」


 昨夜、泣き疲れて眠ってしまい、そのまま目を覚まさないノエルを守るように、その小さな体を横たえる寝台に腰掛けたアーガンは、自分の右腕に、包帯の代わりに巻き付けられた何枚かの手ぬぐいを外してゆく。

 しみこんだ血がすっかり乾いて固まり、左手だけでは思うように外せなかったが自分の手である。

 少々乱暴でもかまわない。

 そうして昨夜、ユマーズの短剣によって付けられた傷を確かめる。


 傷を受けた瞬間に走った激痛はすぐさま熱さに変わり、それほど時間を置くことなく指先から冷えてゆく感覚とともに痺れはじめた。

 ようやくのことでユマーズが立ち去った時には、それらの感覚すら失われ、アーガンは二度と剣を握れない覚悟した。

 アーガンの部下であるファウスとイエルもまた、覚悟した。


 特にファウスは、イエルとセスに周囲の警戒を任せ、セルジュとともに傷の手当てに当たっており、薄暗さの中とはいえその傷を直接見ている。

 剣を握るどころか、こぶしを握ることすらもう出来ないだろう。

 昨夜はアーガンの傷を見てそう思ったのだが、いま目の前で、自分が縛った血だらけの手ぬぐいが外されてみると、現われたアーガンの肌には傷はもちろん、その痕さえ残さず忽然と消えていたのである。


「……馬鹿な……」


 ファウスと同じく傷の手当てに当たったセルジュが、ファウスよりも近い距離でその腕を見て呟く。

 次の瞬間には驚きのあまり掛けていた隣の寝台から腰を浮かすと、いきなりアーガンの腕を掴みさらに近くで確かめる。

 そればかりかもう一方の手で、肌をさするように触って確かめる。

 さすがに気味悪がったアーガンに 「やめろ」 と言われるが、即座に 「黙れ」 と言い返す。


「いったい……どうなっている?」

「わからない」

「わからないではない、お前の腕だろう」

「そんなことを言われても、なぁ……」


 取り乱すことはないが、それでも普段の冷静さを失っているセルジュの追及に、最初は同じように驚いていたアーガンだったが、やや平静を取り戻したように小さく息を吐くと助けを求めるようにファウスを見る。

 扉を背に立ち、二人のやりとりを見ていたファウスは離れているためか、まだ信じ切れていないらしい。


「近くで拝見しても?」


 尋ねられたアーガンは答える代わりに大きく頷く。

 内心の動揺を隠しているのか、やや表情を強ばらせたファウスは大股に部屋を進むと二人のそばに立ち、アーガンの傷があった場所をその目で確かめる。

 するとそこには、魔術を使って姿を消したユマーズが斬りつけたあの瞬間こそが幻だったのではないかと思わせるほどなんの痕跡もない。


「……どういうことですか?」

「俺にもわからん」

「公子?」


 それまでずっとアーガンの腕を握ったままだったセルジュは、ようやくのことで放すと、再びその腰を隣の寝台にどっかりと下ろす。

 そして大きく息を吐いてからファウスの問い掛けに答える。


「……わからん。

 わからんが……夕べ、なにがあった?」


 今度はファウスがセルジュに問われる。

 だが答えは同じである。


「なにも……」

「なにもないはずがないだろう。

 現にアーガンの傷が消えている」

「ですが、本当になにも……」

「わたしとアーガンが休んでいるあいだのことだ。

 詠唱を聴かなかったか?

 あと陣の展開だ」


 ファウスの返事を聞いていないのか。

 誰かが魔術を使ったのではないかと尋ねるセルジュに、やはり 「なにもなかった」 と繰り返そうとしたファウスだったが、言葉が口から出る寸前に思い留まる。

 そして一呼吸ほどの間を置いて質問に質問を返してしまう。


「そもそも魔術なのですか?」


 アーガンの腕に傷があったことは間違いない。

 それが一晩で消えてしまったのだから、なにかしら魔術が使われたのではないかとセルジュが疑うのもわかる。

 わかるのだが、疑問に思わざるを得ないのである。


「……わからない。

 だがアーガンの傷が消えているのも事実だ。

 なにかしらあったはずなのだ」

「それはそうなのですが……」


 表情こそあまり変わらないが、やはり動揺しているのだろう。

 ファウスの言葉は終始歯切れが悪く、セルジュの声はやや責めているように感じられる。


「そなたが言いたいこともわかる。

 わたし自身、一晩であれほどの傷を治癒する魔術など聞いたこともない」


 今、この場にいるのは白の魔術師であるセルジュと、赤の魔術師であるアーガン。

 そして白の魔力を持つファウスの三人。

 同じ上級魔術師で従兄弟同士のセルジュとアーガンだが、白の当代魔術師の四強に数えられるセルジュがこの三人の中では一番強い魔術師であり、おそらく魔術に関する知識も一番多い。

 そのセルジュが聞いたこともないというのだから、例えそんな魔術があったとしても秘術中の秘術として一般には知られていないと思われる。

 いわゆる門外不出の秘術だ。

 つまりこの三人には行使できない。

 そのセルジュは、そもそも治癒など魔術には出来ないとまでいう。


「……確か、赤と青には、なにかしら人体に干渉する魔術があると聞いたことがある。

 だが治癒というものではなかったはずだ」

「あ~……あったような気はする。

 気はするが……熱?

 そうだ、熱を取る?

 いや、冷ます?

 確かそういう術だった気はするが、難易度が高すぎて修得が難しかったはずだ


 そのため使える赤の魔術師はほとんどいないと話すアーガン自身は脳筋のため、セルジュもファウスもアーガンには 「使えるのか?」 などと尋ねもしない。

 おそらく要領は赤の魔術も青の魔術も同じだろう。

 となると必然的に青の魔術も修得難易度は高いと考えられるが、そもそも治癒とは別物だとアーガンは話す。


「思い出した。

 師匠が……人間の体温に干渉して、血流を制御する……あ~なんかそういう感じの術だと仰っていた気がする」


 結局は脳筋である。

 思い出したと言いながらもその記憶はずいぶんと曖昧なものである。

 セルジュもアーガンの記憶にはたいして期待していなかったから、とりあえず治癒の術ではないと結論づけて続ける。


「詠唱はともかく、陣の展開もない。

 念のために訊くが、アーガン、心当たりは?」


 反射的に 「ない」 と答えかけたアーガンだが、あることを思い出してとどまる。

 その驚いた様子に、セルジュとファウスは、それぞれにどうしたのかと声を掛ける。

 だが考えがまとまらないアーガンはしばらく黙ったまま思案に耽るが、二人までが黙ったまま返事を待ったため、アーガンはやむなく考えがまとまらないまま話し出す。


「このあいだ……」


 そこまでを話したアーガンは、背後で眠りこけているノエルを振り返る。

 依然目を覚まさないノエルだが、掛けた毛布がわずかに上下するのを見たアーガンは、小さく息を吐いてから改めて話し出す。

 先日、ノエルの体を拭いてやった時のことを思い出しながら、あの時覚えた違和感のことをである。


「傷跡がなかったのだ」

「傷跡?」


 怪訝そうに尋ねるセルジュに、アーガンは 「そうだ」 と続ける。


「怯えた時にいつも呟いているだろう?」

「確かに。

 殴らないでとか、蹴らないでとか、酷く怯えておられますね」


 ファウスが大きく頷きながら答える。

 つまりノエルはあの家でそういう扱いを受けてきたのだろう。

 しかもエビラのことである。

 誰かに傷を見られでもしたら……などと考えもしないに違いない。

 そうしてノエルがあれほど怯えるくらい暴力を振るってきたのだろう。

 だとしたら傷跡の一つや二つ……いや、それこそ全身に痣などが残っていてもおかしくはないはずだが、一つとしてノエルの体には傷跡が残っていなかったのである。


「治癒の魔術?

 そもそもそれ・・は魔術が使えるのか?」


 自分の目でその事実を確かめていないセルジュは、疑うような目でノエルを見る。

 例えそういう魔術があったとしても、セルジュが知らないのだから、先に話したとおり秘術中の秘術だろう。


 もし本当にそんな秘術があったとして、教えた人物として可能性が高いのは父親のクラウスだが、もしそうだとしたらそれは白の魔術ということで、黒い髪に黒い瞳を持つノエルに白の魔術が扱えるのかが疑問となる。

 さらには難易度が高いと思われるそんな秘術を、こんな幼い子どもに扱えるのかという疑問も出てくる。

 魔術に関わる三人はそれぞれに考えようとしたのか、少しばかり沈黙するが、切り替えの早さは意外にもセルジュが一番早かった。


「……本人が目覚めてから聞くしかないだろう」


 それこそ今の状態であれこれ考えても埒が明かない。

 答えを知る人物が三人の中にいないのでは、全ては推測の域を出ないのだから。

 それならば今出来ることを……とセルジュが切り出したのは……


「とりあえずアーガンは休め。

 もしなんらかの魔術によって傷が治癒したのなら、おそらく被験者の体力も相当に消耗しているはずだ」


 それこそ今は緊張が解けないため、アーガンも疲労を感じていないだけではないかとセルジュは推測する。

 ノエルが目を覚ますまで一行は身動きがとれず、それならば今のうちにアーガンも体を休めておいたほうがいいだろうと提案する。


「俺は大丈夫だが、医者に診せてやるわけにはゆかんか?」


 ただ眠っているだけのノエルだが、体温が低く脈も弱い。

 念のため医者に診せたほうがいいのではないかと言うアーガンだが、セルジュは駄目だと言う。

 可能な限り、その黒髪を人目に触れさせたくないのである。

 だからといってこの状態のノエルに帽子を被せて医師に診せるのは、あまりにも不自然で無理がある。


 もちろんアーガンもセルジュの立場は理解している。

 理解はしているのだが、あまりにもノエルのことを考えておらず納得し難い。

 だが……とか、でも……などと言って食下がるけれど、可能な限りノエルに関わろうとしないセルジュは冷淡である。


「とりあえず今日はここに泊まる。

 明日の朝までに容態が悪化するならば往診を考える。

 お前は人のことより自分の体を考えろ」

「俺は……」

「アーガン。

 可能な限りそれ・・は人目に触れさせぬ。

 あとあとの面倒を考えろ」

「わかっているが……」

「少し、よろしいでしょうか」


 食下がるアーガンと、頑として首を縦に振らないセルジュ。

 平行線を辿る二人の会話にファウスが口を挟む。


「この町には神殿がございます。

 医師を呼べぬと仰るならば、安息香あんそくこうを使ってはいかがでしょうか?」

「安息香、か……」


 安息香とは、文字通り眠りをいざなう香の一種である。

 体を休めて回復を促す効果があるとされ、安静を必要とする患者に用いる医師も少なくはなく、町でも普通に売られている。

 特に白の領地ブランカは交易により、国外の珍しい香木や香油も多く流通しており、香だけを専門に扱う店もあり入手は難しくない。


 そして白に限らず香を利用する魔術は多くあり、安息香も、魔術で用いることでより深い眠りへと誘い回復力を上げるという。

 香だけを求めるなら、見定める目さえあれば町で入手すればいいのだが、魔術で用いるならば専用の香炉が必要となる。


 この町にある神殿は、大きな規模ではないため上位魔術で用いられる魔術具は難しいが、下位である安息香の魔術に使用される香炉ぐらいならあるはず。

 ファウスはそれを借り受けてはどうかと提案し、襟元に手を突っ込むと、指先に引っ掛けるように鎖を手繰り、下がる金属製の小さな板を引っ張り出す。


「神殿ならばこれが使えるでしょう」


 それは騎士が持つ認識票である。

 当然アーガンもイエルもセスも持っているが、魔術師であるアーガンと魔力を持つファウスの認識票には、イエルやセスの認識票には書かれていない印がある。

 一般的には知られていないが、騎士団の上層部や神官が見ればわかるもので、それを神官に見せて香炉を借り受けようというらしい。


「隊長が動けるのであれば、しばらくのあいだわたしが外しても問題はないと思います」


 現状は扉の外にイエルが立ち、隣の部屋でセスが仮眠をとっている。

 もちろんファウスが神殿に行くために席をはずならセスを叩き起こすことになるが、どうもセルジュの反応がよろしくない。

 もちろん叩き起こされるセスを気の毒に思ってのことではない。

 ファウスの提案に 「安息香、か……」 と呟いたセルジュは浮かない顔をしていたから、おそらく別の理由があるのだろう。

 少し遅れてその理由に気づいたアーガンだが、知らないファウスが気づくはずもない。

 だがセルジュに渋る様子があったため、もう一つ提案してみる。


「安息香の魔術でしたらわたしにも出来ます。

 正式なものは無理ですが、そもそもそちらをするには人数が足りませんし。

 略式で行なうならばわたしがいたします。

 よろしければ公子も少しお休みください」

「いや、それは……」


 さすがにそこまでファウスたちに負担は掛けられないと断ろうとするセルジュだが、アーガンが割り込む。


「そうしろ。

 どうせ帰城しても休む間などないのだろう?」

「だが……」

「ここは俺の言うことを聞いておけ。

 さもなくばバラすぞ」

「お前……っ」


 珍しく怒りの形相を浮かべるセルジュだが、それも一瞬のこと。

 すぐ空気が抜けるように表情から力が抜けると、声からも力が抜ける。


「……わかった。

 ファウス、頼む」

「承知いたしました」



【ある側仕えの呟き】


「ああそうそう!

 下働きの連中も部屋に入れないようにしないとね。

 あいつらって目ざといからバレちゃうもの。

 掃除くらいしなくても人間死にゃしないもの。

 せいぜい埃まみれで暮らせばいいんだわ」

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