38 荒野の夜明け

 セルジュが風を使って血の臭いを散らしたことが功を奏したのか。

 幸いにしてこの夜、獣が野営を襲うことはなかった。

 それでも東の空が白み出すまでは油断できず、イエルとファウス、セスの三人が交代で、火の番も兼ねて周囲を警戒して夜を明かす。

 アーガンは剣を持てないとあっては役に立てず、セルジュや部下たちに言われるまま、この夜はおとなしく休むことにした。


「すまない」

「いえ、とにかく……」


 手当を受けた岩にもたれ掛かったままのアーガンに何か言い掛けるファウスだが、火の側にいたノエルがのっそりと四つん這いにやってくるのを見て言葉を切る。


「……アーガンさま、いたい」


 アーガンのすぐそばまで来たノエルは、涙と鼻水で酷く汚れてしまった顔を上げ、アーガンを仰ぎ見る。

 薄暗くてよく見えないが、おそらく顔や髪にもアーガンの血が飛んで汚れているはずだ。


「少しな。

 でも大丈夫だ。

 そなたもよく頑張った。

 怖かっただろう」

「アーガンさま、ち、いっぱい……」


 力なくゆっくりと話すアーガンは、動かせる左手でノエルの頭を撫でてやる。

 再び泣き出したノエルはしばらくぐずっていたが、そのうちに疲れてしまったのだろう。

 アーガンの膝を枕に眠ってしまう。


 だがノエルの毛布はユマーズの襲撃時にアーガンの血で汚れてしまい、火にくべて始末してしまった。

 さすがにここでは着替えられないため着衣はそのままだが、他にもアーガンの止血に使った手ぬぐいなども全て火にくべて始末してある。

 少しでも血の臭いを消すためである。


 かといってそのままにしておくと風邪を引かせてしまうからと、イエルが自分の毛布を、すっかり寝入ってしまったノエルの背中にかけてやる。

 イエルたちは火の番と周囲の警戒のため、一人ずつしか寝られず毛布は一枚あれば十分だからである。

 ノエルが眠ってしまったことに気づいたセルジュが、アーガンの傷に障るからとイエルたちにノエルを引き離すよう言ったけれど断られてしまう。


「隊長の体温が下がるかもしれません。

 このままにしておきましょう」


 どうやらノエルを湯たんぽにするつもりらしい。

 もちろん彼の性格である。

 迂闊に動かして起こしてしまってはかわいそうとも思ったのだろう。

 ひょっとしたらアーガンまで目を覚ましてしまうかもしれない。


 面倒くさがったセルジュは、イエルの説明に納得した振りをしてただ一言 「わかった」 とだけ答えると、さっさと眠ってしまう。

 そして夜明け前、東の空が少しばかり白みだした頃、ファウスに起こされる。


「公子、申し訳ございません」


 潜めた声で掛けられるファウスの言葉に、ゆっくりと目を覚ますセルジュ。

 薄暗い中でそれを確かめたファウスは言葉を続ける。


「起きて頂いてもよろしいでしょうか?」

「……そんな時間か」


 周囲の状況を確認するように、少しばかり首を巡らせるセルジュにファウスは続ける。


「イエルが町に向かい、おそばにはわたしとセスが残ります」


 すでに出立の準備を始めているイエルは、少し離れたところで鞍に荷物をつけた馬の手綱を手に眠たげなセスと何か話している。


 夜が明けるとともに獣たちは巣に戻る。

 まだこの時間では遭遇する危険も残っているが、一番近い町までイエルが単騎で馬を駆り馬車を呼んでこようというのである。

 もちろんアーガンを運ぶために。

 当初の予定ではここから進路を北に取り、東の街道を目指すはずだったが、ユマーズの襲撃で変更せざるを得なくなったのである。


「念のため公子にも起きていて頂きたいのですが」

「かまわない。

 イエルには気をつけるように伝えてくれ」


 すぐそばで眠るアーガンとノエルを起こさないようにひっそりと話しているのだが、なにもない荒野は静かである。

 あるいは眠りが浅くなっていたのかもしれない。

 セルジュの言葉に頷いたファウスが立ち上がろうとした時、アーガンが目を覚ます。


「……ファウス?」

「隊長、起こしてしまいましたか」

「アーガン」

「セルジュも」


 呟くように応えたアーガンは、もたれ掛かっていた岩から少し背を起こし、首を巡らせて周囲を見る。

 そしてどちらにともなく尋ねる。


「状況は?」

「そなたは気にしなくていい。

 そのまま休んでいろ」

「そうもいかんだろう」

「いえ、公子の仰るとおりです。

 隊長はこのまま休んでいてください」

「お前ら……」


 何か言い掛けたアーガンだったが、その先が不自然に途切れる。

 アーガンの様子に気がついたセルジュとファウスが途切れた先の言葉を黙って待っている前で、アーガンはそれまでだらりと下げていた右腕をゆっくりと上げる。


「隊長、まだ動かさないほうが……」

「……痛みがない」


 不思議そうに呟いたアーガンは、自身の視線の先で右手の拳を握ったり開いたりを数回繰り返す。

 そして呟く。


「動く」

「動くって……」

「あの傷で、ですか?」


 セルジュの言葉は少し呆れていたが、ファウスは信じられないとでも言わんばかり。

 それもそうだろう。

 アーガンは彼らの隊長だが、剣を握れなくなれば隊長を降りざるを得なくなる。

 そうなれば副長が昇格するか、あるいは隊を解散させられるか。

 ファウスもイエルもアーガンの傷の深さを推測し、いずれかの覚悟を決めていたのだから。


 特にファウスは、暗がりの中とはいえ手当のため直接傷を見て知っている。

 だから余計に信じられないのだろう、目の前でアーガンの手が動く様子を見ても。


「俺にもわからん。

 だが、動く」

「……そのようだな」


 アーガンとファウスのやりとりをあいだで聞いていたセルジュは、ゆっくりと立ち上がると、服の埃を払いながら続ける。


「とにかく、ここに長居は無用だ。

 そなたが動けるのなら全員で移動する。

 すぐに支度を」

「かしこまりました」


 そう答えたファウスも立ち上がり、早足に出立の準備を進めていたイエルに近づいていく。

 そしてイエルとセスの二人に状況を説明……と言ってもファウスはもちろん、アーガン自身もよくわかっていない。

 だからおそらくアーガンの傷の状態には触れず、アーガンが目を覚まし、今の状態なら移動が可能とだけ話したのだろう。

 慌ただしく出立の準備を始める。


 颯爽と行動に移すファウスに続きアーガンも立ち上がろうとするが、まずは膝で眠るノエルの肩を揺すって起こそうとする。

 このままではアーガンが立てないのだが、ノエルはまったく反応を示さない。

 改めて揺すってみるけれど、やはり反応がない。

 これはおかしい……と思ったアーガンだが、そのアーガンがなかなか立ち上がらないことをセルジュも奇妙に思ったらしい。


「どうした?」

「目を覚まさない」


 掛けられるセルジュの声に答えたアーガンは、次の瞬間、ハッとしたようにノエルの口元に手を当てて呼吸を確かめる。

 次に細い腕を取り、骨しかない手首で脈を確認する。

 セルジュもすぐ異変に気づいたらしく、身支度の手を止めて二人を見る。


「……どうだ?」

「息はある。

 脈も、弱いがある」


 つまり生きてはいる。

 だが何かおかしい。

 そういうことらしい。

 無理に起こすことをやめたアーガンはノエルを抱えようとするが、セルュに呼びつけられたイエルがその役を代わる。

 実際にセルジュが呼びつけたのはファウスだったが、昨夜のようなことがもう起こらないとは限らない。

 そう考えると、やはりファウスはセルジュに付いていてもらいたいと、アーガンが言ったからイエルが交代したのである。


 セスはその昨夜のことを未だに恨んでいるらしく、話を聞いてノエルなど捨てていけばいいと意見して厳しく叱られる。

 詳しい事情を知らないとはいえ、ノエルを迎えに行った一行が肝心のノエルを捨てて帰れるはずもないのだから当然だろう。

 そもそも求められてもいない意見を言うことが間違いなのだが……。


 そのセスを先頭に、一行は可能な限り痕跡を消して野営地を離れる。

 もちろんどうしても残ってしまう蹄の跡を見れば、一行が向かったおおよその方角はわかってしまう。

 それは承知の上で、風を起こすなどしてそこまでの跡を消すなどの手間を掛けず、あえて町への到着を優先する。

 アーガンの傷の状態はもちろん、未だ目を覚まさないノエルのこと。

 そしてユマーズのこと。

 特にユマーズの脅威は完全に去ったとは言いがたく、一行が町への到着を急ぐ一番の理由かもしれない。


 昨夜は一度退いたユマーズだが、報告を受けたハルバルトから再度笛の回収を命じられる恐れがある。

 ハルバルトが、本来の持ち主である領主に回収した笛を返還するつもりでいるのならともかく、そうで無い可能性もあるからである。


 むしろそうで無い可能性のほうが高い。

 企みこそわからないけれど、ハルバルト卿バルザックは今の領主にとって敵も同然。

 笛を手にしても、到底おとなしく返還するとは思えないのである。

 そう考えればなおのこと、笛を手に出来るかもしれないこの好機を逃すとは思えない。

 ユマーズの再来襲は十分にあり得る可能性であった。


 魔石を使って魔力の底上げをしていたことから推測して、ユマーズ・ランベルトは魔術師ではない。

 だが魔力はあり、下位の魔術なら使うことが出来る。

 これは間違いない。

 ユマーズ・ランベルトの名前と除名処分のことを知っていたアーガンだが、そのことは知らなかった。

 騎士団にいた頃、ユマーズは諜報を任務とする小隊に所属していたから、おそらく情報が伏せられていたのだろ。


 そういう任務は魔術師団など他にもあり、上席執政官であるセルジュは使う側としてその存在を知っている。

 所属する人間の詳細な情報が伏せられていることも。

 情報収集の方法に隠形おんぎょうの魔術が多々使われることも。


 その使用方法としては、事前に潜入して隠形の魔術で姿を隠したまま密談などを盗み聞きするといったものである。

 問題点としては、魔術で姿を隠していても閉まった扉や壁を潜り抜けられるわけではない。

 だから知りたい情報が話されると思われる部屋や場所にあらかじめ潜入し、その時までじっと息を殺して潜んでいる必要があるということ。

 高い忍耐力と体力、そ魔力を必要とする。


 そういう意味では、行動を妨げるものがなにもないこんな荒野は好都合。

 だからアーガンたちは、人の出入りはあるが、扉でその接近を阻むことが出来る宿を目指すことにしたのである。

 蹄の跡から向かった町が推測されても、町に入ってしまえば人目もある。

 隠密行動を主とするユマーズはもちろん、ハルバルトも騒ぎを起こすことは避けたいはずだ。


 もちろんユマーズが追ってこないに越したことはない。

 それでも一刻も早く町に入りたい一行は、予定を変更し、一番近い町を目指して馬を走らせる。

 その先頭をセスに任せ、念のためノエルはこれ以上体が冷えないように毛布にくるんで、アーガンではなくイエルが抱え、ファウスが殿しんがりにつく。


 そうして一行が町に着いたのは昼頃。

 多くの人で賑わう町の外れ、駅に到着した一行に気がついた周囲がざわつく。

 アーガンだけでなく、手当をしていたファウスやセルジュも酷く血に汚れていたから無理もないだろう。

 新たな客の対応をするために近づいてきた駅の主人らしい男が、心配そうに声を掛けてくる。


「大丈夫かい、あんたら?

 ずいぶん血が……」


 男は心配した様子で話し掛けながらも他の男たちにも声を掛け、手分けして五頭の馬を預かる。


「シルラスのほうから来たのかい?

 あっちは今、獣被害が多いと聞いているが……」

「運悪く遭遇してしまったよ」


 こういう時はイエルの社交術が役に立つ。

 鞍に付けた荷物を外しながら肩をすくめてみせると、男に答えて言葉を継ぐ。


「こっちはたいしたことないが、斬り捨てる時に返り血を浴びてしまって。

 酷い有様だろう?」


 そう言ってアーガンを振り返ると、主人も同じようにアーガンを見る。

 その肩越しに見える大剣の柄を見て、なにかを勝手に納得したらしく大きく頷いてみせると、ノエルを抱えているため不自由そうに荷物を下ろそうとしているイエルに改めて声を掛ける。


「下ろしてやるよ。

 しっかり抱えててやんな」

「すまない、助かる」

「よほど怖い目に遭ったんだな。

 かわいそうに」


 頭から毛布で包まれたノエルを見て、獣に襲われた恐怖で体調を崩したとでも思ったようだ。

 このあたりはもうシルラスではないが、町に出入りする商人や旅人から話が広がっているばかりか、実際獣に襲われて大怪我をして町に辿り着いた者もあったらしく、荒野に増えた獣のことは知れ渡っているらしい。

 だからイエルたちがなにも話さないうちに、その様子を見て獣と遭遇したと思ったようである。


 さらに話を聞くとシルラスの知事であるハウゼン卿アロンの悪評も知れ渡っていて、何も手を打たないことを無能と悪態を吐く。

 さすがに獣が増えたのは水が原因ではないかという話にはならなかったが、いつこの町の周辺にも獣が現われるかわからず、気が気ではないとも。

 そんな話をしながら馬を預けると、一行は迷わず宿をとる。


 こちらでも一行の様子を見て勝手に状況を理解してくれたらしい。

 多くの客がすでに出立したこの時間は新たな客を迎えるために掃除やシーツの交換などに忙しいはずだが、宿の主人もおかみも、隣り合った二部屋を急いで用意してくれた。

 やはり忙しいにも関わらず、顔や手足を拭うために湯を用意して欲しいと頼めばすぐに用意してくれた。


 酷い血の染みが付いてしまったアーガンの上着は、右の袖口がすっかり裂けてしまっていたがこれは替えが利くものではない。

 だがノエルの服は古着で、着替えも鞄の中に入っている。

 とりあえずシーツを汚してしまわないように服だけ脱がせて肌着にし、顔や髪、手などを軽く拭ってやると寝台に横たえ毛布を掛けてやる。


 一向に目を覚ます様子のないその傍らでアーガンも上着を脱ぐと寝台に腰を掛け、包帯の代わりに何枚かの手ぬぐいを巻き付けた自分の右腕を改めて見る。

 そして隣の寝台に腰掛けたセルジュと、戸口に立つファウスが見守る中、それらを外してゆく。


「……傷がない」



【バルザック・ハルバルトの呟き】


「笛がセルジュ・アスウェルの手に渡っただと?

 セイジェルの仕業か。

 忌々しい……。

 だが、なぜセイジェルが笛のことを知っているのだ?」

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