37 火に熱を食わせる

「貴様が回収を命じられた笛の正当な所有者は領主ランデスヘルだ」


 セルジュの話を聞いても、まったく躊躇いがなかったわけではない。

 それでも笛から手を引くことを決めたユマーズは、セルジュに恭しく頭を下げる。

 そうしてセルジュたちから自分の口元が見えなくなったのをいいことに、低く唱えていたらしい。


「全ては白の領地ブランカ領主ランデスヘルのために……」


 不意にユマーズの足下に魔術陣が展開した……と思ったら、その姿が薄くなり、あっというまに闇の中に溶け込み見えなくなってしまう。

 おそらくまた隠形おんぎょうの魔術を使ったのだろう。


「あ! 逃げる!」

「追うな!!」


 ユマーズの姿が完全に消えるまで油断なくその動きを見ていたイエルと違い、完全に消えてからハッとするセス。

 抜き身の剣を片手に声をあげたと思ったら忙しく首を振って周囲を見渡す。

 もちろんそれを止めるのはイエルである。


「どうしてっ?!」

「追うんじゃない!」


 今にも闇の中に駆け出しそうなセスを、イエルに続いてファウスも止める。

 その傍らでは、左腕に抱えていたノエルを手放したアーガンが勢いよく尻餅をつく。

 その衝撃が傷に響いたのか、背後から聞こえるアーガンの低い呻き声に、反射的に振り返るノエル。


「アーガンさま、ち……ち、いっぱい。

 いたい……たい……」


 目に一杯溜めた涙を堪えきれず流すノエルは、四つん這いにアーガンにすがりつこうとするけれど、直前でその肩を思いきり引き戻される。

 セスである。

 利き手に剣を握ったままのセスが背後に迫り、空いたもう一方の手でノエルの肩を力任せに引き戻したのである。


「お前、見えるんだろ!

 あの野郎を探せ!

 よくも隊長を……絶対に逃がすなよ!

 逃がしたらお前もただじゃ済まさないからな!」

「セス!

 やめろと……」

それ・・にかまうな!」


 ノエルの肩を掴んだまま早口にまくし立てるセス。

 それを止めようとするイエルだが、セルジュの声が割って入る。

 ずっとノエルのことを 「それ」 と呼んでいたセルジュだが、どうやらここでの 「それ」 はノエルのことではないらしい。

 ハッとしてセルジュを見るイエルだが、まずはファウスに指示が出る。


「ファウス・ラムート、アーガンを頼む。

 イエル・エデエ、馬を寄せろ。

 風を起こして血の臭いを散らす」


 獣の嗅覚は人の何倍も鋭い。

 この広大な荒野の中、おそらく何頭かは血の臭いに気づき、すでに闇の中を近づいてきているはず。

 その嗅覚を、風を使って欺こうとするセルジュの指示に、ファウスとイエルは即座に従い動き出す。


「隊長、こちらへ」


 アーガンに肩を貸して少し強引に立たせたファウスは、野営地の風除けにするために選んだ大きな岩を背もたれ代わりにしてすわらせる。

 一方のイエルは、一人で五頭の馬を動かすのは難しいと考え、セスに声を掛ける。


「セス、馬だ!」

「でも、あいつが……」

「早くしろ!」

「わ、わかった」


 イエルの剣幕に負けて剣を鞘に収めようとしたセスは、突き飛ばすようにノエルの肩を放す。


「お前のせいでこうなったんだ。

 ただで済むと思うなよ」

「セス!」


 獣の気配を感じるのだろうか?

 落ち着かない様子でしきりに足踏みをしたり、怯えるように低く嘶いななく馬を強引に火に寄せるイエルとセス。

 セルジュも、さすがにこの時ばかりは自分しか手が空いていないことがわかってるらしく、セスに突き飛ばされるまま地面に突っ伏しているノエルを抱え上げ、火の側にすわらせる。


「ここを動くな」

「おこ……ないで」


 怯えるノエルは鞄を抱えて身を小さくし、今にも消えそうな声で必死に訴える。

 いつもノエルには関心を示さないセルジュだが、この時はほんの一瞬鞄に目をやるも、すぐに視線を逸らせ、そのまま背を向ける。

 その足下から起こった風が野営地を中心に円を描き、乾いた大地の表面を掠りながら幾重にも波紋を広げる。

 もちろん魔術ではない。

 魔力を操作して風を起こしているだけである。


 白の魔術師最強といわれるクラカライン家の血を引くセルジュが、その強大な魔力を使って起こした風の波紋を幾重にも広げ、淀む血の臭いを散らす。

 そうやって広範囲に広めることで臭いを薄め、どこから血の臭いが漂ってきているのかをわからなくしたのである。


「イエル・エデエはこのまま周囲を警戒」

「わかりました」


 この時にはさすがにセスも状況を理解していたから、返事をしながら睨んでくるイエルとともに闇に目を懲らして獣の襲来を警戒する。

 風で臭いを散らし終えたセルジュは、すぐに踵を返してアーガンの元へ。

 先に止血を始めているファウスを手伝う。

 魔術を使っていないとはいえ、その影響範囲が広ければ広いほど魔力を消耗し、並みの魔術師では虚脱感を覚えるかもしれない。

 けれど当代白の魔術師四強の一人に数えられるのは伊達ではないらしい。

 表情にさえ疲れを見せることはない。

 ノエルだけはずっと火の側で小さくなって震えていたが、アーガンの手当をする二人の会話に耳を止める。


「もう少しこちらへ。

 手元が暗い」

「申し訳ございません」


 小さな焚き火を灯りにしているため、すぐに手元が暗くなってしまうらしい。


(ひ……ひ、あかるくする)


 焚き火を大きくすれば周囲が明るくなる。

 そう考えたノエルは、焚き火の傍らに固めて置かれた枯れ草やら枯れ葉やらを火にくべようとして、思い留まる。

 以前、弟のマーテルがエビラに自慢するように、竈に火を入れて見せた時のことを思い出したのである。


 昨日、今日と野営の焚き火に点火をしたのはアーガンだが、まだ見習いですらないマーテルと違って彼はれっきとした赤の魔術師である。

 焔の召喚は魔術ではなく、赤の魔力操作の基本中の基本と言ってのけただけあってあまりにも簡単に召喚したため、黙って見ていただけのノエルには何もわからなかった。


 けれどマーテルは母親エビラに自慢するように、あるいは復習するように言葉に出しながら竈にくべた薪に火を点け、さらに火を大きくしていた。

 炎を見つめるノエルはその時のマーテルの様子を、その時のマーテルの言葉を思い出す。


(こうやって……)


 マーテルがやっていたように小さな両手の平を焚き火にかざしたノエルは、次にマーテルの言葉を思い出す。


「全身の熱を手の平に集めるようにしてさ、そのまま手の平から火に向かって……ちがうな。

 そうだなぁ、火に熱を食わせる感じかな」


 赤の魔術師であるアーガンに比べてまだまだ未熟なマーテルは、少し偉そうにそんなことを話していたけれど、点火にも随分と時間が掛かったし、最初に灯る小さな火を大きくするのにもさらに時間が掛かっていた。

 短気なエビラは、いつもならとっくに癇癪でも起こしていそうだが、この時は息子の成長がよほど嬉しかったらしい。

 珍しいくらい辛抱強く待っていたのである。


 アーガンと対峙した時、一瞬で手の平に召喚して見せたアーガンと違い時間の掛かったマーテルだが、あれでも最初の頃に比べればずいぶんと早くなっている。

 つまり最初の頃は本当に時間が掛かっていたから、エビラが待ちくたびれて癇癪を起こさなかったのは本当に珍しいことだった。


 その様子を部屋の隅で小さくなって見ていたノエルは、マーテルの言葉を改めて思い出してみるが、あまりに曖昧で意味が理解出来ず、感覚が掴めない。

 どうやったら全身の熱が手の平に集まるのか?


 そもそも全身の熱とは?


 理解に苦しむノエルだが、かざした手の平には確かに焚き火の熱が感じられる。

 この熱をどうにかしたら火が大きくなるのではないか……と考えた矢先、突然火柱が上がる。

 それはアーガンの背丈ほども高く、ノエルの両腕では抱えきれないほど太い火柱で、上がったのは一瞬のこと。

 次の瞬間には元の小さな焔に戻ったが、驚いた全員の視線がノエルと焚き火に集まる。

 声を上げるのはセルジュである。


「なにをしている!」

「ごめんなさい!

 おこらないで……おねがい、おこらないで」


 鋭く厳しいセルジュの言葉に、ビクリと身を強ばらせたノエルはセルジュを振り返る。

 直後、アーガンの 「セルジュ」 という呼び掛けがあったが、そのあとはこの静けさの中でも聞こえないほど声が小さくなってしまう。

 代わりにファウスが言う。


「公子、落ち着いてください。

 火の番をしてくださっているだけです」


 まるで今の一瞬の出来事などなかったかのように、落ち着いた様子で話すファウスに、セルジュは自分の取り乱しように驚いたのか、それとも別のなにかに驚いたのか、少し言葉に詰まりながら応える。


「あ……あ、ああ、そうだったな。

 そのまま火を見ていてくれ」

「公子、もう少し力を……」


 怯えるノエルはなにも答えなかったが、セルジュは再びファウスを手伝う形でアーガンの手当をする。

 代わりに戻ってきたイエルが、周囲を警戒しながらも集めていた枯れ枝や枯れ草などを置きながら声を掛ける。


「火傷などはありませんでしたか?」

「イエルさま、おこらないで」

「誰も怒っていませんよ。

 火を絶やさないように、見ていてくださいね」


 返事の代わりにわずかに頷いたノエルは、イエルが立ち去ると、再び焚き火に両手の平をかざす。

 同じ失敗をすれば次こそ怒られる。

 そう思うだけで恐ろしかったけれど、火が消えてしまったらもっと怒られるに違いない。

 かといってここはどこともわからぬ場所で、周囲には獣がいて逃げることも出来ない。


(すこしだけ、すこしだけ、すこしだけ……)


 何度も同じ言葉を心の中で繰り返し、一心に念じる。

 すると小さな焔はほんの少しずつ大きくなってゆく。

 けれどまた大きな火柱を上げれば怒られる。

 その恐怖心が上手く働いたのか、最初の小さな焔の一回り、あるいは二回りくらい大きくなったところで焔はその成長を止める。


 そうしているあいだにも、焔を挟んだ向こう側でアーガンの手当は進む。

 傷口は肘から手首に掛けて長く深く広がっていたが、幸いにしてユマーズの剣に毒は塗られていなかったらしい。

 水が使えないため傷口を洗うことは出来ないが、ファウスとセルジュの二人がかりで、手ぬぐいなどで肩口を縛ったり傷口を押さえて止血に努める。


 出血の多さで虚血感はあるようだが、アーガンの意識もしっかりしている。

 だから二人に言われずとも傷口から目を背け、二人の手を煩わせないよう努める。

 それでもやはり、ようやくのことで手当を終えた時にはすっかり疲れ果てていた。



【セルジュ・アスウェルの呟き】


「セスに投げつけたのは、おそらく使い終わった魔石。

 だが離脱時にも再度隠形おんぎょうを使っていたということは、他にも魔石を、少なくとも一つは持っていたということか。

 離脱に備えていたとは、用意周到なことだ。

 諜報については詳しくないが、その程度のことも考えられなければ務まらぬということか。

 いったい幾つ用意してきたのやら。


 もし、それらの全てをハルバルトが用意して与えたとしたら、それだけあの男を信用しているということになる。

 あのハルバルトが直接渡すとは思えないから神官……ということは、シルラスの神殿はハルバルトに掌握された……いや、それでは叔父上の書信が領都まで届かぬ。

 届いたということは……そもそも叔父上は、数年とはいえハウゼン家で過ごされている。

 シルラスの神殿とハウゼンが上手くいっていないことは知っていたはずだ。

 頭のよい方だとはセイジェルから聞いていたが……わたしは命拾いしたかもしれん」

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