2 クラウス・ハウゼン (2)

 ここ数年、赤の領地ロホでは旱魃かんばつが起こっていた。

 元々赤の季節は、他の三つの領地に比べて暑さが厳しい土地でもある。

 旱魃も珍しくはなかった。

 だが毎年のように起ることはなかったし、その地域が南から、年を重ねるごとに北へと広がりつつある。

 いずれは自分たちが住む村も町も熱砂に飲み込まれてしまうのではないか?

 そんな不安からか、赤の領地ロホの民には、四聖しせいの和合に乱れがあるのではないかと噂をする者もあった。


【円環の四聖女】


 四つの領地の中央に位置する中央宮。

 そこで祈りを捧げ、和合を維持する四聖女たち。

 明らかな異常気象に直面する赤の領地ロホでは、その四聖女たちになにかあったのではないかという噂も流れつつある。

 特に四聖女の一人、赤の聖女に。


 当代赤の聖女ルビはラマア・シスタという30代の女性である。

 就任当初から四聖女の中ではもっとも魔力が低いとされていたが、その魔力が衰えるにはまだ歳若い。

 しかし中央宮は四人の領主たちによって管理される聖なる場所。

 民はもちろん各領の貴族ですら、その管理運営はもちろん、許可なく立ち入ることさえ許されない場所である。


 ただ赤の領地ロホの貴族だけは、赤の聖女ルビに問題ありと思われることがあれば領主に進言することは出来る。

 領主もまた、赤の聖女ルビに問題や異常ありと独自に判断すれば、速やかに後継を選出し継承の準備をするだろう。


 だがその当代領主が幼すぎた。

 父親に当たる先代領主が不慮の事故で早世したためである。

 まだ一桁のこどもにすぎない当代領主に代わりその母親が摂政を務めているが、女性であることに貴族の反発が強い。

 そんな不安定な政情が、領民の不安に拍車を掛けているのだろう。


 白の領地ブランカで生まれ育ったクラウスも、今は一領民としてこんな辺境でひっそりと暮らしている身とはいえ、その程度のことは知っている。

 実際にこの村も、赤の領地ロホ内でも北西の端、白の領地ブランカとの領地境りょうちざかいに接したところにあるが、南ほどではないとはいえ例年にない暑さが続いている。

 旱魃の噂も当然届いている。

 薬草の知識を活かして薬屋の真似事をしているクラウスの許にも、近隣の村や町から、そんな暑さにやられた病人のために薬を求める客も増えており、クラウス自身の感覚として実感していた。


 だがアプラ・ハウゼンは所詮放蕩息子。

 隣接する白の領地ブランカの、領地境に接するシルラスの知事を父に持つ貴族の公子として、赤の領地ロホを支援することなどを考えるはずもない。

 そもそも他領への干渉は、双方の領主の合意がなければ出来ないのだから。

 わざわざ危険な領地境を越え、兄に会いに来たのも自分のためである。

 口では 「小金」 などと言いながらも、娘一人身売りするならそれなりのまとまった金になる。

 そしてその方法を考えてきたということは、おそらくそれなりにまとまった金が必要なのだろう。


(なぜ?)


 一瞬そう考えたクラウスだったが、すぐに考えることをやめた。

 謙遜でもなんでもなく、紛れもない愚弟なのだ、アプラは。

 そしてこの愚弟の考えることなどしれていた。

 そもそもクラウスとアプラに血のつながりはなく、本当の兄弟でもない。

 まして今は形式上の縁すら切れており、助けてやる義理もなければ、そんな愚かな提案に乗ってやる必要もない。


(手を打っておいて良かったな。

 問題はあの手紙がレジーネの息子に届くか、だが……)


 クラウスにはクラウスの思惑がある。

 だがそんなことなど知らないアプラは饒舌に喋り続けている。


「このあたりだって、今年は凌げても来年はわからねぇ。

 だったらさっさと売って金に換えちまったほうがよくね?

 娘だって餓死するよりいいに決まってる。

 上客が付けばいい思いだって出来るんだ。

 まぁ兄貴殿の娘にその器量があればの話だが」


 とか


「手はずは俺が整えてやるよ。

 白の領地ブランカに連れて行って売りゃあ、逃げ出しても戻ってこられやしないし、娘だって諦めもつくだろうよ」


 自分の立てた計画にぬかりはないなどと、自信満々に喋り続けてクラウスを呆れさせる。


「それにだな」


 不意に語気を改めたアプラは、ずいっとクラウスに顔を近づける。


「これは兄貴殿のためでもあるんだぜ。

 息子を神殿の学校に通わせたいんだろ?

 村の奴らに聞いたぜ。

 そのために金が必要だって、嫁御にもせっつかれてるらしいじゃねぇか。

 まぁ俺にはあんなところに行きたがる奴の気が知れねぇが、娘なんて一人いれば十分だってことはわかる。

 なんだったらいなくても問題ねぇくらいだ。

 だからさ、まずは薄汚い黒髪を売って一儲けしようぜ。

 あんなの育てたって仕方ねぇし」


 言いたいことを全て言い終えたアプラが、最後のだめ押しに 「な、いいだろ?」 と同意を求めたところで、ようやくクラウスが言い返す。


「帰れ! 帰ってくれ!

 わたしはもうあの家とは関係ないんだ!

 二度と来るんじゃない!!」


 本当に珍しいクラウスの剣幕だ。

 二人に気づかれないよう物陰で聞き耳を立てていたノエルは、父の剣幕にビクリと体を強ばらせる。

 けれど見つかればきっと怒られる。

 話を盗み聞きしていたことが知られれば殴られるかもしれない。

 そう思うだけで怖くて怖くて足がすくみ、逃げることも出来ず身を小さくしてブルブルと震えているだけ。


 幸いにして見つかることはなかった。

 実際には、クラウスのほうは気づいていたかも知れない。

 けれど彼は、ノエルに限らず自分のこどもに興味がない。

 だから自分の邪魔さえしなければ特に何も言うことはない。

 もう一方のアプラはまったく気づいていない。

 それこそ目の前のクラウスが本気で怒っていることにすら気づく様子もないのだから、物陰で息を潜ませているノエルのことになど気づくはずがないのである。

 最後までヘラヘラとして、「気が変わったら声掛けてくれよな、言い値で買ってくれる店を知ってるからさ」 と言い残し、馬で去っていった。


 クラウスが倒れたのはこの少しあとのことである。

 この赤の季節の収穫を全て終え、これから短い期間で収穫出来る白の季節の作物を……という頃のこと。

 同じ村に妻エビラの兄ノージ・マイエルも一家で暮らしているのだが、ノージもエビラも 「赤の季節の疲れが出たのだろう」 とか 「今年は特に暑かったから」 などと言ってたいした心配もしなかった。

 それどころかなかなか回復しないクラウスに、「いつまで寝ているのか?」 とか 「次の作付けはどうするんだ!」 などと心ない言葉を投げつける始末。


 他の三つの領地に比べ、年中を通して暖かい赤の領地ロホ

 青の季節になっても雪が降ることは稀で、降っても積もることは滅多にないし、積もってもすぐに溶けてしまう。

 そんな青の季節の始まりまで収穫が続くため、特にノージは人手が必要だったのだろう。

 けれどクラウスはそのまま、回復することなく還らぬ人となったのである。


 しかしクラウスの葬儀では、来るはずの神官が来ないという珍しい事態が起こった。

 村に死者が出たのだから、村長はいつもどおり町役場に届け出た。

 そして役場から連絡を受けた神殿は、葬儀を執り行うための神官を村に派遣する。

 ここまでは通常の手続きなのだが、今回は派遣されなかったのである。


 南部では旱魃による体調不良から死に至る領民が増えたため、管轄の神殿は神官不足に喘いでいる。

 それこそ多忙さから神官が体調を崩して倒れ、人手不足に拍車を掛けているという。

 だがこのあたりではそこまでの被害が出ておらず、クラウスの葬儀に神官が来なかったのは別の理由から。

 彼が赤の領地ロホに帰属せず、白の領地ブランカの貴族のままだったからである。

 その仕組みの詳しいところは、おそらく十七歳になる長女のミゲーラにもわからなかっただろう。

 八歳になる長男のマーテルに至っては気にすらしていなかったようだが、そのために妻のエビラはマイエル姓のまま。

 ミゲーラを筆頭に三人の子たちもマイエル姓なのだと村長に説明されたが、物陰に潜んで話を聞いていたノエルにもよくわからなかった。


 おそらくエビラもよくわかっていなかったに違いない。

 病に伏したクラウスが死ぬとも思っていなかったに違いない。

 だから平然とケツを引っぱたいて叩き起こすようなことをいったのだろう。

 だから本当に息を引き取るとひどく驚いていた。

 けれどオロオロしていたのも最初だけで、すぐ兄のノージ・マイエルに相談。

 赤の領地ロホの神官が葬儀を執り行ってくれないのなら、白の領地ブランカの神官に頼もうということになった。


 息子を神官にして楽に暮らしていこうなどと企む兄妹らしく、ノージもエビラも、赤の領地ロホ内にも白の神殿があり、白の神官がいることは知っていたがどこを探せばいいかわからず、顔役という立場を利用したノージは、村人の一人を、領地境を越えた山向こうにあるハウゼン家まで報せに走らせたのである。


 もちろん下心もあった。

 上手くいけばハウゼン家に迎え入れられ、楽な暮らしが出来るのではないか……と。

 けれどハウゼン家の返事は 「わかった」 とだけ。

 葬儀は勝手にそちらで執り行ってくれてかまわないというあまりに素っ気ないもので、エビラもノージもあてがはずれたけれど、村人たちの手前、神官がいないまま、やむなく形だけの葬儀を執り行ったのである。


 その日は珍しく、一日怒られることもなく食卓にも着くことが出来たノエル。

 なにもしない末っ子のマーテルはともかく、エビラもミゲーラも葬儀の準備から後片付けまで忙しくてかまう余裕もなかっただけのことだったのだが、その前に置かれた皿には、いつもどおりほんの少しのスープしか入っていなかった。

 でもそれでもよかった。

 ここ数日は不安であまり食欲もなかったから食べられるだけで十分だったし、今日は一日怒られもせず、叩かれもしなかったのだから。

 スープがほんの少ししか入っていないのもいつものことだし。

 けれどその夕食の席にユマーズが、亡くなったばかりのクラウスの椅子に、さも当然という顔ですわっていたことには違和感を覚えた。


 流れ者のユマーズが、村はずれにある廃屋に流れ着いたのはいつの頃だったのか。

 誰ともなくその存在に気がついた時には住み着いていたのである。

 最初こそその姿を見掛けるたびに訝しがっていた村人たちだったが、人懐こい性格をした彼は、気がつくと雑談などを交わす輪に迎え入れられていた。


 そんなユマーズと生前のクラウスは、特に親しかったということはない。

 むしろクラウスは少し人嫌いなところがあったから、村人はもちろん、義兄のノージとも親しく付き合うことをしなかった。

 よく言えば人懐こい、悪く言えば馴れ馴れしいユマーズならなおさら。

 そのユマーズが当たり前の顔をして葬儀に参列していたことは、村人も違和感を覚えたほどである。

 しかも夫の葬儀を終えたばかりだというのに、人目も憚らず若い男と腕を組んで家に戻っていったエビラ。

 その不謹慎さに村人たちは顔をしかめたけれど、無理矢理村の顔役になった兄のノージを恐れてなにも言えなかった。


「その薄気味の悪いガキを売っちまおう」


 ユマーズが、唐突にそんなことを言い出したのは夕食が始まってすぐのことである。

 見た目の年齢は三十歳前後。

 ありふれた茶の髪に茶の瞳をしたユマーズは、名前以外は出生地もわからない流れ者だ。

 何気ない村人との会話でも、ユマーズは自分のことを話さないから誰も知らないまま。

 おそらくエビラも知らないに違いない。

 だが顔が良く、エビラに限らず村の女たちからは特に人気があった。


 そもそもユマーズが村に現われたのはいつだったのか?

 そのことすら村人もよく覚えていないのである。

 どこからともなくいつのまにか流れてきて、気がつくと村はずれにある廃屋に住み着いていた。

 最初は胡散臭げにその姿を見ていた村人たちだったが、人懐こい笑顔や性格で、いつしか村に馴染んでいったのである。


 夫のある身でありながらエビラが不貞を働いていたことは、クラウスが亡くなってすぐ、それこそクラウスの葬儀が終わったその日から、ユマーズがエビラの家で暮らし始めたことで村中に知れ渡ることになった。

 四十歳近いエビラが、亡夫クラウスとのあいだに三人もの子をもうけながら何を考えているのかと村人たちは呆れたけれど、彼女の兄ノージ・マイエルを恐れて表立ってはなにも言えず。

 噂を聞きつけたノージもいい顔はしなかったけれど、亡くなった義弟クラウスの代わりにユマーズが畑を手伝ってくれるとでも思ったのだろう。

 わざわざその日の夜、エビラの家まで様子を見に来たけれど、妹を咎めることはしなかった。


 けれどこの時のノージの話がユマーズには迷惑だったらしい。

 それこそ明日の朝から早速ノージの畑を手伝ってくれと言われ、面倒に思ったユマーズはこんなことを言い出したのである。

 ノエルを売ってまとまった金を手に入れ、それでノージに手を打たせようという考えだろう。


 少し前、納屋の陰で見知らぬ男と話していた父クラウス。

 ユマーズの発言にその時のことを思い出したノエルは、恐怖を覚えて身を強ばらせる。

 その鋭い目で一瞥された瞬間に心臓が止まりそうになる。

 そんなノエルを見てユマーズがなにを思ったかはわからないけれど、ふんっと鼻を鳴らすように笑うと視線をエビラに戻し、少し前、ノージが訪れた時のことを話し出した。



【クラウス・ハウゼンの呟き】


希少種オブシディアンはこの世に二人といないと聞いたが、その呼び名があるということは、ノワールが生まれるより以前に存在が確認されていることを意味するはず。

 出生率の低さゆえの希少種なのか、それともなにかしらの意思により、一つの時代に一人しか生まれないものとされているのか。

 いずれにせよ当代の希少種オブシディアンはわたしの手にある。

 興味はないか? レジーネの息子よ」

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