1 クラウス・ハウゼン (1)

 ノエルの朝は早い。

 昨夜も姉のミゲーラに寝台を追い出されたため、毛布にくるまって床で目を覚ます。

 いつものことである。

 ミゲーラがノエルを寝台に入れるのは、寒い青の季節だけ。

 とくに暑さが厳しい赤の季節は絶対に入れることはない。

 だがノエルが夜明け前に目を覚ますのは季節にかかわらず、いつものことである。


 灯りを点けると怒られるので暗い中を手探りで着替えると、伸びるに任せ、ろくに手入れもされていないボサボサの髪を手早く編んで一つにまとめる。

 この時間ならまだ村人はほとんど起きておらず、外に出ても出会うことはない。

 だから髪は隠さず、手桶を持って家を出る。


 けれど村の共同井戸は家から少し離れたところにあり、幼いノエルでは、手桶一杯に水を汲んでは運ぶことが出来ない。

 一度に運べるのはせいぜい半分くらいだから、その分回数を往復しなければならず時間が掛かる。

 ようやくのことで、その日一日家族が使う飲み水を汲み終えると、今度は竈の掃除である。

 それが終われば床掃除である。


 その頃になって姉のミゲーラが起きてきて、一足先に起きていた母エビラを手伝って朝食の準備を始める。

 でもノエルは手伝わない。

 つまみ食いをするからと、エビラに、食事が出来るまで床を拭き続けるよう言い付けられているのである。


 そうして朝食が出来る頃、父のクラウスと弟のマーテルが起きてくる。

 だがようやく椅子にすわって休むことの出来たノエルの前に置かれた皿には、スープがほんの少ししか入っていなかった。


 一家が住むのは小さな村でとても裕福とは言えなかったけれど、飢えるほどに貧しくもない。

 けれどいつもノエルに用意されるのは、ほんの少しのスープだけ。

 これだって育ち盛りの弟マーテルが、用意された自分の分だけでは足りない時は、平然とノエルの食べかけを奪う。

 そればかりかエビラの機嫌が悪い時は、ノエルの分だけ朝食が用意されないこともある。


 竈の掃除を終えたらすぐに帽子を被り、その中に髪を入れていつも隠しているのだが、先日はたまたま帽子を被る前にエビラが起きてきてしまい、機嫌を悪くしたエビラはノエルの朝食を用意しなかった。

 理由は、エビラがノエルの黒い髪と黒い瞳を嫌っているからである。


 円環の聖女によって結ばれた四聖の和合。

 その誓約によって守られるこのマルクト国は、緑の領地ベルデ赤の領地ロホ白の領地ブランカ青の領地アスールの四つの領地からなり、それぞれを治める四人の領主による合議制で治められている。

 そのため王はいない。


 代わりに四聖女が象徴として立つ。


 大地と植物を司る緑の領地ベルデの民は地の加護を。

 焔と熱を司る赤の領地ロホの民は焔の加護を。

 光と風を司る白の領地ブランカの民は風の加護を。

 水と冷を司る青の領地アスールの民は水の加護を受け、それぞれの領地に住む人々には、受ける加護がその髪や瞳に表われる事がある。


 多くの民は、この大陸に多いとされる茶の髪に茶の瞳を持つため、加護がその髪や瞳に表われる者は魔力があるとされた。

 だがどの加護にも当てはまらない黒い髪や黒い瞳が生まれることはないとされ、その黒い髪と黒い瞳を持って生まれたノエルは、不吉だ、気味が悪いと、母エビラだけでなく村中から忌み嫌われていた。

 ノエルが夜明け前に水汲みをするのは、そんな村人を避けるためである。


 父クラウス・ハウゼンと母エビラ・マイエルのあいだには、ノエルの他にミゲーラとマーテルという子があるけれど、長女のミゲーラは茶の髪に茶の瞳と珍しくはない色をしている。

 長男のマーテルは姉のミゲーラより赤味の強い茶の髪に茶色い瞳をしているが、赤の領地ロホでは特別珍しくはなく、同じ村に住む従兄弟のハノンとラスンの兄弟も似たような髪色をしている。

 肝心の母エビラは、顔つきから娘のミゲーラそっくり。

 誰が見ても紛れもない母子だが、ノエルは、エビラはもちろん、父のクラウスとも似ていない。

 そもそもクラウスは、山一つ越えた向こうにある白の領地ブランカの出身らしく、赤の領地ロホでは珍しい枯れ草色の髪に綺麗な緑色の瞳をしている。

 だがノエルはそんな両親の許に兄弟の中でただ一人、黒い髪に黒い瞳を持って生まれたのである。


 黒い髪と黒い瞳にはどんな加護があるのか?


 大きな町にある神殿から、定期的に近隣の町や村々を巡回する神官たち。

 そんな彼らによって、従兄弟のハノンとラスンは赤の魔力があると認められた。

 最近は弟のマーテルも。

 だが黒い髪と黒い瞳を持ったノエルのことは忌避し、遠巻きに、本当に黒い髪をしていることだけを確かめると、「黒に魔力は無い」 と言い、ノエルに近づくこともせず帰って行った。


 そんなことも母のエビラには面白くなかったらしく、この時は三日ほど食事を抜かれた。

 姉のミゲーラも魔力は無いと言われたけれど、ミゲーラとノエルは七歳違いの姉妹である。

 すでに成人しているけれど、決まった相手もいない彼女は実家で暮らし、母や他の村の女たちと一緒に村長の家の離れで、村長が町の仕立屋から請け負ってくる仕立ての仕事をしている。

 その稼ぎの全部を家に入れているわけではないけれど、家計の足しになっていることは確かだ。


 それにエビラに似て気も強く、時にエビラの手に負えないほどの気の強さを見せることもある。

 そんなミゲーラに手を焼いた日のエビラは機嫌を悪くし、当然のようにノエルに当たった。

 学校に行かせることもせず自分の代わりに家事をさせ、決して褒めることもなければ見向きもせず、機嫌が悪ければ平気で八つ当たり。

 食事も満足に与えてない。

 そして父クラウスも、そんな妻子たちを止めることはしなかった。


 その日、いつものように朝食の後片付けを終えたノエルは近くの川で洗濯をして、 そのあとは誰もいない家を掃除する。

 終わると、洗濯物を取り込む夕方まで特にすることはない。

 だからといって村の子どもたちと遊ぶこともない。

 そもそも村の子どもたちも大人を真似、ノエルとは口を利くこともしないのである。


 そのためのエルは、だいたいは夕方まで休むか父を手伝って過ごす。

 特に暑さが厳しく疲れやすい赤の季節は、姉のミゲーラもいないから、寝台を使って休んでいることが多い。


 だがその日は少し調子も良かったから、畑に出た父を手伝おうと家を出たところ、父クラウスが、見慣れぬ男と歩いているところを見掛けた。

 他の村人と同じように古着を着たクラウスは、やせ形で背ばかりが高く、枯れ草のような色をした髪が目立つ。

 持って出たはずの鍬は畑に置いたままなのか、手にはなにも持っておらず、見知らぬ男の足を促すように先に立って歩いている。


 少し遠目に見ても村人ではないとわかるその男はクラウスより随分と若く、見たこともないほど派手な服を着ている。

 おおよそ農作業には向かない華美な服で、靴にまで装飾が施されているほどだ。


「お父さん?」


 その人、誰? ……と続く疑問を飲み込んだノエルは、そっと二人のあとを追いかけてみる。

 クラウスが畑にいなければノエルも畑には出ない。

 村人の視線が怖いからである。

 いつもそうしていたから、この時もクラウスが畑にいないのならノエルも畑に行くつもりはない。

 代わりに二人を追いかけてみることにした。


 クラウス・ハウゼンは、その髪色が示すとおり山一つ越えた向こうにある白の領地ブランカの出身で、その姓は白の領地ブランカの貴族ハウゼン家のもの。

 村がある赤の領地ロホの貴族ではないが、近隣では知られた名である。

 そのハウゼン家出身のクラウスが領地境りょうちざかいを越えた赤の領地ロホで、それもこんな辺境の小さな村で農夫として暮らしている理由は、娘のノエルも知らない。

 クラウス自身話したがらない様子だから、ひょっとしたら妻のエビラも詳しいことは知らないかもしれない。


 だが貴族として高い教育を受けており、様々な知識を持っていた。

 その一つである薬草の知識を活かし、小さな畑で作物とわずかばかりの薬草を栽培。

 また村周辺で自生する薬草を摘み集め、薬屋の真似事を生業にして生計を立てていた。

 その作業場所として納屋を使っており、見知らぬ若い男の足を促すクラウスはその納屋の方に向かっている。


 クラウスが畑にいなければノエルも畑には出ない。

 理由は簡単だ。

 ノエルが一人でいると、その黒い髪と黒い瞳に難癖を付けてくる村の大人たち。

 たいがいの村人は忌み嫌うあまり無視がほとんどなのだが、中には理不尽な文句をつけてくる大人も少なくない。


 それに学校が終わる時間になれば、帰ってきた子どもたちがちょっかいを出しに来る。

 中には暴力を振るってくる子どももいるが、近くに大人がいると絶対に手を出してこない。

 クラウスは、ノエルが母のエビラに殴られていても、姉のミゲーラに苛められていても、弟のマーテルに蹴られていても止めることはない。

 けれど村の子どもたちは、やはり大人が見ていると出来ないのだろう。

 だからノエルは、決して自分を庇ってくれるわけではないとわかっているけれど、昼間、外に出る時は父のそばにいることにしていた。


 薬草の知識もなければさしたる力もないノエルに出来ることなどしれており、せいぜい草むしり程度。

 それでもなんとなく、調子のいい日は父を手伝ってそばにいた。

 その父が作業場所にしている納屋の方に、見知らぬ若い男と一緒に向かっているのを追いかけてみれば、その納屋のさらに裏手。

 人目に付かない場所で話し出す二人を、こっそりと追いかけたノエルは物陰からその会話に聞き耳を立てる。


「アプラ殿、このような場所までなんの用だ」

「相変わらず他人行儀だな、兄貴・・殿は」

「実際、わたしはもう、あの家とは関係ない」


 少しうるさそうに尋ねるクラウスに、若い男はヘラッとした調子で返す。

 するとすぐにクラウスは語気を強めて返す。

 けれど若い男はヘラヘラした調子で続ける。


「そんなこと言わないでくれよ、たった一人のじゃないか」

「なにを今さら……」

「なぁに、たいした用じゃないんだ。

 少しばかり小金を用立てて欲しくてさ」

「うちにそんな余裕はない」

「そんなこと言わないでくれよ、兄貴・・殿ぉ。

 最近親父殿が金を出し渋って困っててさぁ」


 きっぱりと断るクラウスだが若い男は少しも懲りる様子はなく、変わらずヘラヘラしている。

 その様子はまるで言葉が通じていないようで、クラウスにしては珍しく苛立っているらしく語気を強めたまま言い返す。


「遊びがすぎたのだろう。

 自業自得ではないか」


 クラウスと若い男に、髪の色はもちろんその顔立ちにも似たところはないが、男は確かにクラウスを 「兄貴殿」 と呼び、自分を 「弟」 と言っている。

 そもそもクラウスがハウゼン家の跡取りなら、こんなところで農夫や薬師の真似事などしていないだろう。

 実はハウゼン家にはもう一人 「放蕩息子」 と呼ばれる跡取りがおり、その悪評は、領地境を越えて知られていた。


 女好きで酒好き。

 おまけに賭け事も大好きという絵に描いたような放蕩っぷりで、領地境を越えた赤の領地ロホでも派手に遊び、騒ぎを起こしているらしい。

 いまクラウスと話している男が、その 「放蕩息子」 であるアプラ・ハウゼンなのだが、会ったこともない叔父の顔はもちろんその名も知らないノエルは、ただ納屋の陰に隠れて父とアプラの話しに耳を傾ける。


「そもそもハウゼン卿に、わたしと会っていることが知られたら困るんじゃないのか?」

「言わなきゃバレねぇよ。

 それよか金だよ、金」

「ないものはない」

「だからさ、調達する方法を考えたんだ。

 ちょっと聞いてくれよ」

「方法?」

「そう、いい方法だ。

 兄貴殿には娘が二人いただろう?

 一人売っちまおうぜ」


 いくらクラウスが断ってもしつこく食下がるアプラを、クラウスはなにを言い出すのかと怪訝な表情を浮かべて返す。


「娘は一人いれば十分だろ?

 聞けば下の娘は気味の悪い黒髪だっていうし、売っちまっても全然かまいやしないだろ?」


 クラウスの下の娘といえばノエルのことである。

 納屋の陰に隠れていたノエルはアプラの話を聞いて、束ねた髪を押し込んだ帽子を、両手で抱えるように抑えつける。


 赤の季節の暑さが厳しい赤の領地ロホでは、帽子を被るのは珍しくない。

 平民も、貴族も。

 広い赤の領地ロホでも、ノエルたちが住む村は極めて白の領地ブランカに近い場所にあり、南の方に比べれば幾分ましとはいえ、やはり他の三つの領地に比べて暑さが厳しい。

 だから赤の季節は帽子が必須だが、ノエルが被るのは男物の帽子である。

 着ている服も歳の近い弟のお下がりだから、そうと知らずに見ればまるで男の子。

 しかも体格に差があるため服は大きく、ひどく古びている。


 それでも大きめの帽子は、伸ばしっぱなしの髪を束ねて押し込んでおくには丁度よかった。

 しかも家の中でも隠していないとエビラが怒るから、一年中髪を隠すために帽子を被っていた。

 その帽子を両手で抱えるように押さえながらじっと二人の話に耳を傾けていると、思わぬアプラの提案を、ようやくのことで理解したらしいクラウスが驚きを表わす。


「なにを……?

 下の娘は……いや、あれはダメだ。

 あれは……」

「じゃあ上の娘にするか?

 高く売るなら珍しい方がいいんだが……」

「冗談じゃない!」


 悪びれる風もなく、話をノエルから姉のミゲーラに変えるアプラに、最初は驚くだけだったクラウスもさすがに声を荒らげて怒りを表わす。

 滅多なことでは感情を荒らげることのない彼にしては、非常に珍しいことである。


「おいおい兄貴殿、落ち着いてくれ。

 話は最後まで聞いてくれよ」

「まだなにを……っ!」

「聞いたぜ、赤の領地ロホは今年も不作だそうじゃないか」



【クラウス・ハウゼンの呟き】

「あれは二人とおらぬ希少種オブシディアンだぞ。

 それ売るだと?

 真の価値を知らぬうつけが……!」

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