第3話

 セガキの後ろでアミが小さく息を呑み、小さな悲鳴を上げる。彼より前に踏み出そうともせず引き下がろうとしていた手を取って、無理矢理己の手前に放った。

「本日二度目やなオガラさん。まだ生きてるか?」

 声のする方へわずかに顔を向けた父親が、かすれた声で言葉を発する。その言葉は、父親を押さえつけている、もとい床に崩れ落ちないよう支えている二人にすら聞き取れない微かな音だった。

「えぇ?聞こえんわ」

 わざとらしく耳元に手をやってジェスチャーをするが、その挑発が聞こえていたのかすら怪しいぐらいに父親は衰弱している。

 周囲には転倒によるものか、あるいは抵抗したためか折れた歯が血のりと共に散らばっていて、電灯の光で乱反射してきらきらと光っている。

 鼻は折れ曲がり出血した血液が元の唇の色を思い浮かべることが難しいまでに塗り潰し、子供が化粧の真似事をしたかのような不自然に引かれた紅のようで、その様は道化である。

「ほー、ようやったなあ。ほんでハギ、よう殺させへんかったな。流石や」

 ボンの仕事兼趣味を眺めて関心と呆れの声を上げ、興が乗り危うく殺害してしまわないよう御したハギの苦労を慮り、頭が下がる思いだった。

 ハギは疲れた顔で会釈すると恨めしそうにボンを見やった。ボンは彼と対照的で、頬を上気させ、開いた瞳孔が興奮を物語る。

 服には返り血が、セガキが浴びたアミのそれとは比べ物にならないほどびっしりと染み、夢中で殴りつけたであろう拳には体液とどこかの肉片がごちゃ混ぜになって付着していて、ますますセガキの気が削がれる。

「ホンマお前にアミちゃん任せんで正解やったわ。整形連れて行かなあかんとこや」

 ボンは罰が悪そうに二人から目を逸らす。

「まあ、こいつを脅すために五体満足にしとかなあかんかったけど、今となっては――どうやろね?」

 男達の視線がアミを舐める。体を内側からひっくり返されているような逃れようもない不快感に苛まれアミは身を震わせる。

 自分に痛みと恐怖を植え付けた本人と、父親を生きているのか死んでいるのか分からない状況にまで追いやった男が次はアミ自身に手をかけようか否かと考えている居心地の悪さと無力感。

 非力で無能だと言い聞かせてきた己を、言葉によって自縄自縛していたのだと痛みをもってありありと思い知らされているのだ。

「アミちゃんは、どうしたい?なんぼかは選べるで?」

 セガキが曖昧にほほ笑む。その笑みに並ぶぐらいに彼の掲げた選択も余地の極めて広範な、人によってどうとも受け取れ可塑性に富むもの。こうやってアミのことを試しているのだ。アミはこれを生きていたいのかどうかを問うているのだと考えた。半死半生の目に遭うのはどうしても避けなければならず、また父親と同じ方法で苦しめられるのも御免被る。服従か死か――自由になりたければ死ね、生かされたければ従えと。

「わた、私は殴られたくない、です。死にたくないです……」

「ほーん。まああんなん見たら誰でもそう思うわな」

 痛みに対する恐怖、あれ以上の苦しみを父親が受けたのだとしたら是が非でも。

「要求だけされてもなあ……なんかない?料理とか――」

「料理、できます。ご飯作ってたので」

「料理……料理な。じゃあ料理してもらおかな」

 首の皮一枚で命が繋がったことに安堵しため息をついた。

「お父さんは助かりますか?」

「それは難しいなあ。こんな時間にやってる医者おらんし、第一その金は誰が払うんや?」

「お金……」

「そう。せやから――」

 セガキがホルスターから引き抜いた一本のナイフ。見慣れた調理用の包丁とは大きさも刃の厚みも、切断する能力以外の全てが一線を画しているこれは、命を奪うことに最も適した、殺意が形になったような一振り。

 研ぎ澄まされた能力の極限が作り出す計算された曲線が妖しく美しく、見つめる者の視線を吸い寄せ離さない。

「はいこれ持って」

「なんですかこれ……」

「変わった形やろ?包丁と一緒や」

 用途を考慮せず道具のように、言わずもがなナイフは道具であるから意味としては通ずるのではあるが、手渡そうとするそれは殺傷を意図して設計された代物であることぐらいはアミでさえ理解している。

「あ、持ち方教えてなかったわ。手のひらと指の間で持つねん。そんでそのまま真っすぐ突けばええから。簡単やろ?料理」

 言って指し示すのは満身創痍の父親。料理の意味するところ、実の父親にとどめを刺せとセガキは言っている。少女に人を殺めよと命令している。

「どうせ誰かが殺さなあかんからな。アミちゃんにさしたげる」

「でも……わたしっ……」

 向けられたナイフがアミをたじろがす。虫すら殺したこともないアミにとって他者を害することなど到底できるものではなく、自らどう踏み出すこともできず、ただ鋭く光る切っ先を見つめているだけ。

 あれに刺されれば痛いで済むはずがなく、フィクションで時折目にするような派手な出血と聞き取れない感動的な遺言をもって父親の儀式的な死を送り出す空虚な幻想と、ニュースで報道されるような現場と被害者である父親の写真、加害者であるアミの存在が知れ渡る現実的な妄想が頭をかすめる。

「別にな、無理にとは言わんねん」

 未だナイフを差し出したままセガキは訥々と続ける。

「ただこんな目に遭わせたんはお父ちゃんやし、娘のアミちゃんがケジメつけたんのも情けちゃうかなあ……」

「情け……?」

 言っている意味が理解できず、オウム返しをするアミを憐れむ目で見下ろすと、噛んで含めるようにセガキが言う。

「ホンマはな、自分で腹切らせようと思っててん。せやけどこれ見てみ?」

 促されて父親の両手を見る。辛うじて物はつかむことができたとして保持し握り込むことはできない。五指それぞれが明後日の方向にねじ曲がって折れ、そのうちの数本は薄い皮膚を骨が突き破って飛び出していた。

「こないなことになって可哀そうやろ?そら約束破ったんは向こうやけど、早う楽にさしたらなあかん」

 話を呑み込めずにいるアミの手を取ると、ナイフの絵を手のひらに置き、自分の手で包み込む。

 燃え盛る火のように熱いセガキの手の熱がアミの冷え切った手に侵食し置き換えられてゆく。

 自身の聖域のはずだった肉体、体温でさえ奪われ手放さずにはいわれないどうしようもなさと、またしてもセガキという男に蹂躙される恐怖には、繋がれている手を硬直させることでしか反抗することができなかった。

「ええか?お父ちゃんは」

 セガキは、曲げまいとピンと伸ばしきっているアミの指を力任せに折りたたみながら続ける。

「アミちゃんの命で自分だけ助かろうとしたんや」

 痛みをこらえ、なおも抗う指先を娘の靴紐を結んでやるかのような気楽さで一指づつ、指の腹までぴったりとナイフに接するまで入念に。

「ほんでアミちゃんも自分は死にたないって言うたね」

 握りこめられたナイフはどれだけ手を緩めようとも離れてくれず、密着するセガキの手がアミの自由を制限する。進めども退けども狭められてゆく領域が、選べた選択を黒く塗りつぶし、どうしようもなく選ぶしかなかった道がそれ以外の可能性がくらむくらいに光っている。後戻りはできない。誘蛾灯に引き寄せられる虫のように、向かうべき道筋がもはやどれだったのか分からなくなり、ひらひらと飛んでゆく。

「娘差し出したクズやけど、命を救いたかったら命の対価がいるって分かってたわけやね。それやったらアミちゃんにも覚悟見せてもらおか」

 娘を売って助かろうとした男が当の娘に天誅を下される死に様を見せよと、かつて盲目的に信頼していた幼少期の父親の距離で、セガキがその頃の父親に似た声で耳元に甘く淑やかに囁く。

 十歩に満たない先で崩れるように座っている現実の父親を見据える。

 セットされていた髪、それなりに身綺麗で洗練されアイロンが当てられたものを着て、壮年期も半ばを過ぎ自信とやる気に満ち溢れた活気ある目も、今は見る影なく、欲を貪りどれだけ貪ったとていやせない喉の渇きを海水で潤すかのような愚かさの中、救いもなく苦痛にうめき沈みゆこうとしている。

 そこにいるのは空虚な肉の器。セガキらによって、金によって、死んだアミの母親によって壊れ朽ちてしまった一人の人間がとてもちっぽけで、しかしそれ故に愛おしく思えてくる。

 愛しい者なら、家族なら、血が繋がっているのなら、誰とも知らぬ何によって命を奪われ、そうでなかったとしてもひっそりと野垂れ死ぬさだめならば、自らの手で死をもたらしてやるのが愛なのではないか、と。

 決心したアミは振りほどこうとしていた手を固く握る。セガキは包んでいた手をそっと離し、エスコートをするように父親へ手を差し向ける。

 一歩前へ踏み出したアミはもはや背中を押してやる必要はなく、かつて愛していた父親の元へ、心を預けていたかつてのように無邪気に懐へ飛び込む。

「お父……さん……」

 朦朧とする意識の中、アミの声に反応して顔を傾け、晴れあがり十分に開かない瞼を開ける。置いた瞳にはアミの姿が反射している。

 皮膚を切り裂き肉を押しのけ抵抗がありながらもなお力任せに押し込むと、組織が血管が臓器が尖れた刃先によって切断される。

 穴が開けられ留めることができなくなった肉体から漏れ出るのは赤い液体。それは自身のシャツを鮮やかに染め、アミの冷えた手を温かく包み芯から温める。その感覚はどうしても嫌いになれなくてアミはいつまでもこうしていたかった。

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餓鬼 透骨ガラナ @TK_guarana

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