第2話
唐突に振り下ろされた拳がアミの鼻を叩く。
家からまた連れ去られ車に乗せられたとき、被せられた目隠しのせいでここがどこであるのか、またどのくらい離れてしまったのはさっぱり分からないまま放り込まれた部屋で。すぐ横に置かれていた本棚に血が飛び散って、何冊かの薄茶色のブックカバーにかかる。
脳が揺れるような衝撃が体を揺さぶり、保てなくなったハランスは重心がずれ床に倒れ伏せる。反射の範疇を外れたまったく意図しない攻撃に事の認識が追いつかず、アミは呆然とセガキを見つめていた、
「え……?」
声を出そうと思っていたのかいないのか記号的な意味を持たない音。
不意に垂れてきた鼻水を拭った手の甲が赤く、同じくして打ち上げ花火の音の振動のように一足遅れてきた言いようのない不快感が熱を伴って鼻を中心として顔にじわりと広がる。
鈍痛。頬を張られたときとは違う骨身に響く痛みに生理的な涙が伝う。
セガキは座り込むアミの手助けもせず、無機物でも見ているかのように見下したまま、狼狽える様を観察している。
「血…殴って、え?殴られ……」
現状を何度もうわ言のように呟き、よろめきながら立ち上がったアミの顎先から鼻血が流れ落ち、制服に赤い染みを作る。
「わた……私」
声が震え、体が未知の恐怖に支配され発声が上手くいかない。一滴、また一滴と落ち、血液がその領域を広げてゆく。
「知らないうちに何か悪いこと、しました……か?」
感情を取り戻したらしいアミの目尻に涙が浮かぶ。
「してへんよ?せやからここにおんねん」
拳に付着した血液を振り払いベッドにジャケットを脱ぎ捨て明け透けに言う。
「お父ちゃん言うたやろ?明日までにどないかするって、そのためにやる気出してもらわなあかんから――なっ」
「がっ……」
腹部に叩きこまれた突きにアミはくぐもった声を出す。そのままに拳は抜かれることなく押しのけられた臓腑が行き場を求め他の臓を圧迫する。
「どうせ夜逃げするやろから脅しにしかならんけど、もしホンマに返す気あるなら罪悪感植え付けられて、どっちに転んでも得や」
埋め込んだ拳を前に押し出すとアミはよろけて後ずさり、壁にぶつかる。逃げ場のない空間、増えた体の痛みと不快感がアミの平常心に巣食う。
見上げたセガキの顔には車で見せたような張り付けた笑みも父親の前で見せたただならない雰囲気もないかわり、義務感や仕事といったある種の面倒臭さが漂っている。獣欲、性欲すら匂わせない冷めた暴力の隠された本心が恐ろしい。
セガキは壁を背にしたままのアミへ片足を持ち上げると、膝頭を先ほど殴った腹部に密着させた。
「い、いや……」
次に起こることを予期したアミの呼吸が浅く、早くなってわずかに押し返す。あまりに弱く全く頼りにならない抵抗は虚しく、膝に乗ったセガキの体重がアミの胃を押しつぶす。
「そら薬でよがってる娘見せるより血出して痛がって泣いてるの見せたほうが金返す気になるて。せやろ?」
「うっ……」
水の入った風船を思い浮かべればいい。行き場を失った内容物がせり上がり、胃酸が逆流すると、こらえようのない吐き気がアミを襲う。
苦痛から逃れようと体をよじりもがくが、動けば動くほどに力は強まる。打ち付けられた杭のように固い膝をどうにかどかそうと爪を立ててみてもセガキの眉一つ動かすことはできず、限界が近づく。
やがて脂汗が浮いて手足の力が入らなくなると、男によりかかるようにしてアミは吐き戻した。
「うぅ……うう……」
いくら吐いてもスラックスを少し湿らせる程度の吐瀉、胃液とわずかな水分だけのせいで空えずくばかり。血と唾液と涙にまみれ混じりあう。アミは抗う術も心も持つことがなく、ただされるがまま力に屈している。足を床に降ろすと、立っている力もないのか引き抜かれるとそのまま被さって倒れ伏す。
「あぐっ……がはっ」
解放され呼吸が楽にできるようになると、空気を求め喘いだ。息を吸うたびに胃が軋んで開いた口からはとめどなく唾液が垂れる。晴れることのない苦痛、理由なくただあの父親の元に生まれたという因果それだけで巻き込まれたどうしようもなさを悲観し、理不尽を呪い、また己の非力さに絶望する。
たとえ苦痛が終わったとして、アミの心が休まる居場所のあてなどない。
「もうやめてください。痛いことしなにでください……」
「――せやかて約束やからなぁ。もうちょい我慢してもらわんと」
頭も上げられないまでに疲弊したアミの細い首に腕を巻き付けセガキは言う。
「いやっ、やめてください、やめ――ッ」
頭を振って精一杯に拒絶のアピールをするも応じることはなく、首へ蛇のように絡みつく太い腕がするすると自由を奪いつつあった。上から長付けられ、まともに動かせるのは手首がやっとのことで、闇雲に補足史郎指が虚しく宙をひっかく。首が締まる。
「かふっ――」
呼吸よりも血流そのものが遮断されている居心地の悪さ、夢で見るような窒息する感覚より根源的な危機感、水中に沈められてゆくような身を包む触感と、体の力が抜かれてゆく死の直感。まるで溶かされ透き通るように緩やかに痺れる。頭に至っては頭部が風船のように膨れ肥大しているように感じ、眼球が痛む。
「ごめん、なっ。さいっ――」
肺から絞り出した息で紡いだ言葉は発話の始めこそ聞きとれたが、ほとんどセガキの耳に届かず虚空へと消え、酸欠の金魚と同じく無意味に口をぱくぱくと開閉しているだけに見えた。
「あ、締めかた間違うた……」
辛うじてセガキの声が聞こえ、アミの意識は深淵へと落ちてゆく。苦しさは全く感じられず、ただ転がり奈落へと。
気を失ったアミを仰向けに転がしたセガキが口元に手をかざすと、手のひらに呼気がぶつかる暖かくくすぐったい感覚にとりあえず安堵する。未成年だからといえ生きている限りは雑用ならいくらでも使い道はある。
これは半分建前で、実のところ単に死なれると後味の悪さと処分の煩わしさがもたげ面倒である。というのが本音なのだが。
横たわるアミの汚れた姿、流れた鼻血はもう乾き、肌に薄汚れた小川のような跡が残る。制服も同様で大小の斑点がまばらに重なりあう奇妙な模様が清潔さを感じさせる白い布地を黒々と染めていた。
小柄でまだ幼さのある顔を苦痛に歪ませた事実にわずかばかり心が痛んだ。アミの父親が我欲に溺れることなくただ一心に、遺された娘のために己を捧げていたのなら、セガキと出会うことがなく苦労しながらでも進学ができたかもしれない。
あるいはアミ自身で身を立て、親子二人で慎ましく暮らせていたのかもしれないと、有り得たであろう可能性を思っては虚しさに囚われる。
と、そのような感傷に浸る隙も与えられず、セガキのジャケットから助手席にいたハギからの着信を告げる着信音が鳴る。
「はいはい」
嘆息をつき重い腰を上げて立ち上がると、内ポケットで震えるスマホのディスプレイをスライドさせ耳にあてた。
「俺や」
「セガキさん、オガラが逃げました。出てきたところを捕まえて、今家にいます」
ハギは上がった息を抑えながら手短に起きた出来事を伝える、話している奥ではドライバーのボンの怒声が聞こえ、父親に灸をすえている。
「わかった。娘連れて行くさかいオガラの意識飛ばんぐらいやったら遊んどいてええぞ」
「――わかりました。それでは」
「おう」
訪れた沈黙はセガキの気を重くさせ、意識せず出たため息がよけいに気を進ませず、また何度目か分からないため息をつく。
元来返してくる見込みの薄い人間の中からまだ望みのある客に貸し付けを行い、機が熟したところでむしり取るのがセガキらの商いなのだが、債務者の尻を叩く手綱を握るタイミングを見誤ると、今回のような夜逃げに走られてしまうのが難しいところだ。
つまり仕事として失敗なのだ。娘を差し出した時点で秘策があるのか逃げるかの二択が考えられたため見張りを置いていたのが功を奏したわけで、金を出させるために父親の会社に挨拶に行くことや親類縁者へ行脚することも手段として残されているのだが、まずは落とし前としてけじめをつけてもらわなければならない。
我が身可愛さに自分の一人娘を売ってまで時間を稼ごうとしたのだ。生半可な仕置きで許させると思われてはこちらの面子が立たない。
「あいつのことやから首でも吊るかと思たけどな……。おっさんのケツ拭いたるか」
自らに発破をかけ大層な身ぶりでアミの側に歩み寄る。
「最後の大役、任せたでアミちゃん」
聞いてもいない独り言を呟いてアミの体をジャケットで覆うと、背中と床の間に出を差し込んで持ち上げた。
「軽っ」
殴り飛ばした時の手ごたえのなさで体重が軽いことは分かっていたのだが、いくら小柄といってもごまかしようのない痩身に面食らう。
「こりゃあ体重載せても刺さらんか……?まあええか」
米袋ほどの重さしかない肉体を運ぶのにはたいした苦労はない。頭とつま先をぶつけてしまわないように気を払い部屋を後にする。階段を降り車庫に止めている愛車の助手席にアミを座らせ、シートベルトのロックを掛ける。体の安定を確認すると、アミが身じろいだ。
意識を取り戻したらしいアミは小さく唸ると、二三度瞬いてまぶたを開ける。虚ろな目でセガキを覗き、半ば無意識に体を起こそうとしてベルトが肩に食い込んで席へと戻される。不思議に思ったのか首を傾げて再び試みようとしたが、セガキがこれを制止する。
「アミちゃん起きたんやね。おはよう」
「あっ……え……」
殴られた箇所の鈍痛が覚醒した意識に追いつき、呼吸をまともにできなかったことを思い出してアミは慌てて息を吸い込む。水面に巻かれた餌をついばむ鯉のように我を忘れて何度も何度も。
セガキはアミの様子を気にも留めず助手席のドアを閉めると、運転席に乗り込んだ。ジャケットの内側に手を入れ何かの具合を整え、キーを回す。
ライトが夜闇を切り裂く。車がアミの家へ向かって走り出す。
「アミちゃん」
セガキの声は初めて会ったときの猫撫で声のような取り繕いは影もない。
「……はい」
やっと空気を自由に吸えることを理解したアミはどもりながら返事をする。そしておずおずと顔をセガキへ向け、視界の端に捉えた。
街灯やネオンに時折照らされるセガキの顔に相変わらず感情の類が表出していることがないのだが、それがかえって違和を生み出しているとアミは受け取った。怒りもしくは悲しみのようなネガティブなものに蓋をして自分でさえも偽ろうとしているように思える。
「お父ちゃん逃げよったわ。それで――」
アミを一瞥する。一呼吸置いて口を開く。
「ケジメつけてもらうから。お父ちゃんに」
父親が逃げた。セガキが取立屋であることを知り、借金を理由に意識が飛ぶまで暴力を振るわれたときから予感はしていた。それよりもアミの学費に手を付けたあたりから破滅に至る予感は薄々あって、今回で確信したというのが正しいだろう。だから、そこまで驚きはしなかった。
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