餓鬼

透骨ガラナ

第1話

 曇天の空が天を覆い暗く落ち窪んだように街は生気を失って無感情にビルの谷間を吹き抜ける。冷えた風が人々の髪を揺らす。雪でも降るのだろう。

 地に目を落とす往来に道中以外の意味はなく、ただ淡泊に靴底で擦られ汚されてゆくだけのアスファルトの色は、ちょうど見上げた空と同じ鮮やかさを奪われた寂しい色だ。

 天は万人に等しく万物を見下して、、また同様に一切の対象に何らかの助けをもたらすことはない。いつもそこにあって嘲笑っているだけの偶像オブジェである。唾を吐いたとてそれが罵声でさえも何かを及ぼすことはない。

 展望を持てず持たぬ、可能性すら手放した呼吸する屍。資格は光のノイズ。嗅覚もなにもかもがノイズ。思考には晴れぬ霧が立ちこめて繋ぎとめられた鎖は自らにより首に掛けられる。

 一切を誰かのせいにしようと周囲を見渡して、誰かが環境のせいだと囁けば、たしかにそうらしいと思い込み、自らが無知であるのは当然無理からぬことと決めつける。

 地に根を張り風雪に耐えることでしか人は生きてゆけず、たとえそれが根付いた土地がどんな場所であっても種は居付く先を選ぶことは叶わない。

不幸なことに産まれてくる地を能動的には選べないのだ。まったくもって不幸なことである。

 受動的存在である物、すなわち子に自由はない。さしたる権利なそも親に比べれば露のようなものだろう。それを知るには、少女には時間が経験が知識が、そしてそれを教えてくれる人間が足りなかったのだ。逃げ方すら知らなかったのだから。


「ホンマにええんやな?」

 スマホを耳にあてている男は何らかの確認を通話先に取る。後部座席にどっかりと腰かけ、警告の意で問いかけているが、当人はそれ以上本気で止めるつもりもないようで、軽蔑した笑みが口元に浮かぶ。

「約束は約束やから言うたとおり明日には帰したるで?せやから――」

 対面なら口角泡が飛んでいたであろう何かをまくしたてる大声がスピーカー越しに聞こえてきて、うるさそうに顔をしかめた男はスマホを耳から離して膝の上に置いた。

 口を挟まなければ相手は何時間でも自己擁護と懺悔を聞いていないのに続けるだろうと思うと、軽蔑以上の感情が湧いてきて、笑いをこらえるのがやっとだ。

「まあ口ではなんぼでも反省できるからなあ?喋って金が湧いてくるんなら今ごろ大金持ちやね?え?オガラさん」

 皮肉の答えは沈黙。男は両手も沿え大げさに肩をすくめ、嫌味をもういくつか付け足してやろうと口を開いたところ、助手席の金髪の男がこちらを振り向く。

 車外に意識を向けるようジェスチャーをし、対象の存在を認めた男は前方を指差し進行を命じる。アクセルが踏まれ車が徒歩ぐらいのゆったりとしたスピードで進んでゆく。男が再びスマホを取り上げ告げる。

「あと二三時間したらそっちに向かわせてもらいますわ。ほなよろしゅう」

 返答は待たず通話を切ると大きなため息をつく。

「気ぃ進まんわー。けど商売やからなぁ」

「セガキさんが乗り気ちゃうんやったらオレがやりましょか?」角刈りのドライバーの男が軽薄に言う。

「アホ、加減知らんお前に誰が任すか」

「あっ、なんか小学生みたいな背の子が歩いてますね、あの子っすか?かわいいー」

 痛いことろを突かれたのか話を逸らすドライバーを一睨みしてセガキも前方に視線を移す。信号を睨み手持ちぶさたにスカートのひだを弄んでいる小柄な少女。表情はなく、感情の欠落そして関心が消失していて首元に巻かれた新しい桃色のマフラーがくたびれた制服の違和感を目立たせている。

 疲れを感じさせるたたずまい、漂う余裕のなさ、焦り、虚無が見てとれ、同情の念がセガキの胸に生じた。

 信号が青に転じる前、少女の背後にぴたりと車を寄せると、停止線を踏み越えてゆっくりと進んでゆく。

 車の気配があったはずなのにアイドリングの音も聞こえないことに違和感を覚えた少女が振り返ると、目に映るのは黒の外車。磨かれたボディは黒曜石の鏡のように景色を反射して、フルスモークで覆われた窓のせいで中の様子を窺うことができなかった。

 後部座席の窓が下がる。非日常、想定の範疇を超えた存在が雲間から現れた気持ちになって、少女は感受性を押し殺す。

「アミちゃんでおー―てる?」

 背筋に冷たいものが走る。くせ毛の男――セガキ――は顔だけを少女に向けて尋ねている。アミが首肯すると、歯を剥きだしにしてニヤリと笑う表情が人ならざる者に思え。

「そかそか。俺らおとーちゃんに用事あんねん。乗ってき」

 調子のいい関西弁で快活に話しかけるセガキは口元こそ笑っているものの、笑みの体を保っていない目や有無を言わせず質問にすらなっていない質問が、アミに従う以外の自由を与えていないということぐらいの常識は持ち合わせている。

 何らかの要望を持つ大人にとってノーと言われることほど腹立たしいものはないのだと、過去から学んでいる。空気を読み機嫌を損ねないように顔色を窺うことだけは上手になった。

「お邪魔……します」

 自ら手をドアノブに掛け、後部座席のドアを開ける。セガキは奥の席に座るよう手で示す。背が高い、ただ座っているそれだけでも威圧感を覚える。

 窮屈そうに直角に曲げられた膝にぶつかりそうになりながら、どうにか座席にたどり着くと、アミが腰を下ろすのを待たずにアクセルが踏まれ車体は加速する。横から突き飛ばされた姿勢でシートに押し付けられ、慌てて体勢を整えた。

「危ないやろ、運転ぐらいしっかりせえ」

「あ、小っちゃくて見えんかったんですわ。すんません」

 ドライバーがバックミラーを見ながら謝るが、言い方が気に食わなかったのか運転席のヘッドレストをつかんで身を乗り出すと、男の顎を握りつぶさんばかりの力を込め低く押し殺した声で怒りを露わにする。

「アホ、今怪我させてどないすんねん」

 不満をことさらに主張するようなため息をつくと、手の力を緩めシートにそのままの勢いでもたれかかる。セガキの上半身がゆっくりと沈んでゆき、補足鋭さのあった眼光に退屈が混じる。

 狂気と冷静さの混在する男の瞳の妖しい輝きは、身の回りのくたびれた大人たちにはない活力もあって、物珍しい印象、ひいては好意さえも与えたのは言うまでもない。

 アミの柄にもなく他人の目を鑑賞するかのようにまじまじと見つめているとセガキの視線が返る。ほんの一瞬であったが射るようで、体が竦んだ。

「そんな仰々しくせんでええよ?お菓子食べ?」

 張り付けたように口角を吊り上げて笑う。

「おなか空いてないので……。食べたほうがいいですか?」

 見たことも、食べたこともなく、チョコレート菓子と思しき箱は、とてもじゃないが何かが喉を通る気がしない。意に反した返答で機嫌を損ねていないか怯えながら、アミは恐る恐る断りを入れた。口に入れたとて吐き出してしまってはそちらのほうが怖い。

「……そか。ほなしゃあないか」

 そう言って差し出した箱を無造作に放り投げると、運転席との間に置かれていたゴミ箱のふちにぶつかって中身が散らばる。

 想定外の結果に驚いたアミは目を丸くし、また、この結果を招いたのは彼女自身にあると察知したアミは外に飛び出したチョコを拾おうと身をかがめる。

「ええよ拾わんで」

 咎めるのを構わず拾い続けていると、セガキは諦めを含んだため息をつく。幾度となく耳にした苛立ちの空気にアミは己の失敗を悟る。

「あのなアミちゃん」

「あっ、ご、ごめんなさ――」

「別に怒らへんよ。ただ、食べといたほうがよかったって思いなや?」

「それって……?」

 セガキは首を振り、その先を話そうとしない。

「アミちゃん、お父ちゃんのこと好き?」

 曖昧で話の筋が見えない問いはアミを黙らせる。親子の情の有無を問いたいのだろうが、親しく思う感情は今となっては薄ぼんやりとしていて、それが年齢特有のものなのか現状をきっかけとした諦念を起因とするののなのかは分からなかった。

 保護者らしく振舞っていた記憶もそれほど思い出せるわけではないのだが、最低限のことは行っていたようにも思え、なんとも言えないというのがアミの答えである。

 学費を納めるぐらいの理性が残されていたのは先月までであるが。

「年ごろやもんねー」

 薄ら笑いを浮かべて、セガキはアミの頭を撫でた。


玄関前に車を横付けしてサイドブレーキが引かれる。助手席の男が先に降り、ジャケットを整えながら扉の方へと歩き出す。

「俺らも行こか」

 セガキが車外に出る。体を捻りあちこちの凝りをほぐしている姿は車内にいたときより数倍も大きく思え、アミの肝を冷やす。

 見上げるくらいに大きく威圧感のある背をアミは小走りで追う。

 文字通りの自分の庭であるこの土地のはずなのに異なる地に立ち入ってしまったような気になってしまい、砕石を踏むじゃりじゃりとしいた音がやけに響いて聞こえる。

 おまけに妙な胸騒ぎがして、たかだか数歩の道のりが極端に遠く思う。

 開け放たれている扉の奥からは父親と、先に行った男(たしかハギと言った)との会話が聞こえている。

 父親の話しぶりは時折聞く誰かと話しているときの調子そのもので、父親はアミに会社の上司からだといっていた相手だ。

 直視しまいと目を逸らしていた現実がもう逃れらないところまで来ていたことを知ったアミの血の気が引く。自分の家なのにこれ以上足を踏み入れる気が起こらず、ただ立ち尽くすのみだった。

 情けない顔で、自身よりも若い男にへつらう父親など想像すらしたくなかったのに。

「なに固まってんねん。行くで」

 足を止めたアミを肘でつついて催促する。落とした視線を上げることもできず重い足取りのアミを尻目に、勝手知ったる様子でセガキが先へ行く。その足取りは軽い。

「こんにちは~オガラさん。儲かってますか?」

「せ、セガキさん、冗談はやめてください」

 ガラス戸越しに二人のやりとりは続く。先ほどよりも弱った声色の父親が嘆願し、そっけなくそれをセガキがあしらう。

 関係は明白で、頼みこむ以外は交渉のカードを持たない父親は男の機嫌を取るか慈悲を乞い容赦を求めることのみが認められている手段であることが憐みの情を誘う。

「もう勘弁してくれませんか」

「勘弁もなにもあらへんやろ。あんたが猶予ほしい言うからたいした価値もない娘で手打ったったのに。なあ?」

 セガキが後ろを振り返って同意を求めると、この場にいるべきでなかった者が一人、輪の中に引きずり込まれる。

「私……です……か?」

「せやでアミちゃん。お父ちゃん博打好きなんはええんやけど、勝つのは下手くそやねん。それでな――」

「セガキさん話が違うじゃないですか。アミは――」

 ひどく慌てた様子の父親がセガキの話を遮ってまで話に割って入る。

 その視線はアミの様子を窺っているようでありながらけん制をし、不用意なことを聞かぬように無言の圧力をかけ、対してセガキには逆なでしない程度の怒りと反発を込めた視線と、梯子が外されたことへの焦りを交錯させていた。

 対してセガキは口を大きく開け頭に両手を当てて、大仰な動作で失念していたたことを表現しまったく悪びれもしていない。

「いやぁホンマやったら今ごろ車でおねんねしとったんやけど、アレ食わんかったねん。すまんすまん」

「だからって……」

「暴れそうやったらどうないかして大人しくさせたけど、この子ええ子やから。それとも何か、これ以上文句あります?」

 まだなにか言いたげな父親であったが、アミの顔をちらりと見てごにょごにょと口ごもる。

「まあ、そ・れ・で・や」

 セガキは父親と横並びになって肩を組むとアミを見据える。

「返せる見込みのない金をどうにか伸ばしてもらうためにアミちゃんを売ったわけやな」

 セガキの張り付けていた笑みが消え、浮ついた感情がそぎ落とされ仮面を被ったように表情が消えた。

 全身の間隔が消失し、頭部のみが肥大してゆくような圧迫感。血の気が引き、反芻する言葉と心音が反響して増幅され脳内でハウリングする。

 さざ波のような耳鳴りが耳を覆い隠し音が途切れ掠れ、物を透過するだけのガラス様となった目に移り込んでいるのは、顔をそむけようとする父親が押さえつけられ無理やりこちらを視界に入れようとされている歪んだ表情。

 歯が蛍光灯の光を反射して白く光り、開かれた口が虚空のよう。何も聞こえなくなる。意識が。

 アミは審判を受ける罪人にでもなった気分でどうしようもなく立つのがやっとだった。

 反応を示さなくなった少女を他所にセガキの独擅場が続く、

「安心しい。明日には家、返したるから。それまではやってもらうことあんねんけど――って聞いてへんか」

 アミの腕を掴むと、玄関へ向き直る。アミは半ば引きずられる形でセガキについて歩く。

「ほな娘さんもろてくで。約束の金、待ってま――」

「アミ!」

 父親がこれまでにない必死の形相でセガキを引き留める。セガキは不快感を露わにしつつ振り返った。

「なんや頭からケツまで俺の話遮って――」

「アミごめん、お父さんの問題に付き合ってもらって、本当にごめん――」

 放心状態にあるアミは声のする方へ反応することはない。

「もうえええか?また連絡するわ」

 閉められたドア。残されたのは不甲斐ない父親の小さくしぼみ切った背中。複数の足跡、借金。

 遠ざかる足音を他人事のように聞いている。

 やがて車のドアが閉じられ走り去る。完全に男たちの存在が消えると、体の緊張が一気に抜ける。

「ごめん。アミ――」

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