【最終章 みんな大切な人なのだから・2】
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二日間にわたるぶんぬき祭が終わりを告げると同時に、太鼓と笛の音は身を潜め、大子の町は普段の静けさを取り戻していた。
観光客や子供の姿はぱたりと消え、メロン工務店の皆の伸びた長い影は涼しげな夕方の風を連れ立っていた。
今日が暮れてゆく。僕の大子の日々が終わりを告げる。
そして明日からは本社で勤務する、本来の日常が始まるのだ。今まで慣れ親しんだ職場だけに、すぐに勘は戻るだろう。
でも、僕はきっと、かつての僕ではない。拓海さんが言っていたように、この町で経験したひとつひとつが、僕を新しい人間に変えているはずだ。
催し物の片付けを終えたスタッフたちは、帰らず工務店の事務所に集っている。僕が去るのを見届けてくれるつもりらしい。本来は休日のはずなのに、そうしてくれる皆の気持ちはとてもありがたい。
僕は皆と握手をして、お世話になりましたと感謝の気持ちを伝える。最後にありちゃんの頭と背中をわしゃわしゃと撫でると、煙たがるような顔をしたが、その素振りは彼なりの強がりのように思えた。
「そいじゃ、あたしとあずさで高速道路の入り口まで見送ってやっかんな。帰るまでが出張だっていうし、ちゃんとそこまで見届げねえと責任が果たせねえがらな」
唯さんは、あずささんのことで色々と気を遣ってくれた。
「それじゃあ、お願いします」
僕が返事をすると同時に、唯さんは顔をしかめた。
「あれ……なんか、お腹が、いたたた……」
そして腹部をおさえて苦しそうな顔をして身をかがめる。ああ、そういうことか。しらじらしいことこの上ない。
「ちょっと……おなかの調子が悪ぐなって、あたし送りに行げないわぁ~」
「オラは唯さんを介抱しでっから、手が空げられねえ」
「俺も無理、妻の待つ家へ早ぐ帰らねば」
「あたしもお腹が重い~」
「朱里が調子が悪いらしいんで俺も無理です」
皆はいっせいに僕の見送りを拒否し、視線をあずささんに向けた。もはや意図は見え見えで満場一致だ。
「……わたし、ちょっと行ってきますね」
顔を紅潮させたあずささんはそれ以上何も言わず車に乗り込む。
僕も荷物を詰め込んだ愛車シビックRに乗り込み、手を振りながら工務店をゆっくりと発った。
「本社に戻っでも元気でなー」「出世しろよなー」「オラのこと忘れんなよー」と、唯さんを含め皆の元気な声が響く。本当に最後までお人よしな人たちだ。
僕の車には白い軽バンがついてくる。仕事の際に度々同乗していた車だ。僕は久慈川にかかる橋の上で車を停める。
ちょうど夕日が山の頂に差し掛かる時分で、水面は深い紅色に染められていた。あずささんは少し離れた路上に車を停めて降り、橋の上の僕に歩み寄んで隣にそっと並んだ。
せせらぎの音色と深紅の光彩が共演する川をふたりで並んで眺める。
水面が蜃気楼のようにゆらいで幻想的だ。営業の帰り、幾度となくあずささんと眺めた風景でもある。
ふたりともしばらく黙っていたが、切り出したのはあずささんの方だった。
「この川、夏の初めにホタルが出るんですよ」
「蛍ですか、綺麗でしょうね」
「はい、とってもかわいいんです。キラキラして一生懸命生きている感じがして。でも……」
そして、あずささんは橋の柵に顔を伏せ、黙り込んだ。次第に肩が震えてくる。
僕はあずささんが言えなかったその続きを代弁する。
「……一緒には見れなかったですね」
「はい……っ……」
あずささんは顔を伏せたまま、時が止まったように動かないでいた。時を進めたくなかったのかもしれないが、あずささんもまた、明日からは違った未来を生きていかなければならないはずだ。
そこで僕は車の扉を開け、紙袋を取り出した。中には手のひらに乗るサイズの箱がふたつ収められている。
そのひとつを取り出して開け、中にあるものを手に取ってみせる。
セレストブルーに彩られた、僕の自作の湯呑みだ。
「これ、大子の空の色をイメージして塗ったんです」
あずささんは瞳を二倍にして驚きを表す。
僕がそれをあずささんの手に渡すと、あずささんは受け取ってまじまじと眺める。
「これ……本社さんが作られたんですか?」
「はい、拓海さんのところで教わりました。ふたつ、おそろいなんですよ」
僕はもうひとつの箱もあけてみせる。僕の持っている湯呑みはやや不格好に直立していて、あずささんが手にした方は流線が際立っている。
「よかったら、夜、ゆっくりしながらお茶でも飲みませんか。違う空の下ですけど、空は繋がってるはずですからね」
「本社さん……」
「でも、割れてしまっても、あるいは煩わしいのなら、捨ててしまっても構わないですから。貰ったものの処遇って困るので、先にそう言っておきます」
「……捨てたりなんかしないです。ちゃんと大切にします」
あずささんは、僕の想いを心の片隅に残してくれるらしい。今まで大子で暮らした日々が脳裏に浮かび胸を熱くする。
「まっ、そう言われちゃうと僕も捨てられないですけどね」
「これもふたりの秘密ですね……」
どこか遠くで、もう会うことのないふたりが持ち寄る秘密というものがあったっていいじゃないか。
「はは、そうですね。今後誰かと付き合ってこの湯呑みがペアだって知れたら、嫉妬で壊されるかもしれませんから」
「わたしも佐竹さんには言えませんね」
その一言は、佐竹さんに返事をする覚悟を決めているという意味を含んでいるのだろう。
「あの、そうしましたらひとつだけ、お願いがあるんですけど」
「はい?」
「最後の秘密を作らせてもらえませんか。わたしだって、ずっと心に残る思い出がほしいんです」
そういったあずささんは、夕陽の色よりもずっと鮮やかに顔を染めていた。
一歩、また一歩と、儀式のようにゆったりと僕の前に歩み寄る。
その雰囲気に僕の心臓は早鐘を打つ。あずささんが何を考えているのか、明確に伝わったからだ。
あずささんは澄んだ瞳を潤ませて僕を見上げ、木の葉が揺れるような声で囁く。
「本社さんは紳士なんですから、女の子に恥をかかせてはいけませんよ」
そして、そっと瞼を閉じた。
あずささんは相当な覚悟でそう言ったのだと思う。記憶の中に、僕を焼きつけたいと思ってくれたのだ。
だから、僕はあずささんの想いを受けとめなければならない。遠い空の下、この一瞬を思い出して涙する未来が待っているとしても、だ。
あずささんの両肩に手を添えると、背中に緊張が走る気配があった。
そっと背中に手を回し体を手繰り寄せると、あずささんはやわらかに身を任せる。ふたりの吐息が混じりあう。
真紅の唇が僕に近づき、そして、触れようとした。
そのとき――
ドンッ!!
足元から激しく突き上げられる衝撃を受け、僕とあずささんの体は宙に浮きあがった。バランスを崩して倒れそうになるのを、柵につかまりかろうじて繋ぎ止めた。
同時に、地の底からうなるような重低音が響く。
経験したことのない激しい揺れに戦慄を覚える。初期微動だけで以前の地震をはるかに超える規模だ。
「大きいやつが来る!」
そして、ほんの二、三秒後、地上はまるで荒波に飲み込まれる船のように、激甚の揺れに支配された。
「きゃあっ!」
「あずささん、大丈夫ですか!」
それは未曽有の――いや、おそらくこの地の人は九年前に経験している、大きな被害をもたらした大地震と同じ規模だと僕は察した。
大子を訪れてから経験した二度の地震は、この大地震の前兆にすぎなかったのかもしれない。
あずささんの家族を奪った、あの震災の再来だ。
僕もあずささんも、橋の柵につかまりしゃがみこむ。すると、足元のアスファルトがきしみ、所々がひび割れ始めた。
「あずささん、橋が崩れます、急いで逃げなくちゃ!」
「はっ、はいっ!」
僕はあずささんの手を取り、よろけながらも必死に橋から離れようとする。
あずささんはフラッシュバックを起こすことなく意識を保っているのは幸いだった。悪夢から逃れることができたようだ。
シビックRに乗り込もうとした瞬間、耳をつんざくような音がして足元の地面に深い亀裂が入る。橋を分断するような、大きな地割れだ。
「駄目だ、間に合わない」
僕は愛車を諦めて橋から避難する。橋から踏み出したと同時に、地面がめしめしと音を立てて大きく傾き崩れ落ちる。
酷い砂煙で視界が曇る。
幸い、僅差で助かったものの、僕の愛車シビックRは橋とともに川に飲まれていった。まだ購入して間もない車だ、ひどく悔やまれる。
けれども、僕はもっと大きな問題が起きていることを想定すらできていなかった。
あずささんが僕に向かって叫ぶようにこういう。
「本社さん、一緒に戻ってください! 咲ちゃんの家が倒壊してます!」
僕はその一言に驚かされた。なぜそんなことがわかるのか疑問だったが、あずささんの真剣な眼差しは確信に満ちている。
「分かりました、僕が運転するから、車に乗り込んでください」
僕はあずささんの手を握って起こし、軽バンの助手席に乗せる。
僕は運転席に乗り込み、すかさずアクセルを踏み込む。
たびたび余震で地面が揺らぎハンドルを取られそうになる。集中力を切らさないように神経を集中して運転しメロン工務店へと向かう。
「どうして倒壊しているって思うんですか?」
「わたし、家を見て回る時に耐震強度を推測しているんです。それで、危ないと思った家はなるべく補強工事を勧めているんです」
「費用の問題で修繕を諦めることがないように、格安で補修しているんですね」
たぶんそれは、自分のような悲劇を他の誰にも味わわせたくないという思いからなのだろう。そして、大地震が起きた場合に、どの家が最も危険なのかも熟知しているはずだ。
「はい。ただ……咲ちゃんの家は他の柱もだいぶ弱っていたんです。予算が足りないようなので敢えて触れなかったのですが……」
あずささんは後悔をあらわにして顔を覆いうずくまる。
「地震で揺れましたけど、あずささんは気分、悪くないですか?」
「大丈夫です。それよりも山下さんの家、咲ちゃんが心配です。子供は皆、家に帰っていましたから」
あずささんは両手を握りしめていて、その手は震えていた。もう、過去のトラウマには屈していないが、状況を考えれば新たなトラウマを生じる可能性すらある。
僕らが工務店に戻った時、そこには狼狽する女性の姿があった。工務店のスタッフに縋るように何かを頼み込み、そして泣き崩れた。
支店長は皆に指示を出し、スタッフは皆、慌ただしく事務所を出入りしている。騒然とした様子がうかがえた。
「非常事態なので取りあえず戻りました。何が起きたんですか」
その場に僕らもすぐさま合流すると、支店長が真っ先に口を開く。
「あっ、本社さん、大変な事になっちまっただ」
「お願いします、助けてくださいっ! 咲が……咲が崩れた家の下敷きに……ッ!」
「えっ! 咲ちゃんが?」
どうやら女性は咲ちゃんの母親のようだ。泣き叫ぶ姿は最悪の事態が起きたことを僕らに想像させた。
お母さんは助けを求め工務店に駆け込んだに違いない。あずささんの推測は的を射ていたのだ。
「とにかく状況を見てきます。あずささん、一緒に来てください」
「はいっ!」
僕はあずささんとふたりで車に乗り込み、山下さんの自宅に向かった。
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