【対峙・2】
★
「僕、先日、嘘をついていたことを佐竹さんに伝えて謝りました」
「わたしたちの勝手で、皆さんにご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
僕はあずささんとふたりで皆の前に並び、同時に深々と頭を下げる。
支店長の表情にはいくばくかの安堵が浮かんでいた。経営はやはり厳しかったのだろう。とはいえ、苦難はまだ解消されたわけではない。
三浦くんは事情を察しているようで、つまり言い換えれば、僕らの間には潔く何もなかったのだと確信していたようで、僕らの決断に惜しみない拍手を送ってくれた。
かたや唯さんはひどく残念そうな表情を浮かべている。本心ではあずささんに本物の恋をしてもらいたかったのだろうが、僕はそうなれる立場ではなかった。期待に添えなくて申し訳ない。
ありちゃんは、ひょいっと机の上に乗り一鳴きすると、あずささんに駆け寄ってすべすべの脚に頬を擦りよせた。黒い彼はあずささんを慰めているつもりなのだろう。
昨日、結婚式を済ませたふたりはお休みだった。二日酔いの光之くんを介抱している朱里さんの姿が目に浮かぶ。
「それに佐竹さんが嘘の代償として僕らに出した条件は、『仕事上でもあずささんとはふたりになるな』っていうことだったんです……」
佐竹さんの心情は理解できるが、業務遂行のうえでは大変不都合だ。皆、うーんと考え込む。
「そいじゃあ、今までみたいにふたり組で営業はいけねえよぁ……」
三浦くんが皆の困惑を代表してこぼすと、支店長はやむを得ずといった表情で采配を提案する。
「あずさは光之と、本社さんは唯さんと組んでくれっか?」
「あたし久しぶりの営業なもんだから、本社さん頼りにしてっからな」
「はっ、はい、わかりました……」
頼られても相当、不安ではある。やっと慣れてきたばかりだし、あずささんがいないとなると心細いことこの上ない。
「分からないことがあったら電話して訊きますね、あずささん」
「はい、いつでもそうしてください」
といいながらも、あずささんも心配そうな表情で、そんな顔をさせてしまう自分の不甲斐なさが情けない。
「ところで本社さんはいつまでここにいるんだ?」
支店長にそう尋ねられ、僕は驚き答えに戸惑う。課長から電話があったことを、僕はまだ誰にも言っていない。
けれども、いつかは言わなければならないのだ。
朱里さんが皆の前で妊娠を報告したように、僕も未来の予定については明らかにしないと、ここにいる全員を混乱させるだけになってしまう。
僕はためらいつつも、工務店の一員として答える決心をした。
「……実は、今月いっぱいなんです」
皆の目がいっせいに見開かれる。誰もが驚きの表情を浮かべていた。
「まじかよ……」
「本社さん、いつ知ったのけ?」
「つい先日、電話があって……」
本当はしばらく前だが、どうしても言い出せなかった。
「しっかし、本社の采配って、酷かねぇべか」
「せっかくチーム組んで、これからだってえのに」
「オラ、本社さんがいなくなっちまうの、残念だっぺよ」
皆、思い思いに僕のことを惜しんでくれる。そんな風に言ってもらえて、嬉しさと申し訳なさが同時にこみ上げてくる。
けれども、あずささんだけは口を閉ざしたままだった。
僕がもうすぐいなくなることを、あずささんだけは察していた。それに、あずささんにとって僕がいなくなることは、佐竹さんと付き合い始めることを意味しているのだ。すぐに心の整理がつくはずはない。
そして僕が、あずささんに大子の町を案内してもらうことは、もう二度とないのだ。
唯さんは僕とあずささんの顔を交互にまじまじと見る。ふたりとも同じように曇った表情だったろう。
すると、唯さんは何かいいアイデアを思いついたようで、ぱっと表情を明るくした。
皆に向かって、唐突にこんな提案を持ちかける。
「よっし、今は仕事が少ない時だがら、時々臨時休業してみんなで出かけっか。支店長、それでよかっぺか」
なるほど、職場のスタッフの皆で出かけるのなら、佐竹さんも文句を言えるはずがない。唯さんは、僕があずささんと大子の町を満喫できるように計らってくれているのだ。
「オッ、オラからも頼んます!」
三浦くんも唯さんの意図を察して同意する。
「「支店長、お願いします」」
「あ……ああ、ただし、そんな度々は駄目だかんな」
支店長はふたりの気迫におされて了承した。
僕はあずささんと顔を見合わせ、それから皆に深々と頭を下げた。とめどなくあふれてくる感謝の気持ちは、これしきでは表現できないが。
「「みなさん、ありがとうございます」」
皆、とっくに気づいているのだろう。僕があずささんを大切に思っていることを。
僕とあずささんは、けっして恋人関係ではない。出向先の同僚であり、友達のようでもあるが、そんな一般的な呼称で語れる存在ではないことにも。
だけど、その関係に無理やり現存する言葉を当てはめるなら。
――「かけがえのない人」としか、僕は思いつかなかった。
あずささんはきっと、僕の胸の中に一生残る、けっして忘れられない人なのだ。
そう思い、僕は決心を固めた。賭けに出る決心だ。
僕は何が何でも、あずささんと一緒にぶんぬき祭に参加してやるんだ、と。
それも、このメロン工務店のスタッフとして。
その日、僕は仕事を早めに切り上げさせてもらった。誰にも聞かれたくないやり取りをするつもりだからだ。
スマホで「グリーンホーム本社」の電話番号をコールする。真冬だというのに、じりじりとひたいから汗がにじむ。それほどに相当な心構えが必要で、相手の受け取り方によっては解雇される可能性があるくらいの賭けなのだ。
電話から交換台の若い女性の声が聞こえると同時に、心臓が奔馬のごとく疾走する。
「はい、こちらはグリーンホームです。どのようなご用件でしょうか」
「情報管理課の社員の久下本です。現在、メロン工務店に出張中なんですが、情報管理課の部長に繋いでいただきたいのです」
「はい、しばらくお待ちください」
「あっ、用件を伝えて頂きたいのですが」
「どのようなご用件でしょうか」
「あの……提携会社に関連することなんですが、『対応しなければ危険なこと』とお伝えください」
「はぁ……承りました」
名前を言わなければ交換台は電話を繋げてくれないが、僕の名前を言えば部長は居留守を使うだろう。
かといって、偽名を使うような真似をしてはならない。上司はそんな不誠実な社員を看過するはずがないからだ。
だから僕は単に、「対応しなければ危険なこと」と言ったのだ。
少なくとも部長は僕だけが知り得る「危険なこと」の心当たりがあるから、そういう僕を無視できるはずがない。エントランスの女の子との不貞関係のことだ。
そして、僕は部長に無理にでも願いを聞き入れてもらうつもりだ。
「……もしもし」
電話に出た男の声は、こちらの様子を伺うような慎重な尋ね方をした。
「部長、久下本です。僕のような末端の者のことを覚えていらっしゃるでしょうか」
覚えていないはずはない。なにせ部長の不倫相手と関係を持った男だ。そして、目障りだったがために提携会社に左遷させた部下だ。さらに、部署が人員不足となり、会社の都合で来月に復帰させることにした端くれ社員だ。
「あ、ああ、情報管理課の君のことはもちろん、覚えているとも。来月からの本社での活躍、期待しているよ」
冒頭は動揺を隠せていなかった。後半は取ってつけたような定型の励ましだ。隙を見せた相手に対し、僕はすかさず賭けのひとことを叩き込む。
「いえ、まだ戻りません。僕にもうしばらく、出向を続けさせてください」
「……なんだね、君は人事に口出しをできる立場なのかね」
即座に正論を吐いてきた。けれども、人事など所詮、他人の都合によるきめごとだ。僕の人生の一大事だというのに、そんなものに屈してたまるか。
「僕は、要件は言ったはずです。『対応しなければ危険なこと』と。何が危険かは解りますよね、部長」
僕は部長の不貞を知っている。だから、ほとんど脅しに近い行為だ。口にせずとも、そのことは伝わっただろう。
けれども部長の立場は害せず、きちんと逃げ道は用意するつもりだ。だから部長には、僕の準備した道に進んでもらう。
「でも、ゴールデンウィークを過ぎれば、僕は危険ではなくなります。それどころか、本社の頃の記憶を失って戻ってくることを約束します。どうか、よろしくお願いします。
では、失礼します」
そう言って自分から電話を切った。僕の要望を呑めば口を閉ざし、呑まなければ部長の不貞の噂は広まる。そういう意味なのだから、部長は拒否できないはずだ。
メロン工務店は、あるものはなんでも使う、そういう流儀で修繕をしていた。その工務店に飛ばした部長に、弱みを使ったことに対して異論を唱えさせるつもりはなかったのだ。
その数日後、メロン工務店に一本の電話がかかってきた。電話を受けた支店長の背中が急にしゃんと伸びた。
皆、鋭さを増した空気に何事かと思い、意識を支店長に傾ける。心当たりがある僕だけは、もしかしたらと察している。
「はいっ、お世話になっでおります。グリーンホームの……情報管理課ですね、課長様ですか、久下本さんの上司の、はい、あっ、久下本さんの仕事? いやもう、てぎぱぎ働いてくださいまして助がっています」
やはり、予想通り本社からの電話だ。皆も気づいたらしく、固唾を飲んで見守る。
「出向期間ですか、いえ、まだ……えっ、五月五日までの予定、ですか!? はいっ、了解しました! では、失礼します!」
会話の意味を理解した皆は、電話が切れた瞬間に拍手喝采をあげる。
作戦は成功したのだ。僕は思わず拳を握りしめ、天井に向かって突き立てていた。
どうやら僕に直接伝えるのではなく、支店長を経由したのには意味があったようだ。課長にとっては悪い知らせのつもりだったからだ。一度、僕にもうじき帰れると言っておきながら、延期になったので気まずさを感じていたのだろう。
「突然の延期なんて、どうなってんだっぺか」
「とにかぐ、よがったなぁ!」
三浦くんと唯さんが驚きの声をあげる。
あずささんは瞳を潤ませていた。僕がまだここにいられることを喜んでくれているようで、その気持ちだけで僕も嬉しい。
それから、皆がわらわらと集まり僕に握手を求めた。僕らは手を取り合って喜びを表現する。
「あずささん、これで僕も一緒にぶんぬき祭に参加できます」
「ああ、本社さん、よかったです!」
「最後の打ち上げ祭りになるっぺよ」
そうだ、その日は僕と君の、打ち上げの祭りになるのだ。
あずささんと目を合わせ、僕は改めて思う。
人生という旅の中では、自分に足りないものを教えてくれる人との出会いが必ずあるという。
だから、僕がこのひとと出会ったのは、偶然なんかじゃない。たくさんのことを教えてもらえた。
僕はこの出会いの運命を、せいいっぱいの、そしてかけがえのない思い出に変えてゆきたいのだ。
それからの三カ月間、僕は地域密着の仕事に勤しみ、余すことなく大子の名所を堪能した。
メロン工務店の皆は、僕の思い出作りに協力的で、必ず誰かが交代で、あるいは皆で、僕とあずささんに同伴してくれた。
二月。袋田の滝を再度訪れる。白い息を吐きだしながら、時が止まったかのように凍りついた滝をふたりで見上げた。自然が織りなす雄大な氷の造形を目のあたりにして感無量だ。けれども、春になったら流れだすんですよとあずささんはいう。この時間が永遠に続かないことを意味しているように思え、僕は少しだけ切なくなる。
それから、帰りがけに「陶磁器工房タクミ」に立ち寄った。皆で拓海さんに挨拶がてら、気に入った陶磁器を買ってゆく。僕はそのときにこっそりと出来上がった湯呑みを受け取っていた。「拓海さん」と呼びそうになって、慌てて「おじさん」と言い直すと、拓海さんはにやりと口元を緩めてみせた。
三月。十二所神社の百段階段を皆で訪れた。赤い
そして、僕と三浦くん、それにあずささんの三人は温泉に立ち寄り、湯船に浸かって至福のひとときを過ごす。僕は三浦くんに裸をまじまじと見られ、「東京人はみんなこんなにスリムなんだべか」と羨ましがられたが、裏を返せばひ弱という意味なのだから自慢にはならない。もう少し体を鍛えようと今にして決心する。
四月。せっかく茨城に来たのだからと、梅花の開花時期に合わせて皆で水戸まで繰り出し、梅の名所である偕楽園を訪れた。長い石造りの階段を上り、梅の香りで満たされる庭園を散策し、一巡りしたところで屋台に立ち寄り焼き魚や五平餅を堪能する。
あずささんは串を持って焼き魚を頬張る時、かすかに「はむっ」と声をあげる癖があることに僕は気づいた。子供のような可愛らしい声に吹き出しそうになったが、気づかれたら二度と聞けなくなると思い必死に真顔をキープする。あずささんはそんな僕を訝しげに見ながら、何度もはむはむと口走っていて、僕は生涯で最高に美味しい屋台を満喫することができた。
そしてソーシャルディスタンス零の唯さんは、「記念に手を繋いで散歩すっぺよ」と提案し、大の大人が七人、手繋ぎで庭園を闊歩した。朱里さんと唯さんは大盛り上がりだったが、男四人とあずささんはひどく赤面していた。
その姿は傍から見ればシュールなことこの上ないものだったろうが、真ん中に僕を置いて、隣にあずささんを並べてくれたのは、やはり唯さんの仕掛けた作戦だったとしか思えない。
これからいなくなる僕のために、皆は言葉にしない、そして、言葉に出来ないほどの祝福を、惜しげもなく贈ってくれたのだ。
当初、この大子を訪れた時は、まさか自分が感謝の気持ちを抱いて去ることになるなど考えてもいなかった。皆の笑顔は、縮まった距離の分だけ、余計にまぶしく感じられた。
そして大子での日々は
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