【対峙・1】

 二月の上旬はふいに世界が白くなる。


 昨夜、愛宕山あたごさんから吹きつけてくる風は無数の宝石を連れ立っていた。


 翌日まで持ち越さないかと心配していたが、朝を迎えると頭上はぬけるような青空で、木々の隙間から差し込む光はまばゆく煌めいていた。


 まだ誰も足を踏み入れていない白の荒野は、雲海のようでもあり綿菓子のようでもある。


 スーツに着替え、コートをまとい、車の到着を待つ。支店長がチェーンを装着した四駆で僕を迎えに来てくれた。


「おはようございます、よろしくお願いします」


「おっはよー、この後、唯さん拾ってっがらな。あずさは三浦が連れてぐるはずだ」


 僕らが目指すのは近津神社。今日はふたりの結婚式だ。両家の意向もあり、懇意にしている神社で神式の結婚式を挙げることになっていた。


 真冬のおひさま結婚式だけれど、うららかな晴天で幸いだった。お天道さまもふたりを祝福してくれているのだろう。


 神社には互いの身内や旧知の友人が総勢で三十人ほど集っていた。ここにいるほとんどの参列者が、ふたりのどちらとも面識があるはずだ。新郎新婦は式が始まる前から皆に囲い込まれ、照れ笑いが止まらなかった。


 神社を訪れる人たちの作りだす空気は、ちいさな世界独特の温かみがあるものだ。


 白無垢を纏う朱里さんは上品な雰囲気をかもし出していて、僕の知る人とは別人のようだった。紋付き袴の光之くんはいつになく真剣な表情で、やけに凛々しく見えた。


 年齢としてはふたりとも本社の新入社員と同じくらいなのに、家庭を作り守ってゆく覚悟を決めた人間は雰囲気から違ってくるものだ。


 しかしそれ以上に、僕は自分の隣が気になって仕方がない。左隣に座るあずささんは臙脂色えんじいろの上品な振袖を着為していて、結い上げた髪には藤色をした硝子細工のかんざしを挿していた。


 普段の快活なカジュアル姿のあずささんは誰からも好感を持たれるが、初めて見る着物姿の魅力は生半可ではない。奥ゆかしさや気品をより際立たせ、ただそこにいるだけで僕の左半身がくすぐられているような、奇妙な感覚を抱かせられる。


 式が始まると、まずは巫女に導かれたふたりが参進の儀式をおこなう。境内を歩き、身内らしき人たちが後に続く。


 それからご社殿の席につき、宮司ぐうじ祓詞はらいことばを述べると、いよいよ神前で夫婦の宣言をおこなう。


 ふたりは最初で最後になるであろう儀式を心に焼き付けるように、ゆったりと指輪の交換を執り行なう。


 神酒を受け取り、三々九度の結び固めを交わす。そして夫婦の誓いを述べる誓詞奏上せいしそうじょうだ。


「自分はまだ何にもでぎねし、ちゃんと支えでやれるがわがらねえけれど、ふたりで助げ合い、励まし合いながら、いづも笑顔の家庭を作っていぐつもりです」


 光之くんの茨城弁での、それもたどたどしい誓詞奏上は誰もが背中を押してあげたいと思わされるものだった。


 そして玉串を神前に供える玉串奉奠たまぐしほうてんをおこなう。


 供えながら顔を見合わせるふたりは、もうすっかり夫婦の空気をこしらえていた。


 式は順風満帆に進んでゆく。あずささんは終始、真剣な顔をし、視線がふたりに釘付けだった。


 まるで自分の時のために段取りを記憶にとどめているようにも思えた。


 僕はそんなあずささんの横顔を見て思う。


 しばらくすれば、もうひとつ、どこかの神社かホテルで、こんな風に式がとり行われるのだろう。そこにはあずささんと佐竹さんの姿があるのだ。無論、僕がその場所に同席することはあり得ない。


 そして宮司が式の執り納めを神に報告し、いよいよ式は終焉を迎えた。


 終わると同時に拍手が沸き起こり、厳かな雰囲気は一気に砕けた。光之くんと朱里さんはふたたび友人たちに囲まれる。皆でわいわいと雑談を交わしながら、次なる会場へと向かってゆく。


「いい結婚式でしたね」


 あずささんはふたりの門出を心から祝っているのだろう、上品な笑みで僕にそういう。


「さあ、それじゃあ披露宴に行きましょうか、あずささん。今日は車じゃないから好きなだけ飲めますよ」


「あーっ、わたしの黒歴史、ほじくり返しましたね!」


 クリスマスの夜を思い出したようで、ぽっと顔を紅潮させる。


「僕、この前酔っ払って怒ったこと、全然根に持ったりしませんからねー」


「ほっ、本社さんのイジワル!」


「はいそうです。あずささんの言う通り、詐欺師で変態でドSの本社さんですよ?」


 あずささんはたまりかねて俯くしかなかったようだが、僕はもう、開き直ってネタにすることにしている。


 この後は、場所を移動して披露宴の予定だ。近隣にある旅館の大広間を貸切っているらしい。


 披露宴は、結婚式の厳かな雰囲気の反動か、たいてい、くんずほぐれつの飲み会になってしまうものらしい。


 無論、飲まされる主役は光之くんなわけで、僕はさっそく彼の身の上を案じている。


 新郎が飲み潰れ、新婦が介抱する役目に回る、それが田舎町における結婚初夜のお約束らしいのだ。


 会場となる旅館に着くと、入口に受付が準備されていた。平たく言えばご祝儀をお渡しするための機会が設けられているということだ。


 僕は新郎新婦両者の知り合いであるからして、今回は少々、奮発させてもらった。


 一応、「職場の者からです」と言って、僕は新郎の方、あずささんは新婦の方にご祝儀を渡した。


 僕はふと、積まれたご祝儀袋の中にある名前に気づいた。


「佐竹 友晴」と書いてあった。


 こっそりとあずささんに尋ねると、確かにあの「佐竹さん」のことだという。


 知ると同時に、全身にアドレナリンが巡る。


 そこで僕は覚悟を決め、あずささんに提案する。


「あずささん、今日、あのことを佐竹さんに言おうと思うんですけれど、いいですか」


 あずささんは少々逡巡したけれど、結局、僕の考えに同意してくれた。


「いずれ言わなければならないことですし、わたしも一緒に謝ろうと思います」


 僕は内心、めでたい席だから佐竹さんも事を荒立てることはないだろうと考えたのだ。この場で事が済めば、工務店の中で騒がれるより余程ましだろう。


 あずささんに確認してもらうと、佐竹さんはすでに会場の座敷に鎮座していた。僕は佐竹さんに見つからないように、披露宴の進行中、外で待機することにした。


 支店長によると、佐竹さんは祝い事があると、呼ばれてもいないのに必ず顔を出し、皆に挨拶をし、ご祝儀を置いてゆくという。


 心から祝っているかどうかは別として、こういった機会に顔を売る努力をすることが、事業主としてはとても重要らしい。


 皮肉めいた言い方をするならば、断れない恩の売り方が得意なようなのだ。


 歓談の時間を迎えたのだろうか、旅館の中が騒がしくなってくる。僕は裏庭に回り込み、佐竹さんの到来を待ち構える。


 しばらくして雪を割る足音が聞こえてきた。丁寧で物静かな足音と、大股で雪を容赦なく踏みつける音だ。


 あずささんに続いて、ジャケットを着、パナマハットをかぶった佐竹さんが姿を現した。僕はすかさず一礼をするが、佐竹さんは頭を下げず、威圧するように歩み出て僕の目の前に立ちはだかる。


「あんたが東京からきた盗っ人だな」


 一言目から挑発的な態度だった。僕があずささんを奪い取ったという意味だろう。険悪な雰囲気に、あずささんがすかさず間に割り込む。


「佐竹さん、どうかそんな風に言わないでください。実はわたしたち……」


「あずささん、僕の提案ですから、僕から話します」


「……いいんですか、本社さん」


「はい、責任がありますから」


 佐竹さんは露骨に眉根を寄せた。状況を理解できないでいるようだ。


「佐竹さん、実は、あずささんとお付き合いさせていただいているというのは嘘なんです」


「……はあ?」


「あずささんに仕事を続けてもらいたくて、佐竹さんの返事を先延ばしにさせるために、恋人になったという既成事実を僕が提案したんです」


 しかし、佐竹さんは即座に反論する。


「信用ならねえな、仕事の発注が減ったからって、取ってつけた言い訳かもしれねえ。嘘自体がでっち上げじゃねえのか?」


 佐竹さんは賢く、そして疑い深い人間のようだ。そして今の発言からすると、僕と付き合っていると知って仕事の発注を止めたのは確かだった。あずささんも僕に加勢する。


「本当なんです。わたし、どうしてもメロン工務店のみんなに恩返しをしたくて、ぶんぬき祭までは仕事を辞めたくなかったんです」


「ぶんぬき祭……か」


 佐竹さんはしばらく逡巡してから、にやりと片側の口角を上げた。その表情に嫌な予感がする。


「あずささん、その男と別れたら、俺と付き合うと言っていたよな。本当にその男と付き合っていないのなら、今すぐ返事を出来るはずだよな。それも、こいつの目の前でっ!」


「そっ、それは……」


「それに、今ここで返事をしさえすれば、仕事は祭の日まで続けても構わない。だが、返事がなければ……工務店は潰れるかもな。俺の一声で、この地域にどれだけ影響があるかは分かっているだろう? 業者は水戸からだって来てくれるんだ」


「そんなっ……!」


 まるで待たされた鬱憤うっぷんを晴らすかのように、佐竹さんは容赦なくあずささんを追いつめる。


 あずささんは視線を泳がせ、今にも泣き出しそうだった。


 でも、どうせもうすぐいなくなる僕のためにあずささんが気を遣う必要はない。僕は歯を食いしばり、口にしたくなかった言葉を断腸の思いで吐きだす。


「あずささん、僕はこの町の人ではありません。気にせず佐竹さんにちゃんと返事をしてあげてください」


 そうして僕の想いを断ち切り、メロン工務店を救ってくれれば、すべてが丸く収まるはずだ。返事をためらう必要なんて、まるでないはずだ。


 それでも、あずささんは困惑し口を開かなかった。


 即座に返事がなかったことに、佐竹さんは苛立ちをあらわにする。あずささんの迷いの態度が佐竹さんのプライドを傷つけたのだろう。


 歪んだ眉根の下の視線は、あずささんから僕へと向けられた。吐き捨てるように言う。


「あんたが……あんたが来てから、すべてがおかしくなった! だから、あんたにはまず、嘘をついたことの謝罪をしてもらう。この場で跪け!」


 槍を突き立てるような鋭い視線で僕を睨みつける。


「はい、分かりました」


 僕は抵抗せず、その場で冷たい雪上に片膝を落とす。


「なに取って付けたような格好してるんだ。両足つけて土下座に決まっているだろ!」


 僕はこんな奴に土下座なんてと葛藤しながらも両膝を雪に埋める。冷たい雪が体温で解けてスラックスに染み込んでくる。けれども足が震えるのは寒さのためだけではない。


 僕には分かっていた。あずささんは僕がいるから、答えられずにいるのだ。僕に、佐竹さんに返事をするところを、けっして見せたくないのだ。


「それから頭を雪に埋めろ!」


「はい……」


 今日はめでたい席だから穏便に収まると思ったのは大間違いだった。


 この燃え盛る怒りの矛先をあずささんに向けさせてはいけない。


 大切な人を、苦しめてはならないのだ。


 僕はただ、あずささんを守ってあげたい一心で、意地もプライドもかなぐり捨てる。


「佐竹さん、そんなこと、やめてください!」


 あずささんが止めようとすると、佐竹さんはあずささんに向かって重々しく口を開く。


「あずささん、俺がなんで東京の人間が嫌いだか、分かってるよな」


「はい……」


「俺が標準語で喋ってる理由も分かるよな」


「はい……分かっています」


 そう言ってから、よこしまな人間を見るような目で僕を見下ろす。


「あんたには話してやるよ。いいか、俺が東京に軍鶏肉を卸しにいくだろ? あれだけ苦労し、手塩にかけて育てた軍鶏の命をさ」


 佐竹さんは一歩足を前に出し、僕の目前の雪を靴の踵で踏みにじる。


「東京の連中はな、平気で値切りやがるんだ。それも笑いながらよ。値切った分が自分らの利益になるもんだから、俺らの苦労を簡単に踏みにじるんだ。しかも、逆らったら、その場で放り出されるんだぜ」


 それから地面の雪を勢いよく蹴りあげた。顔面に冷たい雪の粒が衝突し、ひどい痛みを覚えた。思わず身をかがめる。


 さらに口調が荒々しくなる。


「いいか、茨城弁で喋るとなぁ、あいつらは家畜を見るような目つきに変わるんだ。俺らの伝統も歴史もなぁ、東京の連中にとっちゃブタの悲鳴と同じなんだよ。


 だから俺は東京人に舐められないように、大嫌いな東京弁を喋ってるんだ!


 東京の連中はなぁ、奥久慈の軍鶏、それも産地直送っていう、ていのいい肩書きだけありゃあ、生産者には用無しっつってんだよ!」


 そんな人間ばかりじゃない、と反論しようと思ったが、僕は思い直して口を閉ざした。


 本社では地方に仕事を発注する立場だった僕が、現場の人間を軽く扱っていたことは否定できないからだ。


 佐竹さんの言う通り、僕だって酷い東京の人間なのだ。


 あずささんが奪われる僕の痛み、家族を失ったあずさんの痛み、佐竹さんの屈辱のような痛み。


 そして、僕がたくさんの人に与えてしまった痛み。


 想像した様々な人の痛みが僕の心臓を引き裂いてゆく。


 唇を噛み締め、僕は言われた通り、ひれ伏したまま、頭を雪の中にうずめた。


「……確かに佐竹さんの言う通りです」


「本社さん……そんなことまでしないでください……」


 あずささんは涙声でそういうが、僕は引き下がるつもりはない。


「いいんです、あずささん。ただ、謝るだけじゃなくて、僕から佐竹さんにひとつだけ、お願いがあるんです」


「けっ、お願いだと?」


 佐竹さんが僕のこのお願いを聞いてくれるのであれば、僕はどんな屈辱だって耐え凌げる。これだけは大子を去る前に伝えたかったのだ。


 僕は頭を伏せたまま、胸の内に湛えた想いのひとことを絞りだす。


「あずささんは、とても優しくて繊細な人です。ですからどうか、ずっと、大事にしてあげてください。そして、幸せにしてあげてください……」


 するとしばらくの間があった。耳で反応をうかがうと、ようやっと佐竹さんは口を開いた。


「……チッ、この期に及んでいい人ぶりやがって。建て前だらけの東京人は顔を見るだけで虫酸が走る。その面つらを、この場で蹴っ飛ばしてやる、顔を上げろ!」


 そう言われた僕は勢いよく顔を上げ、上から見下ろす佐竹さんの顔を見据える。


 覚悟はしていたのだが、佐竹さんは僕の顔を蹴るような様子はなく、むしろ僕をひれ伏させたことですでに気が鎮まっているようだった。


 おそらく、僕がここまで大人しく従ったのが意外だったのだろう。


 冷静さを取り戻した声で、あずささんに向かってこういう。


「……あずささん、やっぱりこいつがいると、すっきりと付き合う気にはなれねえ。目障りなこいつが姿を消してから、ちゃんとした返事をしてほしい」


「あっ、ありがとうございます!」


「ただし、条件がある。以後、絶対にこいつとふたりきりになるな。仕事上でも、だ。その条件を破ったら覚悟してくれよな」


 そう言い残し、佐竹さんはきびすを返して去っていった。


 僕は佐竹さんの姿が見えなくなってから、のっそりと立ち上がる。


「わたしのためにこんなことをさせてしまって、本当に申し訳ありません……」


 あずささんは涙をこぼしながら頭を下げた。けれども僕は、あずささんの頬にそっと手を当て涙を拭き取る。


「さあ、泣き止んで、みんなのところに戻りましょう。光之くんも朱里さんも、あずささんがいないと気にするでしょうから」


「本社さん、わたし……わたし……」


「お願いですから、それ以上は何も言わないでください」


 僕はあずささんの唇の前に、そっと人差し指を立てる。


 気持ちが崩れたときには、本心以上のことを言ってしまうこともあるからだ。


 けれども、反則だが僕だけは喋らせてもらう。


「悪いんですけれど、僕は今日……これ以上は一緒にいられないです。だって……」


 声が詰まる。言葉が震える。


 そして晴れた雪景色が、ひどく歪んで見えた。慌てて背を向ける。


「……こんな晴れの日なのに、部外者の男が泣くところなんて見たくないでしょう」


 僕はそのままひとり、立ち去ろうとする。


 けれどもすぐさま、両肩を細い指にぎゅっと掴まれた。あずささんが僕の背中にひたいを押し付けてささやく。


「ずるいですよ、わたしの泣き顔は知っているくせに。本社さんは男女平等じゃなかったんですか……」


 僕はひたいの温度を背中で感じながら、そういう意図をはっきりと認識していた。


 あずささんは、どこまでも優しい人だ。今度はあずささんが、僕の燻くすぶる気持ちの行き場になってくれようとしているのだ。


 自分自身の胸の器では支えきれない想いが、知らぬ間にこぼれていた。


「……僕は心底、悔しいです。あずささんに何もしてあげられない自分が。ここからいなくなってしまう自分が。それに、人生の中で、いろんな事にちゃんと向き合ってこなかった自分が」


 正直、認めてもいいじゃないか。


 僕は、本当はとても脆くて、だから自分が壊れないように、誰にも深入りをしなかったことを。


「女性の前で泣かないのは、ただの強がりでしょうか……」


「ええ、ただの強がりですよ。本当に強い人はきっと、たくさん泣いたことがある人だと思います」


 僕はもう、分かっていたはずじゃないか。


 僕はこの大子の町に来て、みんなに成長させてもらったってことを。


 そして、僕の心を奪う人がいて、本当の恋というものを思い知らされたことを。


「本当は僕、この町が好きになったんです。少しでもこの大子の町の役に立とうとしていたんです……」


「ええ、知っていましたよ。それに、ちゃんと役に立っていましたよ、本社さん」


 だから、もしも許されるのであれば、今だけは甘えてもいいだろうか。


 振り向いた僕の顔は、きっともう二度と目にすることはないくらい、崩れていただろう。そんな顔を見せられる女性は、もういないかもしれない。


「あずささんと別れるのは、とっても悲しいです。だけど、悲しいくらい、大切に思える人に会えたことは、すごく幸せなことなんですよね……」


 一期一会の出会いなんて、滅多にあるものじゃない。あずささんは、僕にとってそういう人だ。


「もうすぐ帰ってしまうんですね、東京に」


 あずささんはぽつりとそう言った。僕の様子から察したら、きっと筒抜けだったのだろう。


「はい、だから……いいですか……」


「いいですよ、わたしの胸でよかったら」


 その一言に、僕はもう、自分を止められなかった。


 そして。


 帰りたくないけれど、東京に帰るのだと。


 もっとしっかりした男になりたいのだと。


 あずささんに結婚してほしくないのだと。


 そんな風に、駄々っ子のように泣きわめいた。


 人間が溜められる涙の量って、いったいどれくらいなんだろう。


 でも、それはきっと、想いが深くなれば増えていくものだろう。


 初めて女性の胸の中で泣きながら僕は、そんなことを思っていた。


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