【かけがえのない思い出・3】

 ★


 僕はあずささんを助手席に乗せ、愛車シビックRを走らせ細い山道を登っていた。先日約束した、竜神峡に向かっているのだ。


 今日はどうしてもふたりきり来たかったから、相棒のありちゃんにはお留守番をしてもらっている。


 現在午前八時十分。もうすぐ竜神大吊橋を渡ることができる時間になる。けれどもあいにく、あたりは濃い霧に覆われていて、ランプを点灯させていても遠くまでは見通すことができない。


「本社さん、ついてきていただいて、本当にありがとうございます」


「いえいえ、名所を訪れるのは僕からのお願いだったはずですよ。この霧だと見晴らしが良くないのは残念ですけどね」


 竜神大吊橋の入り口は舗装されていて駐車スペースがあった。出店も並んでいたが、営業は始まっていない。それどころか、この霧のせいで訪れる人はおらず、人影自体が見当らなかった。


 無愛想な老婆から入場券を購入して小さなパンフレットを受け取ると、そこには鮮やかに色づいた山麓と、それに囲まれた瑪瑙めのう色の湖が映っていた。


「タイミングが良ければ、こんな景色が見れるんですね」


「ええ、以前来た時は、木々が芽吹く頃でした」


 訪れたのは震災が起きる直前のことで、それからもうすぐ九年が経つのだという。


 僕はあずささんとふたり、吊り橋の上にかかるミルク色をした霧の中を、ゆっくりと足を進めてゆく。


 竜神大吊橋は全長三七五メートルの巨大な吊橋で、頑強な構造のためほとんど揺れることはない。あずささんは地震でなくとも、そういった揺れにはひどく恐怖心が煽られるらしい。


 体感としては橋の中央辺りにきた頃だろうか、覆う霧はなおさら濃くなり、空に浮かぶ雲の中に投げ出されたような感覚になる。届かぬ光のせいで、この場所が現世とはまるでかけ離れたもののように感じられる。


 あずささんは足を止め、柵に両手を乗せ、ぼんやりと霧の中を見つめ始めた。僕もその場で立ち止まる。


「あずささん、きっと幸せな家族だったんでしょうね」


 痛みを伴わないようにそっと尋ねると、あずささんは思いだすように口を開いた。


「ええ、両親は仲が良かったですし、弟の慧さとしは温厚で友達も多かったです」


「残念ですね……いや、残念なんかでは語りきれないですよね」


「はい……わたしも一緒に逝きたかったと、何度も思いました」


 そう言って顔を伏せる。


 その姿を見て拓海さんの言葉を思いだす。当時はそう思ってしまうのも当然な状況だったはずだ。


 とはいえ、僕は頭では理解できても、けっして共感できているわけではない。自分自身を殺してしまいたくなるような気持ちは、相当な絶望を味わっていなければわからないだろう。


 僕ができることは、ただ一緒にいて、あずささんの思いの行き場になってあげることだけだ。


 それすら、いずれ出来なくなるのだが。


 あずささんは手のひらをぎゅっと胸にあてて、祈るように目を閉じた。家族のことを思い出しているのだろう、だから僕は何も聞かず、その様子を看守する。


 しばらく、儀式のように粛然とした時間が流れる。それから、あずささんは大きく息を吐いて肩の力を抜いた。


「本社さん、お待たせしました、渡りましょうか」


 あずささんがそういって足を踏みだした瞬間だった。


 ――ドンッ!


 重く強い衝撃が足元に走った。


 まるで重機が橋の上に乗り上げたかのような衝撃だ。吊橋が蠢き、あたりの白い空気がいっせいに振動する。


 よりによって、また、地震が起きたのだ。


「あっ……!」


 あずささんは驚いてその場にしゃがみ込む。僕はすぐさま、あずささんの側に身を寄せ、手すりに掴まり身構える。


「いっ、嫌っ、恐い……ッ!」


「僕につかまっていてください!」


 それから大きな横揺れが襲ってきた。吊橋がきしんで悲鳴をあげる。揺れは増幅され、より大きな波動となってあずささんの深層を襲う。


 あずささんは地に膝をつき、目を見開いて全身を震わせている。以前の地震の時と同じように放心し、僕の存在を認識できなくなっていた。


「誰かっ……助けて……お願い……ッ!」


 次第に呼吸が荒くなってくる。まずい、誰か助けを呼ばなければ。


 慌ててスマホを取り出したが、橋の中央は電波が「圏外」となっていた。閉ざされた霧の中、あずささんの苦悶の息遣いだけが響いている。


 あずささんを一人きりにするわけにはいかないし、よしんば連絡がついても、誰もこの場所まですぐに来られるわけではない。そして辺りに人の姿はない。霧の孤島に取り残されたような感覚だ。


 ――僕がどうにかしないといけない。


 ふと、あずささんは顔をあげ、ゆらりと立ち上がる。焦点の定まらない目で静かに歩き出した。明らかに様子がおかしかった。


 怯えているわけではなく、まるで何かに意識を奪われているような、そんな雰囲気だった。僕が呼びかけるのも耳に届いていないようで、ひとりきりで進んでゆく。その姿は濃霧に溶けるように消えていった。嫌な予感がしたので、すぐさま後を追う。


「あずささん、どこですか」


 けれど返事はなく、姿も見えなかった。不安で全身から冷汗が吹き出し、心臓が早鐘を打つ。霧の中を必死に駆け回るが見つからない。


 ――あずささん、どこに行ったんだ。


 まさに五里霧中の状態だった。


 視界に頼れなかったので、神経を耳に集中してあたりの音を拾う。すると、かつん、と金属の音が聞こえた。すぐさま欄干伝いに音の鳴った方に駆け寄る。


 あずささんは橋の欄干の上に立ち、空に向かって手を伸ばしていた。


「待って、お父さん、お母さん……」


 蚊の鳴くような声だったけれど確かにそういった。幻覚に捉われているんだと直感した。そしてすっと一歩、足を踏み出した。欄干の外に足場はない。あるのは奈落の底だ。ぐらりと身体が崩れる。


「危ないっ!」


 慌てて飛び込み、あずささんの腰を抱きかかえる。重力で体を持っていかれそうになったが踏ん張り、全身全霊であずささんを橋の上に引き戻す。


 よろけて倒れたが、かろうじて事なきを得た。あとわずかでも遅れたらと想像し、恐怖で心臓が大きく跳ねている。けれどあずささんは焦点の定まらない目をして這いずりながら柵に手をかける。


「わたしも連れて行って……」


「駄目だ、あずささん!」


 あずささんの後ろ髪に指先を忍び込ませ、手繰り寄せて僕の胸に頭を押しつける。


 頭を撫でながら、子守唄のようにやわらかく言い聞かせる。


 どうか、落ち着いてくれ。


「――あずささん、今、目の前にいるのは僕ですよ。『本社さん』っていう、あずささんの恋人ですよ。一緒に嘘をついて、同じ時間を過ごしてきた、頼りない男ですよ」


「本社……さん……?」


 僕の呼び名が耳に届いたようで、あずささんは胸の中から僕の顔を見上げる。現在と過去の記憶が混乱しているのか。


 悪夢と現実のどちらが心を奪うのか、あずささんの胸中で闘っているように感じられた。


「メロン工務店のみんなも待っていますよ、あずささんのこと」


「メロン……工務店……?」


「お客さん達も、あずささんと会うのを楽しみにしているんですよ。あずささんは大子町のみんなに、大切にされているんですよ」


「大子町の……みんな……あっ!」


 あずささんは突然、はっとなって僕の顔を直視した。視線はきちんと僕を捉えていて、息遣いも落ち着きを取り戻していた。よかった、現実に戻って来られたみたいだ。ほっと胸を撫で下ろす。


「わたし……また発作が起きて……」


「そうみたいです。でももう大丈夫ですね。立てますか?」


「……はい、本社さん」


 手を取ると、あずささんは僕の目を見据えて立ち上がった。あずささんは霧の奥に視線を向けたままおもむろに足を進める。僕も手を取ったまま、霧の奥を目指す。


「……本社さん、わたし、どんなに辛くても、現実から目を逸らさずに生きていこうと思いました。支えられるばかりじゃなくて、ちゃんと誰かを支えてあげられる人になりたいんです」


 ああ、あずささんは家族との日々を思い出に置き換えようとしているのだ。僕にはその覚悟が伝わってきた。


「ご家族の方、きっと大子の風になってあずささんを見守ってくれていますよ」


「そう思っています。わたし、悲しいことがあっても、やっぱりこの町が好きなんです」


 そうして僕に、道端に咲く花のような、ちいさな笑顔を向けてくれた。僕も下手な笑顔で返す。


 次第に霧が薄くなり、隙間を縫って幾多の光の帯が足元に差し込んでくる。


 いつの間にか辺りの霧は消え去っていて、眼下には穴の開いた雲の絨毯と、その先には瑪瑙色の湖面が広がっていた。さざ波が砕けたガラス細工のように、注ぐ光を瞬かせていた。


 あずささんは大切な家族を失い、ひとりになってしまった。けれど立ち直れたら、きっと新しいしい家庭を作り、失ったものを築き上げ、少しずつ取り戻していくのだろう。


 僕はそれを見守ることも、知ることもできないけれど、今でも未来でも、きっといつでもあずささんの幸せを願っている。


 僕にとっては、こんなにも愛おしい人だ。想う程に別れはつらいかもしれない。それでも、一生のうちで今しかないこの季節は、けっして忘れてはいけないのだ。


 この地で経験したひとつひとつが、僕の心の中に染み込んでいくのだから。


 そう思い、僕は無意識に切り出していた。


「あずささん、お願いがあります。手を、繋いでもらえませんか」


 あずささんは驚いたような顔をしたけれど、僕を見上げて立ち上がると半歩、身を寄せた。


「……はい、わたしもそうしたいです」


 肩が触れ合う距離で、僕の手があずささんの手と触れ合う。ふわっとした、柔らかいあずささんの指先の感触が、僕の手のひらを包み込む。


 僕も、そっと指先に力を込めた。


 互いが互いの手の感触を確かめあって、その温度を忘れないようにと、心の中に留めている。あずささんは恥じらいながらも小声でもらす。


「人の手って、あったかいですね……」


 あずささんは人の手の温度を、九年間、忘れていたんだと思う。感謝の握手ではなく、感情を分けあうための、指先の語らいというものを。


 僕にとっては、この熱量は叶えられない恋の温度だ。伝えられない想いを、せめて指先の温度に託していたい。


 けれども、あずささんの手の温かさは、いったい何の温度なのだろうか。


 僕はあずささんの中に、どんな形で残ってゆくのだろうか。


 僕は、空を見上げるあずささんの横顔を見て思う。


 ――どうか、僕がこの大子の町を去る時、最後に教えてはもらえないだろうか? あずささんにとっての僕が、どんな存在だったのかを。


 ★


 それから間もなく、本社からの連絡があった。休日にかかってきた電話の相手が誰なのかは声ですぐにわかった。課長からだ。


 うわずっていたから、本人とすればいち早く吉報を届けたつもりだったのだろう。


「いよお久下本、久しぶりだなぁ」


「ご無沙汰しております、課長」


「だいぶ待たせたが、結論から言おう。お前はもうすぐ本社に復帰できるぞ。人員不足が出て部長が困っていた」


 どうやら背に腹は代えられないらしい。


「時期はいつですか?」


 せめてゴールデンウィーク明けを願っていたが、そんなに思い通りにいくはずはなかった。


「二月いっぱいな」


「来月、ですか!?」


 まさか、あとひと月とは。


 本社は飛ばすのも戻すのも駆け足で、こちらの都合はお構いなしだ。


「田舎町で暇だったろ? 早く戻って都会でストレス晴らせや」


「……はい、分かりました。ご連絡ありがとうございます」


 血の気が引くのを感じながら通話を終了させた。


 どうやら僕はメロン工務店のスタッフとしてぶんぬき祭に参加することは許されなかったらしい。


 そして僕が東京に帰ると同時に、あずささんは他の男の手に渡ってしまうのだ。


 僕は布団に潜り込み、丸くなったありちゃんを撫でながら語りかける。


「ありちゃん、悪いんだけど、僕とはもうすぐでお別れなんだ」


 ありちゃんは不思議そうな顔をした。


「多分、あずささんと一緒に佐竹さんの家に引っ越すことになると思う。佐竹さんが新しい主人になったら、この前みたいに怒っちゃダメだからね」


 分かっているのかいないのか、元気よく「ニャー」とひと鳴きしてベッドから飛び降りる。一方の僕は薄笑いを浮かべることしかできなかった。


 当初は腰掛けでしかないと思っていたはずなのに、今や大子の地を離れることに虚無感しかなかった。


 あずささんと少しでも長く一緒にいたい、そう考える自分自身が大子の中で一番、都合のいい人間だと思えてならなかった。

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