【今世紀最大のミスリード・2】
空腹の胃袋に準備されたチキンとピザを満たしてゆく。出来合いのものとはいえ、空腹とあずささんの準備のふたつだけでスパイスとしては十分だ。一流レストランのディナーよりも美味しく感じられる。
僕はビールを口にしようとして、ふと、思いとどまった。
「あずささんってお酒は飲まないんですか」
「飲みますよ、ビールもワインも。でも本社さんを送っていかないといけないじゃないですか」
どうやら僕に気を遣っているらしい。思い起こせば歓迎会の時もそうだった。
「それじゃあ申し訳ないです。もしよかったら僕は飲まないですから、あずささんが飲んでいいですよ」
すると向かいのソファーに座る三浦くんが割り込んでくる。
「いやあ、本社さん、今日はあずさの言葉に甘えた方がいいんじゃなかっぺか」
三浦くんは僕と一緒に飲みたいのだろうか。なぜか苦い顔で僕の提案に引き気味だ。
「いえ、男女平等の世界ですからね。それに僕、オレンジジュース好きなんですよ」
そう言ってあずささんとグラスを交換する。
「……本当によろしいんですか」
「全然、気にしないでください。たまには気を抜いてください」
「あずさ、ちょいとにしとけよ」
「じゃあ、本社さんが許してくださったので、今日は特別っていうことで」
そう言ってもう一度、僕とグラスの音を響かせる。
あずささんはシャワーで疲れを洗い流すかのように、ぐいっと杯を乾かした。
「ぷはぁ~、美味しいです」
満足げなあずささんの姿に、勧めて幸いだったと思う。
僕がローストチキンをとりわけてありちゃんの目の前に置くと、ありちゃんは猫バス姿のまま大喜びで飛びついた。
「おっきくなったなぁ……」
僕がこの大子を訪れてもうすぐ三ヶ月が経つ。ありちゃんはもはや大人の猫の体格と貫禄を身につけている。
獲物をむさぼるありちゃんを眺めながら僕も夕食を平らげた。僕と三浦くんが食べ終わったタイミングを見計らい、あずささんは立ち上がった。
そして冷蔵庫へと向かったのだが、若干、足元がおぼつかなくなっている。
テーブルの上にはいつの間にか空いたビール缶が三個、並べられていた。結構、飲んだらしい。
「じゃーん、今日はまだこれがあるんですよぉ」
あずささんが冷蔵庫から持ち出してきたのはシュトーレンだった。生地の中から数多のドライフルーツが顔をのぞかせている。
「本社さぁん、わたしが手作りしたんですよぉ」
「おおっ、手作りですか!」
大皿の上に綺麗に並べられたシュトーレンは、食べやすいように切り分けられている。粉糖がたっぷりまぶしてあって、まるで雪に包まれたように見えた。
「シュトーレンってぇ、ドイツのお菓子でクリスマスに食べるものらしいですからぁ。上旬に作って馴染ませておいたんですよぉ」
「そりゃ美味しそうだけんど……あずさ、大丈夫だべか」
あずささんはいくぶん、ろれつが回らなくなっている。三浦くんもあずささんの様子の変化を心配しているようだ。
「じゃあ、食べましょうよぉ」
「いんや、やっぱり腹いっぱいになったし、ここで一眠りするとすっか。仲良くふたりで食べててな」
そう言って三浦くんは靴を脱ぎ、座っている向かいのソファーに堂々と横になった。夕食の分量としては控えめだと思うのだが、疲労が勝ったのだろうか。
ふと視線を感じ隣を見ると、あずささんはじっと僕の顔を見つめている。
「頂いていいんですか、シュトーレン」
「はい、でもその前に、ひとつだけよろしいですかぁ」
あずささんはむすっとした顔で、目が据わっていた。どうやら本当に酔っているようだ。不穏な空気が漂う。
「本社さん、いつ東京に帰っちゃうんですかぁ」
「帰り、ですか?」
突然、なぜそんなことを聞くのだろうか。困惑して三浦くんに視線を向けるが、瞼はすでに閉会式を済ませている。
「わからないです。でもそんなに長くないはずです」
「ふぅ~ん、帰ったらさっそく、恋人を作るんでしょうねぇ。本社さんはモテるんですよね」
そして顔を近づけ、僕の両側の頬を指でつまんで引っ張った。甘い香りとビールの匂いが混じって媚薬のようだ。僕は大人しく借りてきた猫になって自制する。
「えいえい、変な顔になってしまえ!」
酔っ払ったあずささんは駄々っ子のような口調になっている。普段のあずささんとは違った可愛らしさで夢のようだ。けれども引っ張られる頬の痛みが、ここは現実世界だと僕に伝えている。
まさか、酒癖が悪いのか?
そう思ったけれども、僕は気にも留めないふりをする。ちゃっかりと、乱れたあずささんも見てみたいと思ったのだ。
「東京に帰ったらもう絶対に顔見ないですからねー」
「いや、もしかしたら遊びに来るかもしれませんよ」
「ぷーんだ。遊びに来たって、わたし、会いませんからねぇ。昔の恋人に会ったら佐竹さん、怒っちゃいますよぉ~」
ああ、確かにそうだ。僕がいなくなれば、あずささんは佐竹さんのものになるのだ。
そう考えていると、あずささんは僕の頬から指を離して手を下ろす。
じわりと、表情に湿り気が混ざる。そして思いがけないことを口にした。
「わたし、やっぱり……佐竹さんに本当のことを言います。嘘はここまでにしましょうよ」
「ちょっと待ってください、どうしてなんですか」
この嘘は、僕にとっては僕とあずささんを繋げるための架け橋だ。
恋人のふりをやめると言い出したのは、佐竹さんからの発注が減って、工務店が経営上厳しくなってしまうのを懸念したからだろうか。
けれども、もしも本当のことを言えば、佐竹さんの求愛に対する返事をおざなりにするわけにもいかなくなる。
わがままかもしれないが、僕はあずささんとの嘘の関係を終わらせたくはない。この人を目の前で他人に奪われるなんて、想像しただけで内臓がえぐり取られる気分だ。
「まだ、時間はあるじゃないですか。みんな協力をしてくれていますし、誰も反対していないと思います」
あずささんは指先で自分のシャツの裾をぎゅっと摘まんだ。顔が赤らめていて、困惑しているようにも恥じらっているようにも見えた。何を考えているのだろうか。
「嘘を突き通しても絶対にバレますから」
あずささんは確信があるような口調でそう言ったが、僕には解せなかった。
絶対にバレるとは、一体、どういうことなのだ。
佐竹さんが僕との付き合いを嘘だと知るとすれば、メロン工務店の誰かが佐竹さんに内通しているということなのか。結束を交わした五人の顔を思い返すが、彼らが裏切るとは思えない。
けれども、経営上の危機が訪れれば、仕事の受注とあずささんに関する情報の交換という図式が成り立つかもしれない。利害関係だけを考えれば大いにあり得ることだ。
だとすれば一体、誰が? 僕の脳は一気に推理モードに切り替わる。
僕は三浦くんが眠りに落ちているのを確認してから、さらに慎重にあずささんに小声で話す。
「あずささんは、知らないんですか?」
僕は具体的に何が、とは言わずそれだけを尋ねた。
もしも内通に心当たりがなければ、何のことだか意味がわからない質問だ。
けれども、もしも僕の「誰かが内通している」という推測が正しく、あずささんに心当たりがあれば、少なくとも何らかの反応を示すはずだ。お酒が入っているからなおさらごまかせないだろう。
するとあずささんは顔をひどく紅潮させ、指先が震えだした。不自然なくらいかすれた声で返事をする。
「……正直、知らないです。本社さん、そんなこと聞かないでください……」
明らかに様子がおかしかった。どう考えても裏には何かあると思わせられる。それなのになぜ、知らないというのだろう。
「本当に知らないんですか?」
「だっ、だって、仕事が一番大事ですから……」
仕事が大事、ということは、メロン工務店の秩序を保つため、あえて詮索せず波風を立たせなかったということなのか。
とはいえ、嘘をついていたということで佐竹さんに負い目を持ったら、あずささんが後々悪い扱いを受けるに違いない。
「でも、僕と付き合っていないと伝えたら、佐竹さんにはすぐさま激しく突っ込まれるでしょうね」
僕は何気なくそういったが、あずささんは突然、ばたりとソファーに突っ伏して肩を震わせた。それにしても大げさなくらいの反応だ。アルコールによる修飾のせいだけだとは思えない。
「が……我慢していた男の人って容赦ないんですね……わたし、怖いです……」
確かに平然とプレッシャーをかけてくる佐竹さんのことだ。僕の想定以上にあずささんは佐竹さんを恐れているらしい。それなのに結婚するつもりだなんて、よほどの覚悟があるのだろう。
あずささんは哀願するような小声で言う。
「せめてもう少し丁寧に扱ってほしいです……」
そこで僕は佐竹さんへの対抗心から、せめて自分の誠意をアピールしようとした。
「僕はあずささんのこと丁寧に扱いますよ。やっぱりお互いに気持ちよくないとうまくいかないじゃないですか」
笑顔しかない光之くんと朱里さんの関係を思い浮かべる。つがいは傍から見ても好感が持てるような仲睦まじさが望ましい。
けれども、僕の言葉を聞いたあずささんは、今度は驚いたように勢いよく身を起こす。僕を見る目は潤んでいて、怒りと動揺と憔悴が混ざっているように思えた。
いったいどうしたというんだ? アルコールで頭がおかしくなってしまったのだろうか?
あずささんの口調が、僕を振り払うかのように荒々しくなる。
「確かにそうですねっ! そうすれば嘘がバレずに済みますげんど……まさが、本社さんはわたしをそんな目で見でいだなんて思いませんでしたっ!」
……は? あずささんは何を言っているんだ?
突然の茨城弁のせいで、意味が十分に理解できない。あずささんはやはり、相当、酔っ払っているようだ。
「本当は最初がらそういう腹積もりで『嘘の恋人』を提案したんじゃないんですがっ!」
訛りのせいで迫力のある剣幕に、僕は訳が分からずしどろもどろで答える。
「そっ、そういうつもりって、どういうつもりですか?」
「あーっ、またわたしに恥ずがしいごど、口にさせようどしてますね、本社さんってすごい趣味してますよね、信用したわたしが情げないです!」
何がすごい趣味で何が情けないのか、僕にはさっぱりわからない。いよいよ支離滅裂で手がつけられなくなってきた。
僕はとりあえず気持ちを落ち着けさせようと説得を試みる。
「あずささん、冷静になってください。はっきり言いますけど、僕はあずささんに喜んでもらえたら嬉しいと思っただけですし、僕だってなるべく楽しみたいんです」
「きゃー! きゃー! 聞ごえない聞ごえない! そんなふしだらな誘い、全然聞ごえません!」
あずささんは両耳を押さえて首をぶんぶん横に振る。もはやあずささんはお酒で壊れてしまったらしい。
そして勢いよく立ち上がると、ふらついた足で暗室に駆け込む。振り向き僕を睨んでいう。
「本社さんの詐欺師ッ! 変態ッ! ドSッ!」
それから勢いよく扉を閉め、鍵をかけた。
静寂の事務所で僕は唖然とする。いったい、あずささんはどうしてしまったのだろうか。
かなり怒っていたようだったが、僕が何か気に障るようなことをしたのだろうか。思い返してもどこにも心当たりがない。
けれども、ただの悪酔いにしては様子がおかしすぎだ。まるで僕をケダモノ扱いしていた。
ふと、ソファーの向かいから視線を感じた。おそるおそる目をやると三浦くんがソファーに寝転がったまま、にんまりと笑って僕を見ていた。
「修羅場が訪れたっペか?」
悪戯っぽいその言い方は、三浦くんが狸寝入りをして、僕らの様子を伺っていたことを示していた。
「うわぁ……元々その作戦だったのかぁ……」
僕の背筋を冷たい汗がダラダラと流れる。けれども事の顛末を狸の耳で俯瞰していた三浦くんなら、あずささんがとち狂った理由を解明できるかもしれない。
「どうしてあずささんは、あんなに怒って……」
すると三浦くんは眉根を寄せて僕に言う。
「どこ見ても本社さんが悪かっぺよ、本社さんって相当スケベだったんだな」
「スケベ……? 僕は放送禁止用語とか口走った記憶はないんだけど……」
「んにゃ、あずさに向かってあんなにズケズケと恥ずかしいこどを連発するどは。いやー、ある意味尊敬すっぺよ」
「は?」
デリカシーのないことを言った記憶など、どこにもあるはずがない。
けれども、三浦くんはその理由を把握しているようで、笑いをこらえながら僕にこういった。
「どうやら、だいぶ食い違ってたみでーだな。聞いてたオラはひやひやしっ放しだったっペよ」
「食い違い……?」
「本社さん、『嘘を突き通しても、絶対にバレますから』って、どういう意味だか分がってねえだろ」
「え……?」
誰かが内通しているという推測は的外れなのか? それなら一体、どういう意味なんだ?
「よく考えてみでぐれ。あずさに恋人がいた時、あるど思うか?」
「恋人……?」
その質問に対する答えは当然、「いいえ」だ。震災で受けた心の傷のせいで、幸せになることをためらっているのだから。でも、なぜそのことを今、持ちだすのだろうか。
困惑する僕とは対照的に、三浦くんは悟りの表情で語る。
「嘘を突き通しても、絶対にバレますから」ってのは、「佐竹さんと付き合い始めたらバレる」って意味だっペよ。
「え、と、どういうこと……」
すると三浦くんは呆れたように首を横に振る。
僕だけが分かっていないことがあるというのか、抜け出せない泥沼に足を取られたようで苛立ちが募る。
そこで、三浦くんはさらにヒントを重ねる。
「じゃあ、本社さんは、『要領を得た女』としか付き合ったことねえのけ?」
そして、にやりと口角を上げた。
「要領を得た女……?」
その言葉の意味を、頭の中でリピートする。要領というのは何の事だろうか。そして付き合った相手とすることといえば――
「あっ……!」
僕は相当な勘違いをしていたことに、ようやっと気づいたのだ。
『嘘を突き通しても、絶対にバレますから』という言葉の意味は、誰かが内通しているという意味ではない。
あずささん自身が、つまり、その……未経験という事なのだ。
あずささんがそういう意味で、「絶対にバレる」と言ったとしたら……。
僕はそれからの自分自身の言動と、あずささんの反応を反芻してみる。
すると、僕の発言は天地がひっくり返ったかのようにまるで違う、過激な意味を持っていた。
「あああ……すごいことを言ってしまった……」
今世紀最大のミスリードに気づいた僕は、あまりの恥ずかしさに顔全体から炎が吹き上がる。
詐欺師で、変態で、ドSだと言われるのも当然だ。あずささんの脳内を想像して僕もソファーに突っ伏した。甘い残り香が動揺する胸中をさらに掻き乱す。
暗室の扉の向こうから、かすかにすすり泣くような声が聞こえてきた。
ああ、僕がとんでもないことを言ってしまったせいだ。結果論だが、佐竹さんをだしにしてあずささんを誘惑するなんて、僕はサンタではなくサタンだった。
極限まで動揺した状態では、張本人の僕がどんなに言い訳をしても、聞き入れてもらえるはずがない。
そこで僕は即刻、三浦くんにひれ伏して頼み込む。もはや恥も外聞もない。
「どうかっ、どうか……っ、この誤解を解いておくんなましっ!」
絶対間違っている茨城弁を吐いた僕に対し、三浦くんは腕を組んだまま、ふふんと満足気に鼻を鳴らした。
「本社さんも人間だべな。親近感が湧いだど。でも面白そうだから、もうちょっと黙っどくかな」
「そんなっ!」
「ほら、ここんとこ毎日顔を合わせでだんだから、少し離れでだ方がお互いがどういう存在かわかるがもしれねーべさ」
三浦くんは僕にとってはあまりにも都合の悪い一般論を持ち出してきた。その目的は傍観者として楽しむためだと思えた。
ひどい、あんまりだッ!
僕は心の中で泣き叫んでいたが、あずささんは暗室で僕の過激なセクハラに悶えていたに違いない。
こうして大子でのクリスマスイブはふけていったのだった。
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