【今世紀最大のミスリード・1】

 師走の慌ただしさの中、いつにもまして赤ら顔の支店長は、目の前のふたりに向かって上機嫌に手を叩いた。


「おっ、決まったか、おめっとー!」


 皆も息を合わせて拍手をしたので、僕もすかさず手を打ち鳴らす。並んだ光之くんと朱里さんは照れながらも明瞭な声で報告してくれた。


「年明げ早々にさせでもらいます。神社で和婚の予定です」


「相手の親には挨拶さいったんだべが」


「今更挨拶もねえっす、喜んで歓迎してぐれました」


 ふたりは元来、旧知の友人だった。親も互いをよく知る関係だという。


 朱里さんはつわりが落ち着いてきたようで、すっぱい顔を見せなくなっていた。先立つもののためにできる限り間際まで仕事を頑張るつもりらしい。


 とはいえ、力仕事は任せられない。お陰様でその分、僕の体力が強化されたようだ。


 思い起こせば妊娠が疑われた数日後、朱里さんは妊娠検査キットを購入して事務所に持ってきた。箱は未開封のままだった。


「一生で何回もあることじゃないし、記念になっから良かっぺよ」と、恥ずかしそうな顔でそういったのは、つまり、皆の前で判定結果を確認しようという魂胆だった。


 従業員の人数が少ない小さな工務店では、今後の切り盛りを考えれば事実を認識しておくことは重要だ。彼らは仲間意識が強く、包み隠すつもりなど毛頭ないようだった。


 朱里さんは、「では、行ってくっぺよ」と敬礼してトイレに向かって出陣した。皆は期待の表情で勇気ある若者の帰還を待ち続ける。水流の音に続いて扉から出てきた瞬間、皆、反射的に席を立ち上がる。


 けれども朱里さんは紙コップをふたつ、重ねた状態にして検査キットを隠していた。


「まだ見ちゃダメだっぺよ」と言い、皆が囲い込んだその中央で構え、満を持して蓋を開けたのだ。


 そして、結果は「陽性」だった。


「「「「「やっぱり……ッ!」」」」」


「ニャアー!」


 そのときの皆の盛り上がりは尋常ではなかった。けれども、朱里さんが結果を見ても何ひとつうろたえることがなかったから、僕らはごく単純に囃し立てることができたのだ。


 男女の縁とは、美しくもあり醜くもある。肉体関係を持った相手なのに、都合が悪くなると否定する関係を、僕はしばしば目の当たりにしてきた。別れ際に人間性が出るというのは本当だ、保身に走る醜さは傍目に見ていても反吐が出た。


 かたや自然の流れに身を任せるかのように、何の迷いもなく出産と結婚とを決めたふたりを、僕は心から賞賛したかった。


 一生を添い遂げる相手というのは、何よりも一緒にいて心地よい相手なのだろう、僕にはふたりがそういう関係に見えた。朱里さんは嬉しそうに言う。


「あたしの親、『絶対近ぐで相手を見づけろ、都会なんかに連れでいがれんなよ』って言っでましたから」


 その言葉に僕は思わずあずささんの顔色を伺った。あずささんはふたりを心から祝福しているようで、僕の背徳心には気づいていない。


 僕は何度も、もしもあずささんを東京に連れて行ったらどうだろうか、そんな邪念を抱いたことがあった。けれども、常に自分の中でその考えを棄却してきた。


 渓流の澄んだ流れの中で生きる川魚が濁った水には棲めないのと同様に、あずささんに東京の汚れた空気はそぐわない。


「じゃあ、今年のクリスマスはふたりでゆっぐりしてくれや。独身の三人に任せで大丈夫だな」


「あっ、支店長はオラに予定がないと思っでるんっすね」


 三浦くんは即座に反論した。クリスマスの日はさまざまなトラブルが起きると聞いていたから、待機組に任命されたという意味だろう。


 電気が切れた、暖房がつかなくなった、あるいは水が止まらなくなったなど。酔っ払って怪我をする人も多いらしい。


 だからさまざまな修繕を手がけているメロン工務店の従業員は、クリスマスイブは夜遅くまで残業だ。


 無論、独身者が人柱となる運命だから、あとのふたりはといえば、僕とあずささんのことを指している。


「三浦、おめえ、文句言ってっけど、一緒に過ごす相手いんのがよ」


「……いません」


「まっ、あずさと本社さんっちゅう、恋人同士に挟まれてっから同情だけはすっけどな」


「ほんと、オラ、おじゃま虫じゃねえのけ? やっぱいねぇほうがよかっペよ」


「わっ……わたしたちは嘘の恋人ですから……っ! それに三浦さんがいないと困りますっ!」


 あずささんは慌てて否定するが、支店長はにやりと含意のある笑みを見せた。


「よく目撃されてっけどな、おふたり様んとこ」


 その言葉に僕もあずささんも思わず顔を紅潮させた。


 実は、僕は度々、あずささんの案内で大子の名所を訪れていた。傍からはデートに見えるのも無理はない。


 暗室であずささんと現像作業をした日の次の週末は、「十二所神社」という、百段階段で有名な神社を訪れた。ひな祭りの時期には百段階段に雛人形が並ぶらしく、その時期は壮観な百段の雛人形を目的に大子を訪れる人も多いらしい。


「わたし、子供の頃に見に行ったっきりなんです」と言っていたので、僕はひな祭りには必ず一緒に見に来ようと約束を交わした。


 そして、階段を登りきった先にある神社で、ふたりで並び手を合わせて願い事をした。


 互いに願い事は言わなかったけれど、僕はもしも本当の恋人同士だったのなら、「ずっと一緒にいられますように」と願ったのだろうと思う。けれども結局、「あずささんが地震の悪夢を克服できますように」と、わがままは捨て去ることにした。


 それから「関所の湯」という温泉を訪れ、ふたりで大子の湯を堪能した。


「とっても温まるんですよ」と勧めるあずささんはどうやら無類の温泉好きのようで、特にその温泉は度々訪れるお気に入りらしいのだ。


 大子の湯はアルカリ性が強く、うかつに長湯すると肌が火照ってしまう。


 風呂から上がったあずささんがやたら火照った顔をしていて心配になったけれど、その指摘に対し可笑しそうに「本社さんの方が赤いですよ」と言い返された。


 そして、僕の方が赤みが強かった理由は、あずささんの髪を結いあげた浴衣姿があまりにも可憐だったからに他ならない。


 すれ違う住民たちも訪れる名所の店員さんたちも、あずささんのことはよく知っているようで、互いに笑顔で挨拶をかわしていた。そして僕は品定めのような好奇の視線を向けられていた。


 だから相次ぐ目撃証言は、ふたりが恋人同士だということを裏付ける状況証拠としては十分すぎるものだった。


 このメロン工務店を訪れるお客さん達からたびたび探りを入れられたが、スタッフは皆、否定することがなかった。答えずして肯定しているようなものだった。


 支店長はぼそりと呟く。


「おかげで最近は佐竹さんからめっぎり仕事が来なぐなったなぁ。あずさ、おめえんとには依頼、来てねえか?」


「ええ……特にありません」


「毎年この時期には、佐竹さんとこの養鶏場の修繕が入るんだけどな」


 確かに、多忙な時期はありがたいとも言えるが、支店長は先の経営を考え不安があるようだ。


 あずささんは自分の責任だと思ったようで口を閉ざしてうつむく。


 一方、唯さんは流し目で僕を見、ベタな比喩でからかう。


「そりゃあそうよねぇ、好意を寄せてた相手が異国の地がら現れた王子様に突如、かっさらわれたんだからなぁ」


「かっさらってません! あずささんは大子の子ですから」


「おお、よくわかってっぺよこの王子様は。悲恋じゃのう」


 あたかも達観した長老のような言い方であごひげを掴むような仕草をみせる。


「煽ってすったもんだを期待しても無駄ですからね!」


 唯さんはいつもながら、ふたりの間に何か起こってほしいと思っている節がある。仕事で昼ドラが見られない分、リアルにドラマを求めているのだろうか。そういった配役のオファーはなるたけご遠慮願いたい。


 そして、クリスマスイブが訪れた。


 ピロロロロ……ピロロロロ……


「あー、また来たかっ! 本社さん、オラの代わりに稲田さんのとこ行ってもらえっぺか。水道の蛇口が壊れて水が溢れてるって言ってっぺよ」


「僕、水道の直し方はわからないです……」


「写真撮って送っでくれねえか、オラが指示出すから」


「あっ、あずささんはどこに行ってるんですか」


「エンストの救済だっぺよ」


「エンスト? JAF呼ばないんですか」


「呼んだけどこんな田舎、すぐ来てくれるわけなかっぺよ。オラたちが頼りにされでんだから、無下にはできねっぺよ」


 その夜、ひっきりなしの救援を求める連絡に、僕ら三人は振り回されっぱなしだった。


 それでも感謝をされると笑顔が飛びだす、「サンキュー反射」的な生理現象が身についてしまったのは、あずささんの影響に違いないのだ。


 夜九時近くなってようやっと事態は収拾がついた。空腹と疲労でげっそりした僕らは事務所に集合する。


「はああ、やっと終わっただなぁ」


「でも三浦さん、この調子ですと夜中に電話がかかってくるかもしれませんね」


「あずさは帰っても良かっぺよ。女子なんだから」


「いいえ、おふたりに任せて帰るなんてできません」


 あずささんは表情をかたくなにする。


 先月、暗室で「一人前の社会人の女性として、肩を並べていたいんです」と言っていたのを思いだす。三浦くんの言葉に甘えるつもりはなさそうだ。


「そうですよね、僕だけじゃ頼りないですもんね」


 僕は半分冗談で言ったが、残り半分は本心でもある。自分の不甲斐なさを実感している今日この頃だ。


「そんなことありません、本当に助かっています」


「まあ、今夜は飲んで泊まっとくべか」


「ちゃんと夕食は用意してありますからね。チキン三人分。それからインスタントですけどピザ、焼きますね」


「うわぁ、ちゃんと用意していたんですね、助かります」


「おめえら、恋人同士なのになんで敬語なんだべか」


 三浦くんもやはり僕らをからかうように言う。あずささんはもはや、聞こえないふりをしているようだった。


 冷蔵庫から冷凍ピザ、ローストチキン、それからビールとオレンジジュースを取り出した。手際よく準備を進めてゆく。


「あずさ、サンキューな」


 三浦くんはさっそく飲むつもりらしく、紙製のビールパックから六本のビールを外し、パックを床に投げ捨てた。


 するとそのパックに黒いものが疾風の如く飛び込んできた。ありちゃんだ。


 ありちゃんはパックの中に身を滑り込ませると、どこかで見たような姿に変貌した。


「あっ、猫バスっぽいですね!」


 あずささんは嬉しそうに声を上げた。


 確かに、となりのトトロに出てくるあの猫バスに似ている。


 ありちゃんは夜なのに皆がいるという珍しい状況に上機嫌で、しかも興奮気味なようだ。


「ありちゃん夕飯食べましたけど、一緒にパーティーに入っていいですよね」


「それはもちろんです。ウェルカムですよ」


「ですって。よかったわね、ありちゃん」


「ニャア~!」


 そして、準備が整ったところで、グラスで乾杯の準備をする。僕と三浦くんはビールを注ぎ、あずささんはオレンジジュースを用意した。ありちゃんはトレイに牛乳だ。雰囲気を察したのか飲まずに待っている。


「「「では、メリークリスマス!」」」


「ニャン♪」


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