【仕事の報酬・2】

 ★


 暗室での写真現像――


 こんなにも古典的な手法が、現役で使われていること自体、貴重なことだと感心させられる。まさに二十世紀の記録媒体だ。


 暗室は流し台が備え付けられた物置小屋のような部屋で、隅に暗幕が貼られた空間があった。


 カメラのフィルムを手にしたあずささんは暗幕の中に身を滑り込ませる。のぞき込むと机があり、その上に顕微鏡のような機械が一台、設置されていた。


「これが引き伸ばし機なんです」


 どうやら印画紙にネガの画像を感光させるための装置のようだ。


 上部には光源を有したヘッドが取り付けられており、高さが調節できるようになっている。卓上には印画紙をセットするためのイーゼルが置かれていた。


「実物の暗室なんて初めて見ました。さっき、撮影に使っていたのはフィルム式のカメラでしたけれど、いつもあずささんが写真を現像してるんですか」


「はい、そうなんです。見ててくださいね、こうするんです」


 あずささんはネガキャリアに現像するフィルムをセットし、引き伸ばし機のヘッドに差し込みレバーで固定する。


 それからヘッドの高さを調節し、フォーカスファインダーと言われるルーペを見ながら、フォーカスの微調整を施す。


「じゃあ消しますね、ここからは暗闇で作業しますから」


 そう言って電気を消し、ワインレッドのセーフライトを点灯させた。


 暗闇の中、あずささんの深紅の輪郭だけがおぼろげに浮かび上がる。


 それから印画紙をイーゼルにセットし、露光を開始する。しばらく無音の時間が通り過ぎてゆき、露光が終了した。


 そして現像のため、プロセッサに印画紙を滑り込ませると、現像液の酸味のある臭いが鼻をついた。


 これからしばらく待ち、現像できた写真をすすいで乾かせば出来上がりだという。


「あの……本当はもう電気をつけていいんですけれど」


 あずささんが発する小声は、緊張が含まれているように感じた。


「あっ、そうなんですか。それじゃあ、今すぐ――」


「いえ、このままでいいです」


 あずささんは僕の言葉を遮って止めた。発せられた意外な一言に胸が激しく高鳴る。


 ――このままでいい、って一体どういう意味なんだ。


 今、あずささんがどんな表情をしているのか掴み取ることができないからなおさらだ。


 機械の作動音がかすかに聞こえていたけれど、それも止んでしまったようだ。


 自分自身の胸の高鳴りが、この部屋の中で最大の音のように感じた。あずささんに聞こえてしまっているのではないかと思い全身から冷汗がほとばしる。


 すると僕の焦燥をよそに、暗闇のあずささんは僕に向かって言葉を紡ぎ始めた。まるで船を漕ぎだすような、ゆったりとした口調だった。


「本社さん、この暗室にある機材、実はわたしが持ってきたんです」


「あずささんの家にあった道具なんですか」


「昔、父が使っていたものなんです」


「お父さんが?」


 淡々とした声色ではあったけれど、覚悟めいた雰囲気は暗室の闇ですら隠しきれるものではなかった。


「子供の頃、写真好きの父と一緒にこれを行っていたんです。現像の方法はそのときに覚えました。そしてこの引き伸ばし機と現像機は、壊れた家から回収できた父の形見でもあるんです」


「そうだったんですか……」


「写真の現像なんて、本社さんからしたら、すごく無駄で非効率な方法だと思うんですけれど」


 確かにそうだと思い否定できなかった。デジカメを使えばすぐさまパソコンに取り込めるし、回りくどい現像など不要なことだ。


 ただ、思い入れのあるものを大切に使うのは、効率化とはまったくもって別問題だ。


「それでも、わたしにとってはすごく大切な思い出なんです。家族がいた頃を思いだすんです。この薄暗い赤の空間と、酸味の効いた現像液の匂いが、もう二度と来ない日々を思い出させてくれるんです」


 あずささんが自分の心情や想いについて吐露するのは意外なことだった。そして、あずささんは僕がその苦しみに触れることを許しているように思えた。僕があずささんと向き合うことを受け入れているようにも思えた。


「わたし、本社さんが最初に来られた日に、この大子の町の住人は全員知り合いだって言いましたよね」


「はい、そうでしたね。そのときは信じられなかったですけど」


「だけど、町の人全員がわたしのことを知っているっていう方が正しいのかもしれません」


 なるほど、それは彼女が被災者だと、皆が承知しているという意味だろう。


「わたし、町のみんなに支えられて立ち直れたんです。ようやっと、息ができるようになったんです」


 ――呼吸ができないほどの苦しみ、か。


 災害により日常を一瞬にして奪われてしまう、その現実は想像を絶する状況だったのだろう。僕は想像をたくましくして考えた。


 たったひとり、生き延びた少女の前に、変わり果てた死体が三つ、並んでいる。


 動くことのなくなった、かけがえのない家族の亡骸だ。


 それを目にした少女には、正常な反応の嗚咽など、できるはずもないだろう。


 そして、トラウマは今でも焼き印のように心の中に残されているのだ。この後遺症が消えることはあるのだろうか。永久に縛り付けられてしまうのだろうか。


 想像するだけで背筋が凍る思いだった。一方のあずささんはそれでも淡々と言葉を紡いでゆく。


「だから、いつだって町のみんなに恩返ししたいっていつも思ってるんです。この仕事はわたしにとって、そんな意味もあるんです」


 そうだったのか。あずささんが営業の仕事を買って出るのも、過剰な割引サービスを自分から提案するのも、そんな思いがあってのことなのか。度々見せる、仕事終わりの清々しさが腑に落ちた。


「わたしにとっては、この町の人たちの役に立てることが一番大切なんです。月並みな恋愛を願うことなんて、亡くなった家族に申し訳ないと思っています」


 当然だ、自分だけが残されておいて、幸せに浸かりたいなんて思えるはずがない。


 唯さんが「あずさちゃんは恋愛しないかも」と言っていた意味が理解できた気がした。


「そう思っていたんです。でも……」


 うって変わった続く声のか細さに、あずささんの心の揺らぎのようなものを僕は感じ取った。うかがうように続く言葉に耳を傾ける。


「佐竹さんがわたしにお付き合いの返事を迫ってきた時、本社さんはわたしのことをかばって下さいましたよね」


「ああ、あのときは余計なことをしてすみませんでした」


「いえ……本当は、……凄く、嬉し、かったん、です……」


 詰まる言葉を聞き返そうとして僕は思いとどまった。


 本当なのか? あのときは怒っているようにしか見えなかった。


 混乱しながらも、言われてからなぜ暗室の電気をつけようとしなかったのか、その理由に僕は気づいた。


 あずささんは自分の気持ちに触れている時の表情の変化を、僕に知られたくなかったのだろう。そして、続く言葉もその推測を肯定していた。


「……同情心なんかではなくて、ひとりの女性として守ってもらえた気がしたんです。そして、本当の恋人だったら、こんな風に守ってくれたりするのかなーって思って……すごく困惑したんです。


 そのせいであんな失礼な態度を取ることしかできなくて、本当にすみません。


 いつかちゃんと謝らなくちゃって、ずっと思ってたんです。


 ……わたし、恥ずかしくて顔から火が出そうです」


 深紅を湛えたあずささんの髪の輪郭が闇に沈むように深々と垂れた。


 そして、あずささんの言うとおり、僕の本心は、好きだからこそ衝動的に守ろうとしてしまったのだ。


 同時に、本当の恋人だったらという言葉に、僕の心の芯が熱を持ったような気がした。


 ふたりの関係に「恋人」という言葉をあずささんが持ち込んだのは初めてのことだった。


「そんな、申し訳ないなんて思わないでください。佐竹さんとの関係を知らなかったのにしゃしゃり出た僕の、単なる落ち度です」


「いえ、本社さん、怒ってないかなってすごく心配していたんですけれど……。


 それなのに歓迎会のあと、嘘の恋人役を提案してくださって……その、わたし、すごく、……嬉しかったです。


 でも、そのことを嬉しいと思ってしまう自分が……身勝手に思えてしまいました」


「身勝手、ですか……」


 否定するのも肯定するのもはばかられた。恋愛、それも嘘の関係なのに自身に対する罪悪感が伴うなんて、考えたことがなかったからだ。


 積み重なる悲しみは、素直に喜ぶことを許してくれなくなる、そんな言葉をどこかで聞いたことがある。


 知った時は失敗の経験が人間を臆病にさせるという意味だろうと思ったのだが、あずささんの真実を聞いて自分の浅はかさに嫌気がさした。


 深い悲しみは心の中で連鎖して幸せな感情を抱く権利さえも奪ってしまうということのだ。


 僕がそう考えていると、あずささんは暗闇の中、僕に歩み寄り顔を近づけた。現像液の酸味の匂いの中に、ほのかに甘い香りが混ざり込む。僕は身をこわばらせた。


「でもわたし、本当は地震の恐怖を克服しようと思っているんです。いつまでもみんなに守ってもらうのではなくて、ちゃんと乗り越えていきたいんです」


 花びらが舞うような小声だというのに、ひたむきな強さがあった。


 あずささんは辛くてもちゃんと自分と見つめている人だ。


 あの日、あずささんの夜空を見上げた表情がとても美しく見えたのは、きっと、自分の中に巣食う悲しみに純然と向き合っているからだろう。空と地と人の心。そのすべてを見つめる瞳に美しさが宿らないはずがない。


「じゃあ、そろそろ電気をつけますね」


 そういって、あずささんは入口の方へ向かっていった。壁に手を当て、スイッチを入れる。


 一瞬にして、暗闇の世界が光に覆われた。その眩しさに視界を閉ざす。


 ようやっと瞼を開くと、あずささんは扉の前でこちらを向いて立っていた。柔和な微笑を浮かべたが、頬には淡い紅を残したままだった。


 なごりおしさと開放感という、ふたつの矛盾した感覚が僕の深層を通り抜けた。


 あずささんは微かに目を伏せ、小さく息を吸い込む。そして、輪郭の明瞭な声を発した。


「わたし、本社さんには可哀想な子だなんて思われたくないんです。一人前の社会人の女性として、肩を並べていたいんです。


 今日は本社さん、すごく頑張ってくださいましたから、わたしも負けないように、思い切って話すことにしたんです」


 思いを告げるのには勇気がいるものだ。心の中をさらけ出しても、他人に受け止めてもらえるなんていう期待は、たいてい裏切られる。否定されるだけでなく、生半可な肯定でも、受け止められず置き去りにされてしまう場合でも、結局は露出した心のやわらかい部分が痛みを負うのだ。


 それでもあずささんは自分の思いを僕に伝えてくれた。そんなあずささんに対して僕ができることは、その想いをきちんと受け止めることだろう。


 だから、僕はあずささんを正視し、なるたけ丁寧にこう口にした。


「はい、頼りにしていますから、また、大子の素敵な場所、案内してくださいね。それに現場の仕事も、遠慮なく言いつけてください」


 あずささんの呼応する言葉は無風の湖面のように凪いていた。


「ええ、わたしも楽しみにしています。こちらこそ、よろしくお願いします」


 どうやら今日の僕の仕事はただ働きではなかったようだ。


 今日の仕事の報酬は、とても悲しいけれども健気でひたむきな、あずささんの真心そのものだった。心の中核に触れたことは、まるで夜空の星のひとつをこの手で掴み取ったような、神秘的ともいえる感覚だった。


 扉の向こうでカリカリと爪を立てる音がする。それから心配そうな鳴き声が聞こえた。


「じゃあ本社さん、行きましょうか。ありちゃんが待っていますから」


「あ、写真の現像はどうするんですか」


「あら、うっかりして忘れてしまいました。わたしってそういうところ、おっちょこちょいなんですよ」


 ぺろっと舌を出した無垢な笑みを見て僕は思う。


 あずささんは、やっぱり大子の空の下で生きてゆくべき人なんだと。


 そして同時に、どんなに心を通わせても、必ずふたりの間には「さよなら」が訪れるということを――。

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