【仕事の報酬・1】

『だいご通信


 みなさん、こんにちは。


 山々が綺麗に色づいてきましたね。いよいよ紅葉のシーズンです、たくさんの観光客の方に来ていただけると嬉しいですね。


 それでは健康に気をつけながら、張り切ってお仕事に励みましょう。


 さて、今回は「君」にまつわるお話をしたいと思います。


 さまざまな映画や歌の題名で使われている、呼びかけに欠かせない「君」という字ですが、この「君」というのは男性、女性どちらのことを指していると思われますか。


 答えはどちらでも使われます。そして、「きみ」の「き」と「み」の一文字ずつに意味があるらしいのです。


 実は「き」は男性、「み」は女性のことを指しているようです。


 なんと、この「きみ」は、日本の創始者であるふたりの神様に由来しているらしいのです。(わたしの調査によると、ですが)


「き」は伊邪那岐命イザナギノミコト、「み」は伊邪那美命イザナミノミコトを表しているらしいです。


 皆様もお名前は聞いたことがあると思いますが、かなり上位の神様のようで、そのおふたりは夫婦なようですね。


 しかも驚くことに、このおふたりは茨城にある、パワースポットで有名な御岩おいわ神社に眠っていらっしゃるらしいのです。


 茨城って、神秘的な場所もあるんですね。なんだか誇らしいです』


 あずささんは原稿を書き終えると、ふぅ、と小さなため息をついてから僕を見上げて微笑んだ。


「ありがとうございます、パソコンでの調べ方、だいぶわかってきた気がします」


「そうですか、よかったです」


 自称メカ音痴のあずささんだったが、いざパソコンを教えてみると飲み込みはよく、ワード機能と表計算はすぐに使いこなせるようになった。音痴というよりは使う機会がなかっただけのように思える。一度慣れてしまえば僕の手伝いなどすぐに不要になりそうだ。


 ちなみに手紙の最後にはありちゃんの絵があった。吹き出しには「ボク、迷子かもしれないニャン。誰か知ってる?」と書かれていたが、当の本人はすっかり工務店が我が家である。


 僕が大子に住み始めてから一ヶ月ほど経っていた。


 山々は燃えるような紅色やきらびやかな山吹色に色づいている。


 東京でも季節によって風景は変わるが、田舎の町では辺りを包み込む山々の色合いや風の匂い、そして雲の形まで、世界のすべての表情が時とともに変貌するのだ。


 実際に住んでみて、そのダイナミックな変化に僕は驚かされた。昨日見た山々の表情は一日経てば様変わりしている。二度と同じ姿を見せることはない。


 けれどもこの町の住民は、紅葉の季節に胸をときめかせているわけではなかった。


 大子の人にとっては色彩の変化が日常の風景のひとつであり、また観光客が訪れる書き入れどきでもあるから、街中はせわしなく紅葉見物どころではない。


 しかも、冬に備える時期でもあるから工務店も忙しいことこの上ない。最近、舞い込んでくる仕事の件数はうなぎのぼりだ。


 支店長とあずささん、唯さん、三浦くん、それに光之くんは連日のように打ち合わせをしている。


「あずさちゃん、佐竹さんとこのタイル貼りは終わったのけえ」


「はい、大丈夫です。先日、一通り仕上がりを確認しました。佐竹さんは納得されておりましたし、今度はやり直しの要求はないと思います」


「お疲れさん、……で、求婚のこと言われなかったっぺか」


 僕の耳は鋭く反応した。ちなみに波風を立てないよう、僕は佐竹家の改修に関わらないことになっていた。


「大丈夫でした。常に何か言いたげではありましたけれど」


 あずささんのことは三浦くんも心配なようですかさず口を挟む。


「余計なこと言わずにやり過ごすのが得策だべな」


「そうですね。せめてゴールデンウィークまでは時間が欲しいです」


 あずささんは、それまではどうしても仕事を辞めたくないと主張していた。


 大子では四年に一度、ゴールデンウィーク期間に盛大に開催される祭りがあるらしい。その年にあたるのが来年なのだ。


「大子ぶんぬき祭」という祭りで、七つの町内から繰り出される二輪の屋台が町中を豪快に巡行するのだ。屋台は提灯があしらわれ様々な装飾が施されている。


 そして各屋台が「ぶんぬき」と言われるお囃子はやしの競演をするのだ。


 太鼓を破るほど荒々しく打ち合うことから「ぶんぬき」という名前が付いており、その共演は壮観の一言に尽きる。


 と、支店長が説明してくれた。


 そして、このメロン工務店も祭りで露店を出すらしく、あずささんは工務店のスタッフとしてその祭りに参加したいという。


 理由は分からないが、かなりの思い入れがある祭りらしい。


 あずささんは袋田の滝を訪れたあの日以来、家族の話、あるいは地震の話をおくびにも出してこなかった。むしろその話題を避けているようにも思えた。


 唯さんにあずささんが地震で家族を失ったことを話してくれたと言うと、唯さんはあずささんが納得したと解釈したようで、僕に事情を教えてくれた。


 あずささんは地震が起きると決まって、かつて目にした光景を鮮明に思い出してしまうらしい。家族のいる家が倒壊する、凄惨な場面だ。


 記憶の追想はそのときに抱いた感情を伴うらしく、まるで過去の場面に引き戻されたかのような錯覚に陥るらしい。


 だから僕の声が届かなかったのも理解できた。


 そしてメロン工務店の中では、地震が起きた時のために、あずささんに連絡を取る窓口が週替わりで決められているという。地震が起きたあの日はちょうど、唯さんが担当になっていたとのことだ。


 事情が飲み込めると同時に、佐竹さんの求愛に対するあずささんの返事が延期になるよう、皆が一致団結したのも頷けた。


 あずささんは仕事の主力でありながら、みんなに守ってもらっている立場でもあったのだ。


 だから、僕が恋人を演じることに皆が納得したのは、あずささんの身の上を案じるがための計らいでもあったのだ。


 しかも、両親が亡くなっていることは工務店のスタッフだけでなく、住民の多くが知っていて、あの佐竹さんも承知しているとのことだった。結婚を申し出るくらいだから親の状況を知っているのは自然なことだ。


 あずささんの悪夢の根源となった震災については、過去のニュースを調べると簡単に行き着くことができた。


 逆算すると九年ほど前の春。あずささんが高校に入学したばかりということになる。ニュースで放送されていたことが、おぼろげながら僕の記憶にあった。「大子」という地名は、そのときに知ったものだった。


 当時、犠牲者は数名程度と放送されていたから、災害の中ではそれほど規模の大きくないもので、それも対岸の火事程度に解釈していた。


 けれども今、あずささんが被災者なのだと思うと、急に災害という現実が実体をなして僕にのしかかってきた。


 僕が出向になった人災とは訳が違う。人が命を落とす大惨事だ。そしてそれは、ずっと未来まで暗い影を落とし続けるのだ。


 そう考えていると、打ち合わせ中の支店長が立ち上がり僕に声をかけてきた。


「本社さん、あずさと三浦と一緒に山下さんとこさ行ってぐれねっか」


「山下さん……ってどなたですか?」


「すぐ近所の民家だっぺよ、あずさ頼むな」


「はい、家の修繕の見積りですね」


 用件は理解できたので僕は黙って頷く。


 山下さんの家は工務店の近くにある年季の入った民家で、度々不具合が起きるらしく、小さな修繕を幾度となく頼んでくるという。


「本社さん、この前会った女の子の家ですよ」


「あ、確か咲ちゃんでしたよね。おかっぱ頭の」


「はい、明るくて元気な子です」


 山下さん――咲ちゃんの家は歩いて数分の場所にあった。昔ながらの瓦屋根で、南向きの縁側があり広い庭を有している。古風な平屋だが日当たりがよく、住みやすそうな家だった。


「メロン工務店です。見積もりに伺いました」


「お願いしますだ、今回はちょっとばかし厄介なことなんで」


「あずさお姉ちゃん、こんにちは、あっ、この前のお兄ちゃん!」


「咲ちゃん、こんにちは。礼儀正しいね」


 迎えてくれたのは旦那さんと咲ちゃんだった。咲ちゃんはあずささんを見上げて嬉しそうだ。あずささんは子供相手でも丁寧にお辞儀をし、靴を揃えて家に上がる。僕も後に続く。


 あずささんと三浦くんは、旦那さんがいう家の中の不具合をひとつひとつ点検してゆく。


 今回、問題になっている一番大きなものは家を支えている「通し柱」だ。あずささんはさっそく、通し柱のひとつを上から下へと木槌で叩いて音を確かめる。


「問題はシロアリでしたよね。だいぶ傷んでいますから、ベイト工法でシロアリを駆除して、それから柱を補強した方が良さそうですね」


 あずささんは柱を叩く音でシロアリがこしらえた巣の空洞を判断しているようだった。


 そして三浦くんとふたりで柱の長さや幅を綿密に計測し、数字を記入したメモを修繕対象の柱に貼って写真に収める。


 カメラは比較的大型の一眼レフで、カシャカシャッと響くシャッター音は、デジタルカメラの人工的なそれとは明らかに異なっていた。


 昔ながらのフィルム式のカメラのようで、古典的な機材を使用していたことに、僕は狐につままれた気分だった。


 撮影したものの一体、どうやって現像するのだろうか、と疑問が湧く。


 その他にも細かい修繕のお願いをされ、結局、シロアリ退治、柱の補修、電源スイッチの修理、蝶番が壊れた扉の修復、壁の穴の修繕など、合計十種類に及んだ。


 さらにあずささんは他の要望についても尋ねる。すると咲ちゃんが真っ先に声をあげた。


「冬、すごく寒いの! 窓を閉めてんのに、冷たい風が入ってくるべよ」


 そこまで話が進んだ所で、山下さんは申し訳なさそうに言う。


「冬は冷え込みが厳しぐて、本当は二重窓を付けたいんだけんど、そこまでは予算がなぁ……。それに、どれも直さなきゃいけないのは分かってんだけど、その……これでできるとこまでやってほしいんだ」


 そう言って両手を広げて見せた。予算は十万円ということらしい。


 僕は反射的に、「どう考えても無理ですよ」と口に出しそうになった。大きいものから小さいものまで合わせて軽く三十万円以上はかかるはずだ。さすがに両手で収まる金額で引き受けられる仕事ではない。


 けれども、あずささんは「じゃあ、頑張ってみますね」と明快に答えた。


 とはいえ、書き込んだボードを見ながら、「うーん」と頭をひねっている。


「どこか削れないかなぁ……」


 突然、頭上に電気が点灯したかのように、あずささんの表情が明るくなった。何かを思いついたようで、即座に山下さんに尋ねる。


「えーと、山下さんて、お仕事は農業でしたよね。そうしましたらどんな農薬をお持ちですか」


「ああ、ネオニコチノイド系ならあるけんど」


「そうですか。じゃあ、シロアリ退治にそれ、使わせてもらえますか。ネオニコチノイドなら殺虫剤として効くはずなので」


「好きなだけ使って構わんけんど」


「それと、頑丈な木材、どこからか調達できませんか」


「そんだったら、林業やってる知り合いのとこから安く譲ってもらえるかもしんねえ」


「できるだけ長いのがいいです。五メートル以上でお願いします」


 僕はその交渉を聞いて唖然としていた。客はきわめて安い予算を提示していたが、店側はその値段で修繕できるよう、必要なものを客に調達させているのだ。


 ありあわせの素材を用いての修繕など、僕の常識では不安でしかない。


 しかも、それでは店側に利益をもたらさない。原価が安い資材や薬品は、技術と抱き合わせだからこそ高値で売れるのだ。僕はあずささんに耳打ちする。


「これじゃ儲けにならないんじゃないですか」


「でも、損はしてませんよ?」


「工賃だけで予算が飛んじゃうと思うんですけど。細かいところだけでもそこそこの技術料ですよ」


 けれども、あずささんは迷うことなく答える。


「そこはお金を取らないことにします。だって、専門の職人にはお願いしませんから」


「どういうことですか」


「どういうことだと思います?」


 それから、山下さんにすまなそうな顔で話しかける。それも演技だと分かる、白々しい表情だ。あずささんは何を考えているのだろうか。


「あの……お願いがあるんですけれど、細かいところの修繕は練習に使わせてもらえませんか。ですからお代は結構ですし、失敗したらちゃんと責任を持って他の方が対応しますから」


「ああ、全然かまわねっぺよ」


 山下さんはむしろ助かったという表情で胸を撫で下ろしている。けれども疑問に思った僕は小声で尋ねる。


「練習って誰の練習ですか?」


 するとあずささんは悪戯っぽく、くすりと笑って答える。


「それは――わたしが今、向かい合ってお話ししている方ですよ。そろそろお手並み拝見してみたいんです」


 驚いた、つまり僕ということか。


 どうやら支店長は、最初からその計画で僕に声をかけたようだ。打ち合わせであずささんと結託したのだろう、予算に余裕がないお客様に、費用を節約させるための正当な理由として、僕を参画させたに違いない。


 結局のところ、僕は修繕の方法を三浦くんに手取り足取り教えてもらい、電源スイッチの取り替えと、蝶番の修理と、壁の修繕をやりきった。いや、やらされたのだ。


「抜き打ちなんてひどいですよ、しかも僕は事務仕事担当だったんですよ」


「あら、そうだったんですか。でもいい経験じゃないですか。きっと将来、役に立ちますよ」


「本社さんは筋は良かっぺよ、下手したらオラが本社さんの弟子にならなきゃいけねーがもしれないな」


 三浦くんのその褒め言葉、絶対本心じゃない。現場仕事が初心者丸出しだった僕をおだてているだけだということは火を見るより明らかだ。


 しかも仕事はこれで終わりではなかった。


「そいじゃ、次いってみよっか」


「ええ、背の高い本社さんもいらっしゃることですし」


「まっ、まだ何かあるんですか」


 当初は打ち合わせだけだと思っていた僕はさらに面食らった。どうやらこの場で防寒対策の工事も行ってしまうつもりらしい。


「二重窓にしなくても、I型レールを使えば防寒になりますよね。三浦さん、まだありましたっけ」


「たぶんあるんじゃなかっぺか。倉庫見てくっから待ってな」


 そのI型レールというものが何なのか、僕は聞いたことすらなかった。


 そして一度事務所に戻った三浦くんが手にしてきたのは、カーテンレールの一種だが、二列のカーテンレールのうち、外側のレールの端が内側に向かって曲がっているものだった。


 これを用いることにより、壁とカーテン脇の隙間をなくすことができるようだ。


 あずささんの考えた安価な防寒対策は、カーテンレールをI型レールに取り替えることと、アジャスターフックの長さを調節しカーテンの底辺が床につくぎりぎりの位置に調節すること、その二点だった。


 それによって窓で冷やされた空気がカーテンと窓の間に閉じ込められ、部屋の中に流入しないようにするのだ。確かに、これだけでも防寒対策としては奏功するだろう。


 そして、メロン工務店の提示した費用はというと――カーテンレールの値段が五千円、付け外しの工賃はタダだった。山下さんはその提案に即、了承をした。


「カーテンレールの交換は、背が高いから本社さんにお願いしたいと思います。でも、初心者ですから、お金は頂戴できませんね」


 そう言ってまたもや安く済ませたのだ。お客様に優しい分、僕には厳しい試練だった。もちろん、儲けはあるはずもない。


 ネジでの固定を終えたところで、「わぁ、本社さん、お上手です!」とあずささんから黄色い声援を投げかけられ、師匠(仮)の三浦くんからは拍手喝采を浴びせられた。計画的な賞賛のせいで僕は、不満を口にする機会さえ失ってしまった。


 ちなみに僕がカーテンレール交換をしている間、三浦くんはシロアリ駆除にいそしんでいた。


 シロアリのこしらえた空洞を、柱を叩いて聞き当て、その空洞を目指して巨大な円筒型の釘を打ち込み、注射器のようなもので農薬を柱の内部に流し込む。それだけで十分にシロアリを駆除することができるという。確かに、庭ではわらわらと逃げだすシロアリの姿があった。


 そのシロアリ駆除にかかった費用は――材料費〇円、施行料五〇〇〇円。もはやタダ同然の退治劇である。


 あとは三浦くんが職人仲間を連れてきて、山下さんが調達してきた木材を用いて通し柱を補強すれば、希望した修繕はすべて完了することになる。


 もはやボランティアとも言える利益度外視の修繕作業に、僕は呆れて脱力した笑いをこぼすしかなかった。


 夕方、工務店に戻った僕は、支店長や唯さんから仰々しく「大活躍だったってな、さすが本社さんだっぺよ」と褒められたが、言葉だけではどう見積もっても対価に合わない。


 けれども、あずささんは達成感に満ちた清々しい表情をしている。


「お願いされたことを全部やってあげられたって、すごく気持ちいいですね。それだけでこの仕事やってて良かったって思います。ねっ、本社さん!」


「まぁ、感謝されるのは……嫌ではないですけど……」


 慣れない作業で両手はじんじんと痛むし、初の現場仕事で体力を使い果たしてぐったりだ。


 それに達成感よりも何もできない自分に対する落胆の方がはるかに大きかった。


 だからさすがに同意しかね、つい、投げやりに答える。


「全然商売になってませんけどね。僕なんかただ働きですよ」


「ほら、お客様の笑顔はプライスレスっていうじゃないですか」


「プライスがレスなんじゃなくて、僕はプライドをロスしましたよ」


「ふふっ、お上手ですね、女性に好かれるのもわかった気がします」


 あずささんは疲れていないはずはないのに妙に上機嫌だった。お客様のためなら恋人(嘘)ですら馬車馬のように扱うのだろうか、上品な笑顔が悪魔の微笑みのように見える。


 でも、僕はそんな人に惹かれてしまったのだから仕方ない。恋は盲目という言葉の意味を、冷静にしてひしひしと実感していた。あずささんになら厳しくムチ打たれるのも悪くないと心のどこかで思っている自分がいるのだ。違った趣味に目覚めてしまいそうでそら恐ろしい。


 しかし、これだけ気前の良い値切りをしながらも経営が成り立つのは、貰うところからはちゃんと貰っているからだと支店長は言う。たとえば佐竹さんとか、という意味が込められているのは部外者の僕ですら、すでに理解できている。


「本社さん、改めて今日は本当にお疲れ様でした」


「いえ、こちらこそお世話になりました。面白い現場の工夫が見れました」


 とはいえ、ハードな仕事を生き生きとこなしているあずささんの姿には感心させられるばかりだ。


 あずささんは深々と頭を下げるが、丸一日、操り人形だった僕は負けじとそれ以上に頭を深く下げる。


 他のスタッフが皆、帰路についたところでふたたび声を掛けられた。


「本社さん、あと少しだけ手伝っていただきたいことがあるんですが――よろしいでしょうか」


「はぁ、まだあるんですか……」


 返事には露骨にため息が混ざる。けれども僕の落胆に構わずあずささんは続ける。


 いや、あずささんはどうしても僕に一緒にやってもらいたい作業があったようなのだ。今日使っていたカメラを手に取り言う。


「いつもわたしがひとりでやっていることですから、別に構わないですけれど、ただ――もうしばらくで、これを使うこともなくなるのかなと思って」


 意味ありげな言い方に、僕の心の奥がざわりと揺れた。


「――今日撮った、写真の現像なんです。暗室での作業です」


 あずささんはそう言って、僕がまだ足を踏み入れたことのない事務所の裏部屋の入り口を指差した。


 まさかの「暗室」という状況に、僕の胸はいやおうなしに早鐘を打ち始めた。


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