【あずささんの悪夢・3】
「あずささん、どうしたんですかっ、僕がいますよ!」
「助けて……みんなが……ハァハァ……」
あずささんの耳には僕の声が届いていないようだった。ただ、救いを求める呻き声と荒い呼吸を繰り返したままだ。血走った目には涙を浮かべていて、両手の指先がひきつったように伸びている。いったい、どうしたというのだ。
ふいに、若い女性が悪魔に憑かれて発狂する映画を思い出した。背筋がひどく冷たくなる。
何かの病気の発作なのだろうか? この辺りに病院はあっただろうか? 記憶を思い返してみるけれど心当たりはない。救急車を呼ぶしかない、でもすぐに来てくれるだろうか? 誰か知り合いを呼んだ方が早いだろうか?
突然のあずささんの変容に僕はどうすればいいかわからず、慌てふためくしかなかった。
そのとき、あずささんの鞄の中から電話の着信音が聞こえた。
非常事態だ、僕はすがるようにあずささんの鞄を開き、断続的に光を発する携帯電話を見つけて取りだす。
折り畳み式のそれを開くと、ディスプレイに映し出されていた名前は――『唯さん』だった。
一瞬ためらったけれど、背に腹は代えられな。意を決して着信ボタンを押す。
『あっ、あずさちゃん大丈夫!?』
その一言目に驚くと同時に疑問が湧き起こる。
どういうことだ? 唯さんはあずささんがこうなるということをわかっていたのか?
しかし、答えを持たない自分が推測してもなんの意味もない。すかさず返事をする。
「僕です、本社です。今、あずささんと一緒です」
『えっ、本社さん!? なんで……いんや、今はそんなことどうでもよかっぺよ、あずさちゃんは大丈夫なのけぇ?』
「いえ、様子がおかしいんです。唯さん助けてもらえませんか」
『ああ、やっぱり……うん、すぐにそっち行ぐから。今どこ?』
「工務店の駐車場です」
『わかったわ、十分あれば着ぐと思うから』
そう言って電話はすぐに切れた。
あずささんを抱きかかえて起こし、車の後部座席に押し込んで横にさせた。
けれども、あずささんは目を見開いたままの放心状態で、僕の一連の行動をまるで把握していないようだった。ここにないものに意識が支配されているような雰囲気だった。
「大丈夫ですか、しっかりしてください」
やはり、反応はなかった。見開かれた目から涙がこぼれ落ち、呼吸はさらに荒くなってくる。体を硬直させ、ひどく怯えているように見えた。
事態が飲み込めないまま待ち続ける十分間は、悠久のように長く感じた。
それから車が駐車場に勢いよく滑り込んできて、停車するやいなや唯さんが降りてきた。
「あっ、唯さん! あずささんが……」
「いいがらお店の中に運んで!」
「はっ、はい!」
唯さんは手持ちの鍵を用意して店の裏に回り込む。僕はあずささんを抱きかかえ唯さんの後を追う。身を強ばらせたあずささんはひどく重く感じた。
やっとの思いで工務店の中にあずささんを連れ込んでソファーに寝かせる。あずささんは宙を見つめたまま荒い息を繰り返し、顔や首筋からは冷汗が滴り落ちていた。
「病院に連れて行かなくていいんですか」
「そういう問題じゃなかっぺよ。本社さんはそばにいてあげて」
そう答えると唯さんはタオルを持ち出しあずささんの汗を拭き始めた。そして耳元で「大丈夫だからね」と何度も呟く。
事情がわからず困惑しながらも、机にかけてあるバインダーを持ち出してあずささんの顔を扇ぐ。
「本社さん、あずさちゃんの頭を撫でて安心させてあげて」
「えっ、頭を撫でる……ですか」
顔の隣にしゃがみ込み、汗が滲んだ髪を撫でると、荒い呼吸が少しずつ落ち着き、見開いたまぶたが下がってきた。ほっと胸を撫で下ろす。同時に徐々に冷静になり、混乱していた頭が機能し始めた。
唯さんは僕たちと一緒にいなかったのに、あずささんの様子がおかしくなったことに気づいて電話をかけてきた。それどころか、まるでいつそれが起きてもよいように、準備していたかのような迅速な対応だった。
つまり、唯さんが気づくきっかけがあったとすれば答えは明快だ――そう、地震だろう。あずささんは地震によって急に様子がおかしくなったのだ。
「……一体どういうことなんですか」
唯さんに尋ねると、唯さんはあずささんの背中をさすりながら僕に言う。
「フラッシュバックのせいよ」
――フラッシュバック。
強い心的なストレスを受けた場合、後になってそのときの記憶が突然、鮮明に思い出される現象だ。
状況を勘案すると、地震が起きたことが引き金なのは間違いないから、あずささんは過去に地震に関するトラウマがあったということなのか。
そう考えていると唯さんは僕にこう言う。
「あずさちゃんにとって、地震は――悪夢なのよ。けんど、この事は本社さんには言わないで、ってみんな言われてっぺよ」
みんなというのは、このメロン工務店のスタッフ全員のことだろう。僕は部外者だと自覚しながらも、僕だけが知らないあずささんの事情が存在することに胸の痛みを覚えた。
「……っていうことは、息苦しそうにしていたのは過換気発作ですよね」
「んだ、落ち着けば治っから。けんど、本社さんは、あずさちゃんから昔のことを聞いたんだべか?」
そう尋ねられたが、もしもここで僕が嘘をついて「はい」と言えば唯さんは詳しいことを話すだろう。けれども興味本位でつく嘘は罪だ。許される嘘があるとすれば、あずささんの幸せを考えての嘘だけだ。
今、僕はこの工務店のスタッフと一緒に、あずささんの恋人だと嘘をついている。けれども、それはあずささんの願いを叶えるための嘘だ。僕は首を横に振った。
「いえ、何も聞かされていません」
「そう、んなら無理には聞かないであげてくれねぇか。思いだすだけで辛えど思うよ」
唯さんは眉根を寄せ、あずささんに同情している様子だった。
「でもなんで本社さんがあずさちゃんと一緒にいたんだっぺか」
そのことについては誤魔化しようがないので、当たり障りのない範囲で答える。
「あの、実はあずささんに大子の名所を案内してもらっていたんです。親戚の陶磁器店にもお邪魔しました」
「ふぅん……あずさちゃんがねぇ……」
僕の表情をまじまじと見る。僕たちの関係性を怪しんでいるのだろうか。いくら訝しんでもやましいことは何もないのだが。
「じゃあ本社さん、悪いんだけんど、本社さんがいてくれんならあたし切り上げてもいっかな」
「えっ、でもどうすれば」
「落ち着くまで一緒にいてあげて、そんだけで大丈夫だから」
そういうと唯さんは一度、外に出て僕とあずささんのつけっぱなしの車の鍵を回収してきてくれた。ついでに路頭に迷っていたありちゃんも抱きかかえて連れてきた。
床に置かれたありちゃんはすぐさまあずささんに歩み寄り、顔を覗き込んでニャーと鳴いた。心配そうな鳴き声をあげたから、あずささんの身の上を案じているようだった。よろしい、それでこそ僕と同じ名前の資格ありだ。
唯さんは氷水を準備し、タオルを濡らして絞り、それらをテーブルの上に置いてくれた。そして、「困った時は連絡してな」と言い残してメロン工務店を立ち去っていった。
あずささんの呼吸は次第に落ち着いてきて、体の震えも収まりつつあった。僕が冷えたタオルであずささんのうなじの汗を拭うと、冷たさに反応して正気を取り戻したようで、僕を見上げて驚いた顔をする。
「あっ、わたし……」
「良かった、落ち着いたんですね。さっき地震が来て、あずささん、具合が悪くなってしまったみたいです」
その一言で、あずささんは自分に起きた事態を察したようだった。慌ててソファーに顔をうずめる姿は気まずさがにじみ出ていた。余計なことは言わず看守すると、しばらくしてうずめた口からくぐもった言葉が発せられた。
「……わたし、おかしくなってましたよね」
「はい。でも原因があるんですよね」
「……」
「唯さんも飛んできてくれました。話したくないことは、無理に話さなくていいですよ」
「……すいません」
「困った時は僕がなんとかします。恋人のふりして一緒にいるんですから、少しは力になってあげたいと思います。事情は話せるようになったら、でいいですよ」
「……本社さんって優しいんですね」
「いえ、僕は多分、酷い男ですよ」
僕の言葉が意外だったのか、あずささんは顔を上げて目を合わせた。
「無駄にモテますからね。今まで楽に渡り歩くような恋愛ばっかりでしたから。まあ、相手だってそれでいいって思っている節がありましたけど」
自嘲気味に笑ったけれども、僕が伝えたいのは恋愛遍歴のことなんかではない。むしろ僕自身の決心に近いことだ。
「だけど、嘘の恋人を演じるなら、ちゃんと相手に優しくする練習もしなくちゃって思いました。だから必要だったらいつでも頼ってほしいですし、嫌だと思ったら文句を言ってもいいんです。
そういうわけで、お尋ねしますけど、――頭を撫でても、いいですか」
するとあずささんは、一瞬の逡巡を見せたものの、小さくこくりと頷いた。
「――はい。汗ばんでいて汚いですけど」
「気にしないでください。どうせ僕は元々、そんなに綺麗な人間じゃありません」
僕が手のひらを頭に当てるとあずささんは息を細く長く吐き、委ねるように瞼を閉じた。僕を信用してくれたのだろうか。僕は髪を
「……なんだか、恥ずかしいです」
「大丈夫ですよ、誰にも言いませんから。秘密にしておきます」
「本社さんとは秘密ばっかりですね……」
「もしも秘密を思い出にしてもらえれば、それだけで光栄ですよ」
僕がそういうと、あずささんは吐息のような声でつぶやき返した。
「じゃあ、お願いがあります。この大子でのこと、本社さんもちゃんと思い出にしてくださいね。――ひとりぼっちの思い出なんて、寂しすぎますから」
その一言に僕の胸はぎゅっと掴まれた。あずささんは僕のことを忘れないでいてくれるつもりらしい。けれどもそうであってもなくても、僕はあずささんと出会えたことを忘れるはずはないと思う。
それほどに、綺麗で、純朴で、そして――壊れ物のような人だと僕には感じられた。
それからあずささんは覚悟を決めたように、小さく息を吸い込んでいう。
「……あの、本社さん、聞いてもらえますか」
「はい、なんでも聞きますよ」
そしてわずかの間を置いてから、あずささんは言葉を紡いだ。振り絞る声は震えていて、たった一言を口にするのにも相当な覚悟があったのだと僕は察した。
それはあずささんの過去にまつわる、悲しいという言葉では表現しきれないほどの、凄惨な出来事だった。
「わたしの家族――両親と弟は、地震で家が倒壊して死んだんです。偶然、庭に出ていたわたしの目の前で。
わたしひとりだけを、この世界に残したままで――」
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