【かけがえのない思い出・1】

 ……見間違いだろうか。


 いや、体感するこの辛さは間違いなく、病気だ。ひどい頭痛と喉の痛み、そしてむせ返るような咳。


 体温計の四十度は真実に違いない。


 病は気からというから、先日の衝撃が祟って免疫力が落ちたのだろう。しかも、あの日以来、あずささんは臨時休暇を取っていて、僕と光之くんで営業回りをしていたから、営業中にどこからかもらったのだろう。


「今季初のB型インフルエンザです。B型って今頃はまだ流行らないんですけどね。インフルエンザ用の薬出しておきますよ」


 医者は淡々と説明した。どうやら嬉しくないレアキャラらしい。ふらふらの足取りで帰路につき、帰りにスーパーで牛乳と鯖の切り身を買うのが精いっぱいだった。自分の食料などすっかり忘れていた。


 鯖の切り身を包むビニールを剥がしてトレイごと床に置く。鯖の切り身が乗っているトレイの中に牛乳を直接流し込んでから、しまったと気づいた。朦朧としていたせいだ。


 ありちゃんは僕を見上げて「これ、ないんじゃない?」と言いたげな顔をした。


 だがすまん、わかってくれ、黒い友よ。お前の主人はいま、いろんな意味でピンチに立たされているのだ。餌が出てきただけでもありがたく思ってくれ、それでは、さらばだ。


 僕は残された力を振り絞って薬を飲み、ベッドに倒れ込んだ。


 窓には宵闇の中、黙した山々の陰影だけが映っていた。


 夜を越えて、ようやっと意識が濃霧の中から抜け出せたような気がする。


 流し台からリズミカルな包丁の音が聞こえてくるのに気づいた。味噌の芳醇な香りが、小窓から差し込む鮮やかな太陽の帯に導かれて、そこはかとなく僕の鼻腔に舞い込んでくる。


 まさかと思い、霞んだ目をこすり音のする方に目をやると、女性の背中姿が視界に飛び込んできた。


 毎日のように目にするストレートヘアだったし、立ち姿が上品な佇まいだったから、それが誰だか僕にはすぐにわかった。


「あ……あずささん……?」


「あ、お目覚めですか」


 驚いて勢いよく起き上がると頭がズキズキと痛んだ。抱え込む頭は汗でじっとりとしている。しばらく大人しくしていると頭痛の拍動はおさまってきた。


「無理しないでください。あ、そうそう、鍵開けっ放しでしたよ。男の人だって危ないから閉めておきました。あと、勝手に台所使ってごめんなさい」


 普段よりもやわらかな声で話してくれたのは、頭痛に響かないようにと気を遣ってくれたのだろう。


「仕事、昨日が今年の最終日でしたから、夕方工務店に顔を出したんですけど、そうしたら、本社さんがご病気で帰られたって……」


 あずささんはベッド脇のローテーブルに食事を盛り付けた茶碗と冷たい麦茶を持ってきてくれた。味噌で味付けした鶏肉と卵の雑炊のようだ。


「心配したんですよ、ひとりで大丈夫かなって。食べられたらでいいですからね」


 僕の具合をうかがうように、向かいで正座して顔を覗き込む。


「後でキッチンのテーブルで食べるからいいですよ」


「病気の時だけは、行儀悪くたって許されるんですから」


「はは、じゃあお言葉に甘えます」


 レンゲで雑炊を掬い、冷ましてから口に入れると、味噌と馴染んだ鶏肉の旨味が口の中に染み渡った。米の甘みと味噌の塩分が僕の失われた体力を補ってくれるようだ。


「やっと生き返った気がします……」


「無理しないでくださいね、食べ終わったら洗いますから」


 病気で弱気になると、手を貸してくれる人が本当に有難く思える。


 僕は起き上がって汗ばんだ顔を洗いに行こうとして立ち上がった。しかし、思いの外、足元がおぼつかなくなっていて、テーブルの脚に足をぶつけてバランスを崩した。


「あっ、大丈夫ですか?」


 気づくと僕はあずささんに抱きとめられていた。アザレアの蜜のような甘い香りが味噌の匂いに混ざって僕を陶酔の世界へと誘う。


 朦朧とした意識の中で考える。


 アザレアは先日調べていただいご通信のネタのひとつで、ツツジの一種の花だ。


 幼少の頃、学校帰りの道端に咲いているツツジの花を摘み、蜜を舐めた記憶がある。そのときは何も考えず甘美な味に浸っていたが、実はツツジの蜜には毒があるという。


 多量に口にすると、けいれんを起こすことがあるらしい。


 そしてツツジという名前の意味は、「美しさに足を止める」という説もあれば「毒で足元がおぼつかなくなる」という説もある。


 けれども、このままこの甘い香りに毒されたって構わないという気持ちになってきた。僕は崩れるように床にうずくまる。


「お布団に戻った方がいいですよ」


「やっぱり体に力が入りません……栄養を吸収するまで待ってください」


「でも、床じゃおでこが痛くなりますよ」


「今起き上がるのは無理ゲーです……」


「吐きそうなんですか?」


「いや、そうではなくて……」


 僕はひたいを床につけたまま目を閉じ、動けずにいた。


 するとあずささんは僕の頭をそっと持ち上げ、やわらかい枕の上に乗せた。


 あれ……? こんな感触の枕、僕は持っていただろうか。


 妙に温かく、しっとりとした枕だ。


 まさかと思い驚いて目を開くと、天井を背景にしたあずささんの顔があった。こともあろうに、あずささんは自分の膝の上に僕の頭を乗せていたのだ。


 差し込む朝陽に浮かぶあずささんの表情は、優しげで、いくぶん赤らめていた。


「落ち着くまでこのままでいますからね」


 さらに柔和な声だった。あらためて僕はあずささんの優しい声が好きなんだなと思う。


「膝枕なんて、悪いですよ……汗ばんで汚いですから」


「……でも、地震が起きたあの日、本社さんも、汗ばんだわたしの頭を撫でてくれましたよね」


「お返しですか、ありがたいです」


「いいえ、お返しなんかではないです。ただわたしが、そうしてあげたいんです」


 あまりの心地よさに気持ちが平静を取り戻してくる。


 けれども、落ち着きと引き換えに、先日の記憶が明瞭に浮き上がってきた。あずささんにハレンチなことを言った記憶だ。


 熱で火照っているはずの顔がさらに熱を持ち、僕は即座に謝罪した。


「この前は本当にごめんなさい。あまりにもひどいことを言ってしまって。原因は僕の勘違いなんですけど……」


「いえ……実は先程、三浦さんから事情を聞きました。わたしも酔った上に、あんな思い違いをして、みっともないところを見せてしまって……恥ずかしくて顔を合わせられませんでした」


 どうやら臨時休暇を取ったのは、そのことが理由らしい。互いに衝撃は甚大だったようだ。


 僕は極上の枕から伝わる熱を頬に受けながら、抱いていた不安が溶けていくのを感じていた。


 すると、小さく息を吸い込む音が聞こえた。纏う雰囲気が厳かになったような気がする。


「本社さん、よく聞いてほしいんですけれど」


「……はい?」


「わたし、色々考えたんですけど……本社さんって、不運でここに来ることになって、そのせいで恋人も作れないんですよね」


「僕は別に、不運だなんて思っていません。でもまぁ、相手がいないのは事実ですけど」


「お付き合いをしても別れるって、よくあることなんでしょうか。今、お相手がいらっしゃらないっていうことは、そういうことですよね」


「うーん、初めて付き合った相手と結婚するってことは、ほとんどないでしょうね」


 あずささんは息を大きく吸い込み、一拍置いて、それから震えるような声でこう言った。


「……ですから、わたしでよかったら、いいですよ」


 僕は驚いて目を見開いた。あずささんはその一言を口にするのに、相当な覚悟が必要だったはずだ。めまいがするほどの、激しい鼓動を自覚する。


 おぼつかない頭で必死に想像する。あずささんがそう言ってくれたのは、僕に対する恋心ではなく、優しさゆえのことだ。お情けと同義語の優しさに違いない。


 けれどももし、その優しさを受け入れてしまったら、後に訪れるのは未来のない喪失だけだ。これ以上、あずささんの悲しみを積もらせるようなことは、僕にできるはずがない。


 すこぶる後ろ髪を引かれるが、再び目を閉じ、僕は自分の思いを語る。


「だって、そんなことしたら……あずささんに辛いことがひとつ、増えるだけです。だから僕は、あずささんと恋人関係になろうなんて思えないです」


 あえてあずささんの表情を見なかったのは、どう受け取るかはすべてあずささんに委ねたいと思ったからだ。


 すると、僕は頬に熱いものを感じた。言わずもがな、涙の温度だった。驚いたが、ひたすら冷静さを保ち閉じた目の奥で空気を察する。


「……もう、きっと、悲しいと思います」


 あずささんは震える声を絞りだす。


「本社さんは、わたしの気持ちを、ちゃんとわかってくれている人だと思いました。だから、辛かったことも、悲しかったことも、話すことができたんです。けれども、この前は酔いと甘えで失敗してしまいました」


 そしてすすり泣く声が聞こえた。あずささんは膝枕をしたまま、自分の想いを吐露する。


「……わたし、男の人にあんなひどいことを言ってしまったの、初めてなんです。でも、口にしてから、今までいろんなことを我慢していたんだって気がつきました」


 そうなのか、あの崩れたあずささんが、僕に心を許してくれた結果の姿だとすれば、誤解は災いでもなんでもない。


 そして僕だって、好きになったからこそ、必死になって墓穴を掘ったのだ。


 あずささんはそっと繋いでゆく。


「人間ってみんな、正直な気持ちを隠して生きてますよね。でも本当は、自分の本心の行き場を探してさまよっているんでしょうね。わたし、本社さんに会えたから、自分自身がそうなんだって、気づいてしまいました。だから、本社さんがいなくなって、正直な気持ちの行き場がなくなったら、とても寂しくて、とても悲しいです……」


 ああ、そうだったのか。僕自身があずささんの気持ちを受け止めてあげられているのなら、それだけで僕の想いは叶ったようなものだ。


 そしてあずささんが本心を明かしてくれた以上、僕には僕の想いを伝える義務がある。早鐘を鳴り響かせる胸をなだめながら、ひとつひとつの言の葉に想いを織り込んでゆく。


「あずささん、僕にとってのあずささんは、とても、とても綺麗な人なんです。今まで出会ったことのない、自然な美しさを持ってるって感じるんです。僕はそんなあずささんに出会えて、女性を見る目が大きく変わりました。きっと、あずささんと過ごす時間は、一生忘れることのない、大切な思い出になるんです。僕の、かけがえのない宝物です」


 それから、ゆっくりと瞼を開けると、あずささんの潤んだ瞳の顔が視界に映った。僕の気持ちが通じたのだろうか、照れたような笑顔を見せてくれた。


 ああ、あずささんにはやっぱり笑顔が似合う。


 それから、あずささんは僕の頭を撫でつつそっと話す。


「やっぱり今度、佐竹さんに本当のことを言おうと思うんです。ただ、ゴールデンウィークが終わるまで仕事を続けさせてほしいってお願いするつもりです。正直な、自分の気持ちを伝えようと思っています」


 やはり、あずささんは嘘の恋人をやめるつもりだ。そして、ゴールデンウィークに催される祭りにこだわりがあるのだろう。


「僕からも謝って、お願いしたいと思います」


「ありがとうございます。でも、そうしましたら、その前にどうしても一度だけ、一緒に行って欲しい場所があるんです」


「……どこですか」


「竜神峡にある、竜神大吊橋です。家族で最後に訪れた場所なんです」


 僕はそのお願いに瞼でうなずいた。


 あずささんは佐竹さんに会う前に、あずささんの恋愛を縛っていた、家族への呵責を振り切るつもりなのだろうと僕には思えたのだ。


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