【君と僕の嘘・3】

 青ざめた朱里さんが両手で口を押さえ慌ててトイレに駆け込む。今度は皆の視線が朱里さんの背中に集中する。ドアの向こうから断末魔のような声が聞こえた。


「おおおうううぇぇぇぇ……っ!」


 どうしたんだ? 昨夜はさほど飲んでいないようには思ったのだが、アルコールに弱い体質だったのだろうか。


 黒猫も何が起きたのか気になったようでソファーの影から顔だけ覗かせる。


「あっちゃー、朱里が体調崩しちまったかぁ。この分だと今日の営業ははダメに違いねえ。光之、お前ひとりで行けっか?」


 支店長はそう言って光之くんに視線を送る。


 ところが肝心の光之くんの表情はひどく狼狽し、視線がおろおろしていた。


 先程とは比べ物にならない動揺した様子で、営業とはまた違った理由なのだろうと僕は勘づいた。


 そして部外者の僕以外は皆、薄々ながら心当たりがあったようだ。


「「「「まさか……」」」」


 視線を一身に受けている光之くんは、覚悟のできていない震えた声を発する。


「多分……僕のせいです……」


 つまり、それは――


 彼らの間の雰囲気は恋人っぽかった訳ではなかったが、男女の間にはそういう関係も、あるいはそういう事件もあるのだろう。


 皆、あんぐりと開けた口が塞がらなくなっている。誰も何も言いだせないまま、数分が経過した。


 口をすすぐ水の音が聞こえた後、朱里さんはハンカチで顔を拭いながら渋い表情でトイレから出てきた。


 視線が揃いも揃って光之くんから朱里さんに移動したから、朱里さんは事態を察したようで、渋い顔が苦い顔に変貌した。


「おめえら……」


 デリカシーに富んでいる訳ではなさそうな三浦くんでさえ、言いかけて口を閉ざす。


 そして、その衝撃は僕に飛び火してきた。誰よりもうろたえていたのは支店長だった。


「あう、貴重な戦力がぁ……本社さん、あずさは大丈夫だっぺか? 昨晩、勢いでってことは……」


 その一言であずささんの顔がぽっと紅潮する。そうだ、僕らの関係についての誤解はいまだに解かれないままだった。


「ちょ、ちょっと支店長、よく聞いてくださいッ! わたしは……わたしは……」


「あっ、あずさ、焦るってことはやっぱり……そうなっちまったんだべ?」


 支店長の誤解が深まるこの危機的状況に足踏みなんかしていられない。僕はすかさず加勢する。


「違いますっ! 僕からあずささんにお願いしたんです。僕がここにいる間だけ……」


「なあにぃ、今だけだと!? あずさを遊び相手にして出張終わったらほっぽるつもりなんかい! 本社さんっ、あんたって人は……」


 火に油を注いてしまったみたいだ。支店長は茹でダコのように顔を真紅に染めて僕を睨みつける。


 戦々恐々としたこの雰囲気に、僕はどうしようもなくなった。


 結局、僕とあずささんはふたりで声を揃えて勘違いを修正できない支店長に反論したのだった。


「「支店長が想像してるようなことはしてません!」」


 ★


「ハッハッハ、そういう作戦だったんかい。事情はちゃんと説明してくれねぇと誤解を生むだけだかんな」


 支店長は汗ばんだ赤ら顔で笑い飛ばすが、そもそも誤解の原因は僕らではない。


 三浦くんは安堵したようだったが、唯さんは残念そうな顔をしていて、すったもんだを期待している感が満載だった。


「まっ、よく考えたもんだな、本社さんなら佐竹さんも恨んだりできねえし。とりあえず当面、主戦力の喪失は避げられたな」


「すいません、ですからそれとなく口裏を合わせたり、いかにも恋人っぽいぞという雰囲気を醸しだすよう、お願いいたします」


「おんもしろそうだな、みんなでやってみっか」


 すると三浦くんは立ち上がり、両手で皆を招く。年上の支店長も、つわり(だと思われる)の朱里さんも寄り集まってきて、皆が右手のひらを差し出し重ねる。


「「「「「エイエイオー!」」」」」


 僕は不本意ながら皆の連帯感に巻き込まれる。あずささんは気乗りしない僕に目配せして、少しばかり済まなそうな表情をした。


 そのとき、駐車場に車が一台、滑り込んできた。


 停車すると同時に、皆、すかさず真顔に戻し、自分の席に舞い戻る。


「本社さんは隠れてな」


 支店長に言われるがまま、部屋奥の倉庫に身を潜めた。ドアの隙間から外の様子をうかがう。


 エントランスの自動ドアが開き、ジャケットを羽織った男が姿を現した。佐竹さんだ。


 昨日と同じようにあずささんが応接に向かう。


 皆は何事もなかったかのように黙々と仕事を再開するが、アンテナはそちら側に向いた状態のままだ。


 佐竹さんは片手を上げ、さも親しげに挨拶を交わす。


「おはよう、あずささん。今日は水入らずで話の続きがしたい」


「うけたまわっております、タイルの工事のことですね」


 あずささんがしらを切ると佐竹さんはじろりとあずささんを睨んだ。


 険悪な雰囲気を察したのか、黒猫が佐竹さんに向かってせな毛を逆立てて「フーッ!」と威嚇した。黒猫も気持ちは僕と同じようで、毛の立った背中を後押ししたくなる。


「今日はその話じゃない、返事を聞きに来たんだ。もう決心してくれてもいい頃だろう」


 佐竹さんはしゃもを東京に出荷する仕事もあり、田舎者だと舐められないように標準語を喋るのだとあずささんから聞いていた。あずささんほどではないが、東京人の僕が聞いていても違和感のない標準語だ。


「返事……ですか……?」


 あずささんは分かっていながらも慎重に応対し、佐竹さんを来客用の席に案内する。佐竹さんは向かいにあずささんが座るやいなや身を乗り出し本題を切りだす。


「何度も言っているが、俺と付き合ってほしいんだ。もちろん、その先のこともちゃんと考えている」


 皆、ふたりの様子を看守しているようで完全に手の動きが止まっている。明らかに耳をそばだてて小声を拾っているようだった。無論、扉の隙間から覗く僕もそうなのだが。


「……あの、昨日言いそびれてしまったのですが、わたし、今は無理なんです……」


「無理……だと……?」


「実はわたし、好きな人がいるんです」


 その瞬間、派手に机を叩くが響いた。あずささんはビクッと肩をこわばらせ目を伏せた。けれどもすぐさま顔を上げ、佐竹さんに向き直る。


 嘘だと分かっていても、好きな人と聞いて心臓が爆ぜた。神経がたかぶり、つばを飲み込む音すら轟音のように感じた。


「今、その人とお付き合いをさせていただいているんです……」


「なんだと、どこのどいつだ!」


 握りしめた拳がわなわなと震えている。


「東京から来られた方です」


「とっ、東京だと!?」


 大子とは比べ物にならないほどの壮大な町の名前を持ち出したせいか、佐竹さんは露骨に動揺し始めた。


「あっ、あずささん、あんた東京に行っちまうつもりか」


「……いえ、わたしは絶対、大子を離れません。その人と一緒にいられるのは、一生のうちでほんのわずかな時間だけだと思うんです」


「それなのに、どうしてなんだっ!」


「自分の気持ちに嘘はつけませんでした。ですから、その人に対する気持ちを抱えたままで佐竹さんにお返事を差し上げるなんてできっこありませんでした」


 あずささんの態度は演技ながら毅然としていた。メロン工務店のスタッフは無言ながら雰囲気は色めきだっている。僕も心の中でよし、と拳を握った。


 佐竹さんは気圧されたようで、うつむいてしばらく逡巡した。結局、諦めるつもりはないものの、あずささんの気持ちを力ずくで変えることなんてできないと悟ったようだった。相手が姿を消す、そのときを待つと決めたようだ。


「……絶対に別れるんだな」


「はい……絶対に別れます。そして気持ちに決着をつけて、佐竹さんの望む形のお返事をしたいと思います」


 ――絶対に別れる。


 そのあずささんの一言は、僕自身、頭では同意しているはずなのに、まるで死神の鎌を心臓にあてがわれたような恐怖を伴う痛みだった。


 僕の想いを殺す運命は、遠くない未来で手ぐすねを引いて僕を待ち構えているのだ。


 それから佐竹さんは事務所の中を見渡した。おそらく東京から来た人間が僕のことだと察したのだろう。姿が見えないと知ると、迷わず立ち上がり早々に帰り支度をする。


「じゃあ、そのときは必ず、すぐに教えてくれ」


 そのときとは僕が東京へ帰る時のことを指している。そして、時が来たら必ず承諾するというあずささんの返事に納得したようで、佐竹さんはそれだけ言い残してメロン工務店を立ち去っていった。


 エントランスの自動ドアが閉まると皆、気が抜けたようで、ふぅ、と同時にため息をついた。僕も胸を撫で下ろした。


 それからあずささんは皆のほうを向いて「プライベートなことなのにご迷惑をおかけしました」と改まって頭を垂れる。


 皆、全然気にすることはないと言い、しかもあずささんに同情している様子だった。


 あずささんに聞こえないよう、小声で唯さんに話しかける。


「あずささんって、本当に好きな人いないんですかね」


 二十代半ばの女性なのだから、想いを寄せる相手がいない方がおかしいくらいだ。少なくとも就職してからひとりやふたりはいたのではないかと察し、僕は唯さんに尋ねたのだ。唯さんは事情をなんでも知っていそうで、しかもたやすく話してくれそうだからだ。


 ところが唯さんは困惑したような表情をしてから、「あずさちゃんはねぇ、恋愛しないかもね」とだけ言って口を閉ざした。


 どういう意味かと思いその先を聞いたのだが、何でも話しそうな唯さんが手のひらを振って拒んだものだから、それ以上は何も訊けなくなった。


 支店長は厚みのある手のひらを二回、大きく打ち鳴らすと、「じゃあ、この話はここまでにすっぺよ。明日は休日だから、ゆっくり寝て体調を整えてくれ」といってこの一連の出来事に終止符を打った。


 そこであずささんが黒猫を指差して皆に質問する。


「あ……あのう、この子なんですけれど……休日の間、どうしましょうか。それからお名前どうしましょうか」


 その言葉に皆、視線を黒猫に向ける。自分が話題の主人公になったと気づいた黒猫はひょいっと軽やかにソファーの上に乗り、声高らかにニャーと鳴いた。


 ちなみに話し合った結論としては、平日の夜は事務所で留守番をしてもらい、休日の間は僕かあずささんが持ち帰って世話をすることになった。名乗り出る者がいなかったし、成り行きからすれば、まあ、仕方のないことだ。


 それから名前だが、これも結論からすれば「ありちゃん」になった。


 最近は色彩を反映して「ムギ」や「マロン」などの名前が人気なようだが、この猫の場合は色で名前をつけるなら「クロ」「ブラック」あるいは「ダーク」となり、あまりにもナンセンスだったため、色については即刻却下となった。


 三浦くんは「真っ黒でアリンコみたいだからアリでよぐねえか?」と安直な提案をしたが、誰も賛同しなかった。当然、するはずもなかった。


 ところがあずささんが、「本社さんが助けようとした猫ちゃんだからそれでいいんじゃないですか」と言い出したのだ。


 皆、どこがどう繋がっているのか、ピンとこないようだった。けれども僕だけは意味が理解できて少々、驚かされた。


 あずささんは膝の上で丸くなる黒猫をなでながらしみじみと理由を説明する。


「だって、助けてくれた人のお名前が、社臣ありおみさんですものね」


 皆、誰それ? と口にしたので、そのときまで僕の本名は周知されていなかったようだった。


 あずささんは「よく覚えていたなぁ」と支店長に感心され、「だって、恋人役なんですからファーストネームも覚えておかなければ怪しまれますよ」と、至極真っ当な理由を説明していた。


 けれども、今まで「本社さん」と距離を置いたようなニックネームで呼ばれていた僕にとっては、本名を持ち出されたのは妙にこそばゆい感じがしてならなかった。


「ここにいらっしゃらなくなっても、ちゃんと思い出しますからね」


 そういったあずささんは、いずれなくなってしまう僕のことを、ちゃんと記憶にとどめておいてくれるらしい。まだこの地に来たばかりだというのに、別れを思い浮かべてしんみりしてしまう。


「あと、本社さんに猫のことでお尋ねしたいんですけれど」


 そう言ってあずささんは僕を見上げた。


「はい、なんでしょう」


 軽い返事をし、あずささんの隣に座り黒猫の耳を弄ぶ。くすぐったいのか、逃げるように耳の曲げ伸ばしをしていた。するとあずささんは僕の耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。


「明日、お暇ですか?」


「あ、別に用事なんて何もないですよ」


 僕はなんの気なくそう答えた。猫の相手をしている時の話だから、ペットショップへの買い物のお願いじゃないかと僕は予想した。けれどもあずささんは照れくさそうな顔をしてこういったのだ。


「そしたら、恋人のアリバイ作りしませんか」


 意味深な言い方に心臓が一発、飛び上がった。


「恋人のふりをする交換条件として、わたしの好きな場所に行ってみたいっておっしゃってましたよね」


 さらに、あずささんは僕の答えを聞く前から、すでにそのつもりだったらしいのだ。何故ならもう、行く場所はあずささんによって決められていたのだから。


「袋田の滝って、知ってますか? ありおみさん」


 自分から誘ったことが恥ずかしかったのか、ファーストネームで呼んだことが大胆だと思い直したのか、とにかくあずささんは顔を急激に紅潮させてうつむいた。


「聞いたことはあるけれど、見に行ったことはないなぁ……一度くらい見てみたいかな」


 誘いに胸を弾ませるが、あくまですまし顔のまま答える。


 あずささんは了承したと受け取ったようで、目を合わせずこくりと小さく首を縦に振った。


 その仕草は少女のように、すこぶるあどけなく見えた。


 僕は心の声であずささんに語りかける。


 ――あの、それってほぼ、デートってことですよね?

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