【君と僕の嘘・2】

 ソファーの椅子に座り、対側に手を差し出し「座ってもらえませんか」とお願いする。あずささんは言われるまま、いそいそとソファーに座り姿勢を正す。僕の決心を感じ取ったのだろうか、困ったように長い髪をかきあげた。


「あずささんってこの仕事、好きなんですよね」


「あっ、はい、もちろんです!」


 僕の質問が些細すぎて意外だったのか、反射的に背筋が真っ直ぐに伸びた。僕に面と向かい合って答える。


「とっても好きです。いろんな方とお話できますし、助けてあげられますし、それにたくさんの笑顔に出会えますかえら」


 仕事のことを尋ねられたからか急に柔和な笑顔になる。思っていることが顔に出る、正直な人なんだと感じる。


 けれども伝えたことは仕事の話ではない。僕は真剣に向き合い、本題に踏み込む。


「この仕事、長く続けていたいですよね」


「え? どういう意味ですか?」


 僕の意図することを察したのだろう、とたんに笑顔が消え表情が固まる。


「皆、言ってましたけど、あの佐竹さんって人に言い寄られているんですよね」


 あずささんは何も答えなかった。けれども、目を伏せて長い髪を指先で絡め弄び始めたから、僕の質問に戸惑っていることは明らかだった。


「あの……誰にも言いませんから、教えてもらえませんか」


 うつむくと長い髪がさらりと流れて表情を隠す。顔は見えなかったけれど、思い詰めた雰囲気がひどく寂しそうに思えた。


「……はい、されてます。結婚前提で、って」


 ためらいながらもぽつりと答えた。やはりそうなのだ。分かっていたつもりだが胸が抉られるように痛む。


「恋人ではないんですよね」


「はい、まだ……でも……」


 でも、に続く言葉があるとすれば、それは諦念を伴う覚悟のように思えた。僕は諭すように続ける。


「けれど、肝心なのはあずささんの気持ちです。僕はそれを知りたいんです」


「……わたしのことは、本社さんには関係ないことです」


 あずささんが誰をどう思っているのか、僕にだって大いに関係がある。だって僕はあずささんのことを――


 すぐさま浮かんだ自分の本心を打ち消し、描いたシナリオを予定通り実行する。


「あずささんには、お付き合いする相手はよく考えてほしいんです。だって僕なんか女性で失敗して、今ここにいるんですから」


「え? 失敗って……?」


「あ、つい口が滑ってしまいました」


 そういって大げさに口を押さえたが、これはあらかじめ考えておいた、あずささんの気持ちを引きだすためのあざとい作戦なのだ。


 出向はどうせ自分自身が撒いた種だ、そのことを交換条件にあずささんの気持ちを知ることができるんだったら黒歴史だって少しは報われるというものだ。


「聞きたいですか? 僕がなんでここに来ることになったのか」


「……ええ、ちょっとは」


 ちらりと上目遣いで僕を見た表情は、明らかに気になっているようだった。


「……じゃあ話しますから、あずささんも自分の気持ちを教えてください。それでお互い、このことは秘密にしましょう」


 すると、あずささんは少し間をおいてからそっと口を開いた。


「……秘密が、またできるんですね。今度はふたりのことですけど」


 その返事に僕は頷き、僕の遠くない過去について告白し始めた。


 そして最後まで黙って聞いていたあずささんは、話の終焉を迎えたところで小さなため息をついた。


「……軽蔑しましたか」


「あの……なんていっていいか、よくわからないんです。その……わたし、恋愛ってもっと華やかなものだと思っていたので……」


「今思えば、恋愛なんかじゃありませんでした。本当の恋愛って、もっと眩くて、憧れに手を伸ばすようなものなんじゃないかと僕は思うんです」


 僕はあずささんの視線に気づいて言葉を詰まらせた。僕にそう思わせた犯人は今、こちらを見つめているのだ。けれども、僕が気持ちを包み隠さず伝えたせいか、遠慮がちな犯人も自身の心情をおもむろに吐露してくれた。


「わたし、たぶん、自分の恋愛はずっと後回しなんだと思います。自分が幸せになることよりも、皆に幸せになってもらうことの方が、大切なことのように思えるんです。だから望まれて得られる幸せも、あるんじゃないかって思っているんです」


 自分よりも他人を優先するという、あずささんの考えは僕には理解できなかった。けれども、そう考えることになった背景が、彼女の人生のどこかあったのだろうと察する。


「本当に受け入れるんですか……?」


「……はい」


「でも、結婚して佐竹さんの家庭に入ったら、今の仕事は辞めるつもりですよね」


「……ええ。佐竹家はさまざまな事業に携わっている経営者ですから、一家総出で切り盛りしているみたいです」


 なるほど、嫁ぐということは佐竹家の経営の一端を担うということだ。好きな仕事が続けられるわけじゃないというのもよくわかる。


「返事を引き延ばすことはできないんですか」


「そうする理由がありません。……本当は、今の仕事を続けたいのですけど」


 そこで作戦の核心に迫る。


「じゃあ、もしもあずささんが他の誰かと付き合ったりしたら、佐竹さんは言い寄れないんじゃないんですか」


「えっ……?」


 あずささんはためらいを見せたが、一息ついてから話を続ける。


「……この地域は狭いですから、『地力』のある佐竹さん一家に楯突いたりできないんです。誰かがわたしに関わって佐竹さんの邪魔をするようなことがあったら、その人は将来にわたり不当な扱いを受けるかもしれません」


 その返事はなるほど予想はしていたことで腑に落ちた。


 そして僕は、佐竹さんにあずささんの働いている時のいきいきとした表情を奪われたくはなかった。


 もちろん、それ以上に僕自身があずささんを奪われたくないのだ。


 だから、僕はすかさず次の言葉を繰りだす。今までの会話は、すべてこのための事実確認だったのだ。


「だけど、もしもこの地域と関係ない人があずささんの恋人になったら、その人は佐竹さんに恨まれたって実害はないですよね。それにその間は、あずささんだって遠慮なく仕事を続けられますよね」


 僕の提案にあずささんは驚いて目を丸くした。言いたいことは伝わったのだろう。そこで改めてはっきりと告げた。


「僕があずささんの嘘の恋人役になります。ここにいる間の、ほんのひとときに過ぎないでしょうけれど」


 するとあずささんは驚いてから綺麗な瞳を潤ませ、紅色に染まる顔を両手で覆った。


「本社さんのお気遣いは嬉しいです……でも、そんなこと本社さんにさせられるわけがないです」


 思慮深いあずささんなら、そういうことは分かっていた。けれども、僕だってここで引き下がるつもりは毛頭ない。


 そうだ、僕の気持ちは決まっていた。高鳴る胸を抑えて大きく息を吸い込み、そっと言葉を吐きだす。僕の想いを乗せて、あずささんの心の中にある、やわらかな枝葉を揺らすように。


「いえ、これは交換条件です。昨晩、星空を見た森の高台のように、あずささんのお気に入りの場所を、僕と一緒に巡ってほしいんです」


 僕は汚れた空気の都会で息をして暮らし、牢獄のようなビルの中に居心地の良さを感じる人間に育った。


 もしもそれでも、清麗な空気に満たされた、青と緑の色に満ちた世界が僕を受け入れてくれるのならば。


「あずささんの好きな場所は、僕だって好きになれると思いますから」


 どんなに悲しい結末が待っていたとしても、僕はこのうつくしい人と一生の思い出を作りたいのだ。


「僕と一緒に、嘘をついてもらえませんか」


 だって僕はもう、このひとに恋をしてしまったのだから。


 するとあずささんは瞳を潤ませ、儚く優しげな笑顔を浮かべ、僕に答えてくれた。


「――ええ、たくさん、たくさんあるんですよ。わたしの好きな場所は」


 そういったあずささんは、散る運命を知りながらも咲く花にも似た表情をしていた。唇の隙間がわずかに開いて白い歯がこぼれた。


 きっと、積もる愛しさの分だけ、苦しみも増してくのだろう。


 でも、それでよいのだと、僕は自分の心に強く言い聞かせた。


 ★


 翌日の朝、あずささんと僕は早めに出社し、開店と同時に営業を開始した。もちろん、黒猫を持参し、拾ったあたりの民家を中心に聞き回るためだ。


 けれども、訪れた民家の人々は首を横に振るばかりで、黒猫に心当たりがあるという人はひとりもいなかった。黒猫は野良猫だということはほぼ、確定していた。


 近隣の民家は網羅したので、これ以上当たっても埒が明かないと思い、今度の「だいご通信」に「飼い主を探しています」のコーナーを設けようと考えついた。それ自体がネタになったのは有り難かった。


「名前、つけないといけなさそうですね。もう野良の資格は喪失してます」


「そうですね、でも本社さんはお友達ができて嬉しくないですか」


「お友達ですか……」


 いや、この猫からは見れば僕は友達ではない。自分よりもあずささんが上、僕が下、と位置づけているのがありありと伝わってくる。


 結局昨夜、黒猫は僕が連れて帰り、同じ布団で寝る羽目となった。撫でると気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らすが、止めると目を見開きネコパンチを繰りだすのだ。寝るまで続けろという意味らしく、実は慣れるとタチが悪いブラック猫だったのだ。


 元は野良なのに自ら飼い猫の自覚を持ち始めた黒猫に僕はもう諦め気分だ。


「ところで本社さん、本当にみなさんにお話しするんですか」


「そうでなくちゃ誤解されるでしょうから。この小さな町では隠し事が出来なさそうですからね」


「ん~、みなさんを巻き込むのはちょっと罪悪感がありますね」


 困った顔をして髪をかきあげる仕草は色気が控えめで幼く見える。でも、そんなところがあずささんらしく好感が持てる。僕は意図のある策略的な仕草を散々見てきたから、なおさらそう感じるのだろう。


 それから皆が出社してきた。今日は僕を含めて七人が揃っている。開店を控えて待っている間、支店長は皆にアナウンスをする。


「これからなるべく、光之と朱里に営業に出てもらうようにすっからな。顧客の要望があった際にはすぐに職人を出向かせっからすぐ連絡するべよ」


 あずささんを外していることについては、おおむね誰も反論しなかった。事情は重々承知しているからだろう。


 ところが昨日、営業回りをしていた光之くんだけは聞くやいなや、露骨に表情を曇らせた。


「俺……辛いっす。爺さんたちが『あずさちゃんじゃないと嫌だ』って駄々こねっから……」


 あずささんの慕われようからすれば納得せざるを得ない。けれども、支店長は首を横に振って答える。


「佐竹さんとこからいくつか修繕の話が来てっから、あずさはそっちを対応してもらうんだ。あとはお便りの方も書き溜めといてくれねえといけねえし」


 佐竹さんは貸家や養鶏場を数多く持っているので頻繁に依頼がある。もちろん、あずささんと繋がりを持つためという目的もあるのだろう。


「まあ、朱里も出向けば納得してくれっぺよ」


 ところが朱里さんは出勤してから気分が悪そうで、若干青ざめた顔でぐったりとしていた。昨日の歓迎会で飲みすぎたのだろうか。そのことには唯さんも気づいていた。


「朱里ちゃん、大丈夫?」


 朱里さんは声をかけた唯さんに無言で頷くが、眉間に寄った皺はそのままだ。そこであずささんが席から立ち上がった。


「今日はわたしが行きます。あとひとつ、お願いといいますか、大事なお知らせがあるんです」


 皆の視線がいっせいにあずささんに集まった。皆が予想しているのはおそらく、佐竹さんの申し出をあずささんが受けたという報告だろう。


 だから僕が黙って席を立ち、あずささんの傍に歩み寄ったとき、皆、揃いも揃って怪訝そうな表情を浮かべた。あずささんは緊張した面持ちでおもむろに口を開く。


「あの、わたし、みなさんにお願いがあります。本社さんと話し合って決めたことなんですが、わたし、本社さんがここにいる間、本社さんとお付き合……」


「「「「ええええぇぇぇぇエエエエェェェェ!!!!」」」」


「ミギャァー!」


 説明し終わらないうちに、支店長、唯さん、三浦くん、光之くんから驚嘆の声が飛び出し、あずささんの説明の肝心な部分を完全に打ち消してしまった。ソファーで寝ていた黒猫が驚いて飛び上がり、慌てて陰に身をひそめた。


「ちょっ、ちょっとあんたたち、昨晩あの後に何があったのよ!」


「そんただこと決まってっぺよ、男と女なんだから!」


 唯さんと三浦くんはすでに、僕らが勢いで行為に及んだものと決めつけている。もはや誤解の域を超えて妄想の世界に突入しているようだ。すぐさま誤解を解かなければ。


 そのときだった。黙っていたひとりが、急に体調に異変をきたしたのだ。


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