【あずささんの悪夢・1】

 翌日、午前十時。


 平日ならば開店のはずの時間、僕とあずささんはメロン工務店の駐車場で待ち合わせた。僕が到着したときには、すでにあずささんの車が駐車場に停めてあった。


 あずささんは青いブルゾンに白いスキニーパンツ、それに深緑色のキャップといったカジュアルな格好で待ち合わせの駐車場に現れた。栗色の髪を後ろで束ねていて、接客の時とは違ったくだけた雰囲気に僕の胸が小躍りする。


 あずささんは駐車場で小さな女の子と話をしていた。姿勢を低くして目を合わせている相手は小学校中学年位だろうか、おかっぱ頭で目がくりっとした可愛い女の子だった。


 キラキラとした表情であずささんに話しかけ、あずささんはしきりに首を縦に振っている。様子からすると、どうやら近所の子供のようだ。


 小さな女の子にとって大人の男性は怖いかもしれないと思ったので、僕は助手席に鎮座しているありちゃんを抱き上げて車を降りた。


 あずささんは僕を見て「おはようございます」と丁寧に一礼する。その女の子は不思議そうな顔をした。


「あずさお姉ちゃん、この人誰?」


「東京からわざわざお仕事を手伝いにてくださった方よ、ちゃんと挨拶してね」


「うんっ!」


 そして僕を見上げ、あずささんと同じように「おはよーございます」と言い、おかっぱ頭が地面につくぐらいの深い挨拶をする。


「おっ、礼儀正しいね」


「本社さん、この子はすぐそばの民家の子で咲ちゃんっていうの」


 黒猫を目の前に掲げ、裏声で「おはようニャン!」と言ってみると、さくちゃんは極めて悪気のない笑顔で「猫ちゃん可愛い~、お兄さんキモいっぺよ」といってありちゃんの頭をわしゃわしゃと撫でた。


「抱っこさせてもらえんのけえ」


 そう聞かれたので、僕は冗談が通用しなかったことに愕然としながらもありちゃんを手渡す。ありちゃんは咲ちゃんの腕の中でさっそく喉を喉を鳴らし始めた。


 若い女性に懐く猫――ありちゃんの性別はオスである。僕と同じ名前の、どす黒い猫である。


 咲ちゃんは腹まで黒い猫を抱きかかえたままあずささんに尋ねる。表情から笑顔が消えていた。


「ねえ、あずさお姉ちゃん、結婚しちゃうって本当?」


 あずささんは一瞬、目を大きくした。


 佐竹さんの求愛は世間でも噂になっていたのだろう。咲ちゃんの表情はあずささんに居なくなって欲しくないという気持ちがありありと表れていた。


 けれども、あずささんはすぐに優しい目に戻って、やわらかい声で言う。


「大丈夫よ、まだ、ちゃんとここにいるからね」


 咲ちゃんの表情がぱっと明るくなる。


「よかったー、お姉ちゃんがいなくなっちゃったら、オンボロの家、潰れちゃうから」


 半ば冗談だろうけれど、そう言って猫をおろし、手を大きく振りながら近くの民家に舞い戻っていった。


「お待たせしました、それじゃあ行きましょうか」


 今の様子を見て、あずささんが子供に懐かれるのもよくわかった。笑顔が優しげで言葉がやわらかいく、子供のたどたどしい話ですら嬉しそうに聞いていたからだ。


 それから僕は、あずささんを愛車シビックRの助手席に乗せ、膝の上にありちゃんを抱きかかえてもらう。


「わぁ、本社さんの車って走る時、静かですね」


「そりゃあ、そこそこいいもの新車で買いましたからね。でもこの地域は車、ないと困りますよね」


「そうですねぇ、みんな高校卒業が近くなると免許を取りに教習所に通いますよ。運送業に就く人も多いし、わたしも仕事で使いますからね」


 隣にあずささんを乗せドライブする僕はいやおうなしに高揚していた。


 開けた窓から吹き込む秋の風は混じりっけのない自然の香り一色で、見上げると絵に描いたような快晴だった。


 秋の晴れた空とは、なぜこんなにも果てしないのだろうか。さえぎるものがなにひとつない空を見上げて、本当のスカイブルーというものを僕は初めて知った気がした。飾りのない、いや、飾る必要などない、地球の大気が描く、どこまでも素直な原色が頭上に広がる。


「自然の中のドライブって気分がいいですね」


「あら、今頃気づいたんですか、わたしはいつもそう思ってますよ」


 そういってあずささんはくすりと笑う。あずささんにとっては日々の営業の中にいつもある風景なのだろう。


 東京では車がなくて不便と思うことはめったにない。鉄道が地上を地下を、縦横無尽に走っているからだ。けれどもその常識はここでは通用しない。なにせ、唯一の鉄道である水郡線が最寄りの駅である常陸大子駅に止まるのは、一日にたった九回だ。


 山手線であれば、ラッシュアワーには三分ごとに電車がホームに流れ込んでくる。時刻表などを気にしたことなどまるでなかった自分がどれだけ便利な世界に住んでいたのか認識させられた。


 けれども、この地に足を踏み入れてから、人間にとって本当に大切なものが何なのかわからなくなっている。不便で不都合であっても、そのままであってほしいと思ってしまうのは、僕がただの物珍しさでこの地を見ているだけということなのか。


 カーナビを頼りに袋田の滝に向かって車を走らせる。


 川沿いの曲がりくねった道を進んでゆき、ローカルなコンビニのある角を曲がり道沿いに進む。次第に深い緑に包まれ、風は森の匂いを濃くしてゆく。いくつかの平屋の土産屋が姿を現し、そのそばに路上駐車場が見えた。


「ここに止めてください。あとは歩いて向かうんです」


 言われるがままに停車し車を降りる。あずささんはありちゃんを抱きかかえて僕についてくる。しばらく足を進めると、あずささんが坂の上を指さした。そこにはコンクリートでできたトンネルがあった。中を進んでいくと、袋田の滝の目の前、観瀑台に出るという。


 日本三大瀑布とは、栃木の華厳の滝、和歌山の那智の滝、それにここ茨城の袋田の滝を指す。


 僕はかつて修学旅行で日光を訪れ、華厳の滝を見たことがあった。


 山々に蓄えられていた清水がひとつの流れになって、ためらいもなく垂直に滝壺へと落下してゆくさまは荘厳だ。派手な水しぶきで舞散る水滴がプリズムとなって虹の光景が見れることもあるという。僕はちょうどそのときに訪れることができた。


 あの壮麗な光景は筆舌に尽くし難いもので、今でもくっきりと脳裏に焼きついている。


 それと並んで日本三大瀑布にあげられる袋田の滝はどのようなものかと思い、敢えてリサーチすることなく足を踏み入れていた。事前情報がないほど、感動が大きいとも思ったからだ。


 トンネルの中を進んでゆくと、あたりの空気が冷気を帯びてきて肌を心地よく刺激する。


 滝のすぐ側まできてから急に、滝の音と、霧のような水しぶきが僕たちの前に広がった。


「ああ、これが袋田の滝の姿なんですね」


 袋田の滝は長年、水流によって削られてなだらかになった岩盤を、澄んだ清水が滑るように流れている。


 落ちるのではなく、流れているのだ。


 僕が知る、あるいは映画などで見る滝のイメージとはだいぶ違っていた。


 しかし、派手さという点では控えめなものの、流水の描くやわらかな線形が不思議と魅力的で心に響いてくる。おそらく、遥か昔からなにも変わらずとうとうと流れ続けている滝なのだろう。とどまることのない時間の流れを連想させられた。


「冬はこの滝がぜんぶ、凍るんです。去年は暖冬で見れなかったんですが」


 あずささんはいくぶん得意気に話す。名所が地元にあるのは誇らしいのだろうと思う。


「へえ、すごい、今年は見られるといいですね」


「そのときは本社さん、一緒に来ます?」


 どきん、と心臓が驚く。女性には慣れていないはずはない僕だが、僕があずささんを意識していることと、あずささんの無邪気すぎる誘惑のギャップが大きくてどうにもそのずれを埋められない。


 あくまで僕は嘘の恋人役なのだと、自分自身に改めて言い聞かせる。


 滝のそばに足を運んでみると、空気は冷たく研ぎ澄まされていた。


 滝が放つ霧のような淡い白を湛えた空が、鋭い光線を柔らかく修飾して辺りをおぼろげな世界に描き換える。


 滝の流れを見つめるあずささんの横顔を見て思う。


 ――やはり、あずささんは自然と調和している。もしもこのまま霧の中に溶けていっても不思議ではない。その静謐な美しさが、あずささんをなおさら遠くに感じさせる。


 浮かび上がる気持ちを打ち消すように僕は視線を滝へと移す。


 辺りを満たす音のすべては、目前に君臨する滝が生み出していた。僕とあずささんは滝に従属するように無言でじっと水の流れを見つめ続けている。


 水流の音色はリズミカルでありながら何ひとつ、同じ音が存在しない。幾重にも折り重なる水しぶきの階調は、いつまで聞いていても飽きることがないから不思議だ。


 水の流れだって同じ模様を二度と描くことはなかった。気泡が渦を巻きながら水底に消え、また浮かび上がる。幾度となく水の中を旅しているのだ。二度と訪れない一瞬が積み重なって川は成り立っている。


 この滝のように悠久な時の流れの中、僕は今、あずささんと刹那を重ねている。


 ふと、今なら、僕の想いを伝えることができるかもしれないと感じた。たとえ胸の奥にとどめている想いを外の世界に解き放っても、滝の水音が何も無かったようにかき消してくれるからだ。


 たった一言、誰の耳にも届かない言葉を口に出すかどうか、僕は観瀑台の柵に身をもたげて逡巡する。


 けれども結局、何も言うことができなかった。どんな言葉であっても、透明な水の美しさに戒められてしまうような気がしたからだ。


 お前の想いなど、不純で卑しいものでしかないと。


 足元にありちゃんが寄ってきて、僕を見上げニャーと一言、鳴いた。猫には霊感があるというから、僕の良からぬ考えを察したようにも思えた。しゃがんでありちゃんの頭を撫でると、あずささんも僕のそばに歩み寄ってきた。


 ありちゃんを挟んでしゃがみ込み、視線の高さを合わせて僕に話しかける。滝の音に声が消されないようにと顔を近づけてきたので、僕は思わず息を止めた。


 あずささんはうかがうように僕に尋ねる。


「本社さん、今日、もう少しお付き合い願えますか。この後、帰り際に寄りたいところがあるんです」


「えと、構わないですけれど、どこですか」


「陶磁器店なんです。身内のお店なので、もしご迷惑でなければ、なんですけれど」


 僕が首を縦に振ると、あずささんは安心したように口元を緩めた。


 どうやら彼女の誘いの目的は、袋田の滝だけではなかったらしい。


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