【決意・2】

 ★


 『だいご通信


 みなさん、こんにちは。


 これから山々が色づく季節になりますが、だんだん冷え込んできますので、風邪には気をつけてくださいね。


 寒いといえば、世界にはとっても寒い場所があります。


 そう、南極です! 日本が真夏の頃、昭和基地の気温はマイナス二十度ぐらいらしいです。


 そんな極寒の中で生活する皇帝ペンギンはどうやって子供を育てているかわかりますか?


 メスは卵をひとつだけ産むと、揃えた足の間にちょこんと乗っけます。


 それから、メスは卵をオスに託して長い旅に出ます。


 卵を渡す時、オスとメスは向かい合ってダンスを踊るように足をよちよちして、息が合ったところで、メスの足からオスの足へと、コロリと卵を転がすのです。


 なんだか素敵な関係ですね。』


 あずささんは僕の知識と調べた情報をもとに手紙を仕上げたところだった。


 手紙を書いている姿は真剣さながらで、根っから真面目な人なのだと雰囲気から滲み出ていた。


 一通り紙面を見直した所で、よし、と小さく声を上げてから僕に目を向け、お礼の意味で頭を垂れる。僕も必要以上に丁寧な返事をした。


 手紙のレイアウトはシンプルながら見やすく、ところどころに可愛いデフォルメの絵が書いてある。上手いというよりは味があり、顧客に好感を持たれるのも理解できた。


 同時に、なんでも器用にこなすほうではなさそうだが、愚直なことが彼女の魅力のひとつのようにも思えた。


 物事に向き合っている時の表情がとても純朴に見えるのだ。


 僕の視線はつい、あずささんに吸い込まれてしまう。しらじらしく視線を逸らすが、他のスタッフはごまかせても、自分自身の気持ちはごまかせっこない。


「本当に素敵な関係ですね……」


 頬杖をついて手紙を眺め、満足気に微笑を浮かべた。喜んでもらえて僕もありがたい。素直な表情に何度でも手伝いたくなる。


 けれども同時に、胸の中にふつふつと得体の知れない気持ちが湧き起こる。燻る木炭を胸に押し付けられているような感覚だ。


 理由ははっきりと自覚していた。あずささんが「素敵な関係」になる相手は、僕であるはずがないからだ。


 彼女はこの澄んだ空気と綺麗な水がある場所でしか生きていけない人間に思えてならない。


 そして僕は、この地域にはそぐわない、不純物のような存在に違いないのだ。


 だから胸の中に沸き起こった感情がどんなに枝葉を伸ばし育ったとしても、あずささんには隠し通さなければいけないのだ。


 そしてこの出向が終わったら、僕があずささんの隣にいることなど、あるはずがないのだ。


 将来、あずささんを奪っていくのはどんな人なのだろうか。いや、すでにそういう人がいるのかもしれない。抱え込んだ胸の中で疑問が渦巻き、想像ばかりが先走る。


 だから浮かぶイメージを打ち消したくて、ペンギンの続きのエピソードをつい、口にしていた。


「あの……実は、若いペンギンのカップルは、卵を手渡すためのステップでうまく息を合わせることができなくて、卵をポロリと氷上に落としてしまうことがあるんです。


 そうすると卵は一瞬にして温度を奪われてしまって、死んでしまうんです。


 ともに生きる理由を失ったカップルは、それまでになってしまうんです」


 相手がいても、うまくいくとは限らないという意味を込めたつもりだ。自分があずささんの恋人になれないなら、誰とも一緒にいないでほしいという身勝手な感情がそうさせていた。


 するとあずささんは表情を翳らせ黙り込む。


「……それは言わない方がいいですね」


「言わない」というのは「手紙に書かない」という意味にとれるが、「不幸なことは口にしないでほしい」という、僕に対する牽制のようにも思えた。


 これは確かに、幸せを願う者にとっては水を差す蘊蓄だ。


「……そうですね、本当にごめんなさい」


 僕らの間にある空気が湿り気を帯びたのを感じ取ったのか、一番若いスタッフの女の子がきょとんとした顔で尋ねてきた。黒猫が腕の中でゴロゴロと喉を鳴らしている。


「どしたんですか? そんな神妙な雰囲気になっちゃって」


 あずささんは笑顔を繕って「朱里ちゃん、別に何でもないのよ」という。無理のある笑顔に朱里と呼ばれた女の子は首を傾げ、僕を訝しげに見た。


 そのとき、エントランスの自動ドアが開き、ひとりの男性が入店してきた。ジャケットを羽織りパナマハットを被っていて、この地では見かけない洒落た格好をしているが、残念なことに小太りな体型がおしゃれの価値を半減させている。見た目は僕と同年代くらいに思えた。


「あっ、いらっしゃい」


 あずささんが手紙を置いて立ち上がり慌てて対応する。他のスタッフは誰もが会話を止め静観していた。朱里さんに小声で尋ねる。


「なんであずささんが対応してるんですか」


「いいから絶対、黙って見ててちょうだいね、本社さん」


 あずささんは「こんにちは、佐竹さん」と挨拶して腰を折り、来客用の席へ案内し、佐竹と呼ばれた客の向かいに行儀よく座った。けれどもなんの資料も申し持ち合わせていない。客は卓上に頬杖をつき、不満気な表情を浮かべる。


 不穏な空気に僕は耳をそばだててる。


「あずささん、風呂場のタイル、もう一回張り替えてくれねぇか」


「どこがご不満だったのでしょうか」


 あずささんは妙によそよそしい態度で客に接している。


「いや、デザインが気に入らねえんだよ。金ならちゃんと払うからさぁ。また下見に来てくれよ」


 客は鼻につく横柄な態度だった。客は神様だと勘違いしている輩はたまにいるが、あずささんに馴れ馴れしいことがさらに気になった。


「あっ、はい。ではカタログをお渡しします。日程を決められますでしょうか」


「日程の前にさぁ、あの返事がいつになるのか教えて欲しいんだけど」


 ――あの返事?


 遠目に見てもあずささんは困惑しているようだった。


「今日は……まだ、その……」


「なあ、早くしてくれって言ってるんだよ」


 苛立ちを含んでいるようにも、脅迫めいたようにも聞こえる。僕は居ても立ってもいられなくなった。早足で歩み寄り躊躇なくふたりの会話に割り込む。


「お客様、私はグリーンホーム本社の者です。提携会社の査察に伺いましたので、もし問題があるのでしたらどうかお教え願えないでしょうか」


 もちろん嘘ハッタリだ。そしてあたかもあずささんを非難するように睨みつけてみせた。それももちろん演技だ。あずささんは驚いた表情で僕を見上げている。


 すると客は答えに窮したようで、ちっ、と舌打ちして椅子から立ち上がる。


「あー、時間がないから明日また来るわ」


 吐き捨てるようにそう言って去っていった。


 エントランスの扉が閉じ、僕は胸を撫で下ろした。傲慢な客はどこにでもいるが、大抵は社会的ステータスに弱い。見た目は重要だ、今日は営業回りがなかったからスーツを纏っていたのが幸いした。


 悠々と後ろを振り向くと、スタッフは皆、予想に反して苦々しい顔をしていた。面倒な客を上手く追い払ったというのに。


 けれども、それ以上に僕を驚かせたのは、あずささんの反感を含む一言だった。


「ほっ……本社さんっ……余計なこと、しないでもらえますかっ……!」


 うつむき肩を震わせるあずささんに、普段のやわらかさはまるでなかった。


「これはわたしの問題なんですからっ!」


 そう言って立ち上がり、僕に背を向け足早に客を追いかけていった。


 どういうことだ?


 困惑しながら席に着くと、最初に口を開いたのは隣にいたメロンエプロンのスタッフだった。


「やっちゃったねー」


 半ば呆れたように言う。


「やっちゃったって……え、と……」


 メロン柄のエプロンに視線を向けたが名札はない。けれども、彼女は視線の意味をすぐに察した。


「ああ、あたしのことはゆいって呼んでな。だから朱里が言ってたっぺよ、黙って見てなきゃって。ほとんどプライベートの用件なんだからさ」


 ――プライベート?


「だからコレだってことよ」


 そう言って親指を立てた。まさか。なんであんな男が。僕の心臓が不規則に脈を打つ。


「あずささん、嬉しそうにも照れてるようにも見えなかったですけど。相手も横柄そうだし」


 すると唯さんはわざとらしく大きくため息をついてから説明し始めた。


「あの人、佐竹さんねぇ、ちょっとばかし横柄だけど、ここいらの地主の息子なもんだからいい物件なのよ。結婚したら安泰だべな。


 あたしなんて旦那の稼ぎが大したことねっから、共働きで何とかやりくりしてっけど。見初められたあずさちゃんが羨ましいわぁ」


 そこで職人(仮)のお兄さんが机上を闊歩する黒猫を除けて身を寄せ、会話に割り込んでくる。


「ここいらでは土地持ちが力あっから、オラたちもだいぶ世話になってるんだ。まあ、佐竹さんと悪い関係になったらここでは生きていけねえべな」


 小さな町だから皆、事情を承知しているのだろう。そして、あけっぴろげに話すのは隠すことができない地域の特性なのかもしれない。


「近々、返事するんじゃねぇべか。そしたらこの職場ともおさらばだな。だから最近は、光之みつゆきも営業回りにさせてんだ」


 今日は若い男の子の姿がないと思ったら、あずささんの代わりの営業らしい。仕事の後継を考えているとすると、かなり現実味のある話だ。


 あずささんは大子の地に根づいている。この地でともに生きていく相手を見つけることがあずささんの幸せならばそれでよいのだろう。


 そう、理屈の上ではそれでよい、はずだ。


 けれども昨日の営業回りの一日でわかったことがある。あずささんは間違いなく、地域の人々と触れ合うこの仕事が好きなのだ。


 しかも、あずささんが買って出ている営業は、あの横柄な男と結婚して続けられるような生半可なものではない。


 そしてそれ以上に、あずささんが昨晩見せてくれた星空の瞬きのような笑顔を、どうしても他の誰かに奪われたくはなかったのだ。


 よそ者の僕にそんなわがままを言う権利がないのは分かっているのに。


 胸に重くのしかかっていた嫌な感覚は鋭い楔のように質を変え僕の胸元へじりじりと食い込んでいく。抗えない圧迫感を伴いひどく息苦しくなる。


 思い詰めていると、支店長は僕が接客に失敗したことを悔いていると思ったようで、膝の上に乗ってきた黒猫を撫でながら穏やかに慰めてきた。


「まっ、本社さんには関係ねえがら気に病むことはなかっぺよ。佐竹さんの機嫌は今頃あずさが取り直してくれてるんじゃねえのけ」


 続いて職人(仮)のお兄さんが背後から僕の両肩に手のひらを乗せ肩を揉み始めた。リラックスしなよという意味らしい。


「そう気を遣わんでもえがっぺよ。飲んで忘れるべ。なんせ今夜は本社さんの歓迎会だかんな」


「歓迎会……?」


「んだ。店は取ってあっからよ」


 どうやら僕は一応、歓迎されているらしい。皆の配慮にとりあえず笑顔で返事をしたけれど、あずささんのことが気になって仕方ない。


 ――あずささんがあずささんらしく仕事を続けることはできないだろうか。


 そのとき、僕の脳裏で落雷のようなひらめきが起きた。


 ――そうだ、この手があった。


 僕が思いついたのは、当面の間、あの男が迫っている求婚の返事を先延ばしにできる方法だ。


 それも、部外者である僕にしかできないことだ。


 ――あずささんさえ納得してくれれば。


 そう思った僕は今夜早々、作戦を実行することを決意したのだ――。


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