【決意・1】

 あの日から毎晩、夢にうなされている。


 正確に言えば夢ではないのだろう、まどろみに落ちていく途中で、あの日の出来事が鮮明に蘇るのだ。


 不幸の死神は、どこから僕の首を狙っているか知れたものではなかった。


「久下本さん、今夜お暇ですかぁ?」


 声をかけてきたのは会社のエントランスで受付嬢をしている三人の女子だった。


 全員、ちゃんと目を合わせて会釈をしてくれる礼儀正しい子たちだったから好感は持てたが、今思えば男の品定めの意味もあったのだろう。


 意匠を凝らした化粧ときらびやかな装飾品は、なにも会社のためではないようだ。


 声をかけられた時の彼女たちの立ち位置、つまり僕との物理的な距離は不自然に均一だった。スタートラインで構えるランナーのようでもあり、フライングはご法度という雰囲気が見て取れた。僕は面白くなってつい吹き出し、二回返事で誘いを承諾した。そして同僚を連れて行くと約束した。


 同僚の食いつきは今、思い返してもすこぶる良かった。彼女たちは密かに人気があったのか、ふたりの定員枠は取り合いとなりすぐに埋まった。


 僕が幹事になったので、お店は眺めのよい高層ビルのレストランで、イタリアンにした。なるべく公平に会話を繰り広げ、時間通り一次会でお開きになった。あとは自由にやってくれ、と心の中では思っていたが、どうやらひとり、抜け駆けがいたようだ。


 ふたつ折りにしたメモ紙を僕のポケットに忍び込ませ、一瞬だけ視線を合わせてチャーミングな笑顔をみせた。皆がいる中で誰にも気づかれないようにそうしたことは、あざとさよりも、むしろ勇気と評価したいくらいだ。


 恋愛には相手を尊敬する気持ちが必要だと聞いたことがあるが、この勇気は尊敬に値するだろうか。ただ、恋愛よりもずっと手前の、淡い期待を抱かされたのは確かだった。


 だから僕は、その心中にある温度が知りたくて、自ら誘いに乗ってみることにした。


 腕時計の針は十時をまわっている。駅では電車から降りる人もまばらで、街は静寂の訪れを迎え入れているようだった。


 誘われるのはだいたい、夜の時間だ。夜目遠目傘のうちというから、暗闇は相手を美人に思わせるのかもしれないし、夜の静寂は下心を隠す効果があるのかもしれない。いずれにせよ女子にとっては都合が良いのだろう。


 歓迎会の店から少し離れた公園の、外套の下で彼女は待っていた。スポットライトに照らされたアイドルのように、立ち姿で自己主張している。


 僕は彼女を見つけると同時に笑顔を作り足早に駆け寄る。そして、暗闇でよく見えなかった段差に少しつまずきよろけた。転ぶ程ではなかったが、はずみで靴紐が片方、解けた。


 自分の足元に目を向けると、彼女の視線も同じ場所を指した。彼女ははっとして、すかさず僕の足元にしゃがみ込む。


 彼女は今、靴紐が解けていることに気づいたと同時に、最大の点数稼ぎを思いついたようだ。自分のしおらしさ、服従心のようなものを目に見える形にして、意中の男性に表現できる、と。


 案の定、公園の砂で膝が汚れるのも気にせずに、解けた靴紐を縛ってくれたのだ。


「これで大丈夫です」


 しゃがみ込んだまま上目遣いで目配せする。やまとなでしこのアピール感満載だ。


「ありがとう、君は素敵な子だね」


 その僕の一言に彼女は満足そうな笑みを浮かべた。


 そんなはじまりはけっして悪いものではなかったはずだった。


 けれど笑顔の裏には、僕を射止めたことに対する達成感と、残されたふたりに対する優越感があったことに僕は気づくはずもなかった。




 それからしばらくして、自分の所属する管理部門の課長から呼び出された。


「今度の人事なんだが……」


 僕は若手だが、実務実績からすれば、そろそろ主任の声が掛かってもおかしくはない。だから、もごもごと戸惑いを見せる課長は、昇進の連絡をもったいつけているだけかと思っていた。結構な間を置いて課長はようやっと言葉を発した。


「実はな、部長の推薦により、君に……」


 続く言葉を、僕は期待を込めて待ちわびていた。


 しかし、返ってきたのは、予想とは真逆の言葉だった。


「――提携会社『メロン工務店』の大子支社への出向を命ずる」


 ――はあ? 僕が? なんで? っていうか、それドコデスカ?


 そして転勤が決まった後の僕は、僕を誘った彼女が部長の不倫相手だったということを、一緒に参加した別の女子から聞かされたのだ。


 きっと彼女は僕をものにしたことを、あとのふたりに自慢気に語ったのだろう。そして妬みを買い、ひとりは僕に密告を、もうひとりは部長に僕のことを告げ口したのだろう。


 だから部長の推薦なんて建前で、部長は自分にとっての邪魔者をお払い箱にしたかっただけに違いない。


 課長は「ほとぼりが冷めたら呼び戻す」と言っていたから、多少なりとも事情を知っているようだった。課長の立場もあるだろうと思い反論しなかった。


 あの三人は今日も並んでエントランスに花を咲かせていたが、僕に目を合わせることはもうなかった。


 裏でどんな修羅場があったのか知らないし知りたくもないが、僕が悪者扱いされていることだけは確かだろう。僕が酷い男だということならば、彼女はとりあえず体面を保てるからだ。


 ただ単に、女の当たりどころが悪かったのだと諦めるしかなかった。


 なかったことにしたい黒歴史がひとつ、そこで出来上がったのだ。


 ★


 どこからかリズミカルな鳥の鳴き声が聞こえてきた。


 ポーポーッ ポポー ポーポーッ ポポー


 山鳩の鳴き声だ。窓から差し込む穏やかな光をまぶた越しに感じる。


 突然、ひたいに生温かくザラザラした感触があった。


「ひえっ!」


 驚いて目を開けると、相手も驚いて僕が横になっていたソファーから飛び降りた。振り向いて僕を見上げて、反抗的に「ニャー」と鳴いてみせた。


 昨日の黒い子猫だった。どうしてここに?


「おはようございます、本社さん」


 澄んだ高い声に慌てて飛び起きる。声がした方に目を向けると、あずささんが流し台でお湯を沸かしていた。壁掛け時計の指す時間は開店よりだいぶ早い。


「あっ、おはようございます。この猫、連れてきたんですか」


「はい、支店長に怒られると思ったんですけれど放っておけなくて」


 あずささんが言うには朝、昨日の天地無用事件の現場で行儀よく待っていたとのことだ。見かねて連れてきたらしい。


「本当に迷子なんですね。わたしの姿を見たら駆け寄ってきました」


 黒猫に視線を落とすと毛はもさもさで薄汚れている。のみがいるかもしれないから、一度綺麗に洗ってやらなければならない。


「この猫、僕のアパートに連れていって一緒にシャワー浴びてきます」


 昨日、僕は一日働き詰めで遅くなり、アパートの大家に会うことができなかったのだ。鍵を借りられず泊まる場所がなかったので、とりあえず事務所に泊まらせてもらった。荷物はいまだに車の後部座席に積み上げられたままだ。


「支店長に話しておきますから、午前中は引っ越しを済ませてくださいね」


「助かります。そうさせてもらいます」


「でも、できたらでいいんですけれど、わたし今日は巡回がないので、午後には戻ってきてもらえませんか、昨日の話なんですけど……」


 どきん、と心臓が跳ねた。昨夜、夜空の星の下で見たあずささんの表情を思い出したからだ。


「……できたら原稿を書きたいんです」


「へ? 原稿?」


 つい、すっとんきょうな返事をしてから思い出した。


「ああ、そうでしたね、『だいご通信』でしたっけ」


「はい、ちゃんと覚えていてくださいましたね」


 あずささんはお茶を急須に注ぎ、机の上にお茶とおにぎりをふたつ用意してくれた。おにぎりは手作りのようだ。手に取るとほんのりと温かい。梅と鮭のおにぎりで、わざわざ僕のためにこしらえて持ってきてくれたようだ。コンビニ以外のおにぎりなんて久しぶりすぎる。


「本社さんはどんな記事を考えてらっしゃるんですか」


「えーと、たとえば、その季節に見える星座にまつわる神話とか、花言葉とか、あるいは旬の食材の一風変わった料理の仕方とか」


「へぇ、面白そうですね、でもわたしでは知識はないし、頭がついていかないです」


「色々調べてみます。パソコンは持ってきましたし。ネットは繋がるんですか?」


「それは大丈夫なはず、だと思います……」


 自信なさそうな語尾から、機械の類が苦手なのだとよくわかる。


 僕はおにぎりを頬張りながら考えていた。


 もしも僕がメロン工務店に出向となった顛末を彼女に話したら、僕は同情されるだろうか。それとも軽蔑されてしまうだろうか。


 もしそのどちらだとしても、僕の人生にとってはさほど影響がないはずだ。この地にいるのは所詮、腰掛けでしかないのだから。


 だけど、おにぎりの蓄えている、ほんのりとした熱に胸が苦しくなるのはなぜだろうか。お茶で流し込んだが、胸元をじくじくと蝕むような感覚が消えずにまとわりついている。


 それから僕はあずささんの言葉に甘え、事務所を一旦離れ、車でアパートに向かった。


 アパートのそばには生活に必要な最低限の店は揃っていた。スーパーマーケット、薬局、病院、学校、カフェやレストランも。しかし、いずれも有名処のチェーン店ではなくローカルな店ばかりだ。


 アパートは簡素な1LDKで大家さんは「ここ以外はなかっぺよ」というから、社宅とは大違いだが贅沢は言えなかった。


 まずはシャワーを浴びようと風呂を覗くと、正方形で幅が狭いが深さのある、昔ながらの浴槽だった。隣にはでんと置かれた四角いクリーム色の箱があった。縦置き式の湯沸かし器だ。


 携帯用のシャンプーとリンスを用意し、黒猫を浴槽に入れ、ミギャーミギャーと嫌がるのもお構いなしにシャンプーで全身を洗う。汚れが落ちても黒猫は黒猫だったが見た目はさっぱりした。


 僕もシャワーを浴び、猫とともに体を繕い、猫を部屋に閉じ込め牛乳で騙している間に荷物を運び込む。とりあえず生活できる空間はこしらえることができた。


 最後に泥まみれのスーツをクリーニングに出してから事務所へと戻った。


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