【砂銀の空の下で・2】
★
あずささんと僕は軽バンに乗って久慈川沿いの国道を遡上していく。運転手はもちろん、道を熟知しているあずささんだ。住宅街を離れるとほどなくして森林に紛れ込み、頭上はスカイブルーと深緑の応酬となった。自然の中を縫うように流れる清流と並走する。移りゆく景色に目が慣れてきたところで僕から切りだす。
「同じ職場とは驚きましたね、あずささん」
「ええ、偶然ってあるんですね、本社さん」
面白そうに笑うあずささんに問いかける。
「今朝あった天地無用事件は、話のネタにしてなかったんですよね」
「はい。だってそんなこと知られたくないでしょうから」
誰にも言わなかったのは、どうやら彼女の気遣いらしい。軽率な子でなくて良かったと心底、安堵した。
「僕が本社からの派遣だって気づいてたんですか」
「ええ、なんとなく。車の後ろに荷物がたくさんありましたし、東京ナンバーの高そうな車ですよ。わたしが見たことない人でしたし」
「はは、それもそうですね」
「あのことはふたりだけの秘密にしておきましょうね」
そう言って僕に目配せし、人差し指を唇の前に立ててみせた。
「秘密」という魅惑的な表現と、あどけない仕草に不覚にもかすかに胸がくすぐられたが、すかさず気を取り直す。
「恩にきります。そういえば、あずささんの仕事って営業中心なんですか」
「はい、わたしが好きでやっているんです」
すると稲刈り用のコンバインが向かいの道路をのんびりとこちらに向かって走行してきた。あずささんは車の速度を落として窓を開けると、顔と手を出しすれ違うコンバインに向かって手を振る。
「稲田さーん、これから稲刈りですかぁー」
「おー、あずさちゃん、見回りだっぺかぁ、ご苦労さん!」
「はーい、いつものポストに入れておきますねー」
そう言ってコンバインを見送ってから再び車を進めた。
「知り合いなんですね」
「だから言ったじゃないですか、みんなそうですって」
「まさか」
「そのまさかですよ」
茨城の北西端にある久慈郡大子町。一郡一町のこの辺境地には、近く限界集落となってしまう場所も多く点在していた。
人口密度が低い分、営業で網羅する範囲は広く、遠方の集落まで足を運ぶのがあずささんの日課だという。
「さっき言っていた、ポストに入れておくって、何かの配達もしてるんですか?」
「あ、はい、後ろのそれなんです」
あずささんは前を向いたまま後部座席を指差す。その方向には、事務所であずささんが抱えていたダンボール箱のひとつがあった。
「これなんですか」
「開けてみてもいいですよ」
そう言われたので箱の蓋を開くと、中には同じ大きさの薄茶色をした封筒がぎっしりと詰められていた。
「これ、お手紙ですか」
「はい、『だいご通信』といって、皆さんにお配りするお便りを書いているんです。新商品の案内やキャンペーン、それにスタッフの挨拶などです」
いわゆるお店の広告のようなものらしい。自前で作り配達しているのは経費削減のためだろうか。
「効率悪そうですね、お知らせのメールとかなら一瞬ですけど」
「うーん、パソコンやってるご老人は、ここにはほとんどいないです。携帯電話の電波も怪しいし。だいたい、わたしがパソコン苦手すぎるので……」
なんてことだ、僕はいつの時代に遡ってしまったのだろうか。確かに事務所には支店長のデスクの上に一台、パソコンを見かけただけで他のスタッフの机上は紙だらけだった。
するとあずささんは急に思いつめたような顔になる。
「……でも最近、本当に困ってるんです。読んでいただいてる方が楽しめているのかって。ありきたりになってしまって、なんだか面白みがなくて……」
「そうですか。それだと読まないで捨てちゃう人も多そうですね」
ネタが不足してるということか。調べればいくらでもありそうなものだが。
そこでひらめいた。
「それならインターネットで検索して、目から鱗の
そういった瞬間、急ブレーキがかかり、僕は前につんのめった。
どうしたことかと思い、慌ててあずささんの方を向くと、目を見開き驚いた顔で僕を正視していた。
「本当ですか? 本当に手伝ってもらえますか?」
「仕事ないですし、それくらい別にいいですけど……」
「あっ、ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げたあずささんは、意外なくらいに興奮していた。
「じゃあさっそく、明日からお願いします!
今日は多分遅くなると思うので」
そう言って車を急発進させた。
それから、あずささんはひとつひとつの住宅の前で車を停め、必ず呼び鈴を鳴らし、会って簡単な立ち話をしつつ、封筒を手渡ししていた。手には必ずボードを持っていて、時折、何かを書き込んでいる。僕はその様子を遠巻きに見ていた。戻ってきたところで尋ねる。
「そのボード、何書いていたんですか」
「ふふっ、皆さんの困っているところですよ」
どうやらあずささんは、お便りを配ると同時に住まいの相談に乗り、仕事を持ち帰るスタイルらしい。
この町の住人は皆、あずささんを慕っているようで、住民は惜しみない笑顔で彼女を迎えていた。
反面、僕が隣にいると、「どこの馬の骨かしらねっぺよ」と、露骨に怪訝そうな態度を取られたし、「あずさちゃんを連れて行かんでくれよ」と釘を刺してくる顧客も少なくなかった。
そういった相手には「連れていかないです」と遠慮がちに返事をする。大袈裟に断ると、それはそれであずささんに失礼だ。当の本人は軽く聞き流しているようだったが。
山に近づくと道の傾斜が際立って、足の蓄積疲労が馬鹿にならなくなってくる。しかも、革靴だからなおさらだった。あずささんがスニーカーを履いていた理由もよくわかった。今度から営業はカジュアルな格好にしなければいけなさそうだ。
結局、夕暮れが訪れる頃には百軒ほどの家を回っていて、僕はすっかりグロッキーになっていた。これは相当にきつい仕事だ、さっそく参りそうだった。
「慣れない仕事で大変だったでしょう」
あずささんは僕に気を遣ってそういうが、男のプライドで弱音はそう簡単には吐けない。
「まあ、多少は疲れました。数日で慣れると思いますけど」
僕は本社ではサーバにアクセスし、数万件に及ぶ顧客情報を管理していた。住所、氏名、家族構成といった個人情報に加え、注文内容、リピート率、はたまた支払いの迅速さなど、情報のすべてがデータベース化されている。
だが、その中で僕が顔を知る客はひとりもいない。
今日一日、目にしてきた顧客の笑顔を思い浮かべ、仕事とは何なのか、商売とは何なのかと考えずにはいられなかった。
疲労困憊の僕に、あずささんはさらに提案する。
「そうだ、余裕があるなら、ちょっとだけ立ち寄って欲しいところがあるんです」
内心はもう勘弁してほしいと思ったが、そう言い出せずにいた。帰りは僕が運転しようと考えていたが、黙っている代わりにあずささんの希望を聞くことにした。
「どこに寄るんですか」
「ふふっ、わたしの好きな場所なんですよ」
――好きな場所?
「明日からお便りを書くの、手伝ってもらうお礼のつもりです」
あずささんはそう言って、悪戯っぽい笑顔を浮かべてみせた。
★
一面ガラス張りの本社オフィスから見下ろした高速道路は夜、ライトを照らした車が列をなしている。
五時十五分。ジャンクションの手前では決まってその時間に渋滞が始まる。
渋滞に到達する車は皆、ハザードランプを点灯させ、後続車にスピードを落とすことを知らせている。東京のドライバーはおおむね運転が上品で、そういった意思疎通の気遣いがきちんとなされている。
堅苦しい世界なだけに、ルールを守らなければ交通機関は不具合をきたすことを皆、わかっているからだ。
そして秋が深まり、その時間がちょうど夕間暮れとなる頃、オフィスから見下ろすハザードランプはひときわ眩しいイルミネーションとなる。野球のスタジアムで目にするウェーブのように、点滅するオレンジのライトが流れてゆくさまは幾何学的で芸術のようだ。
僕は人工的な風景を美しいと思う、そんな類の人間だ。
「本社さん、ここなんです。絶景ポイント!」
すっかり陽が暮れ、街灯の明かりひとつない山道は漆黒に包まれていた。営業回りをしてきた帰り、道沿いにはあたりを一望できる高台があった。
とはいっても、この閑散とした地はきらびやかなネオンサインとはまるで無縁だ。むしろ、人工の灯りに乏しい町だからこそ見れる光景があるという。
あずささんは車を高台に停め、「目を閉じてもらえませんか」とおだやかに言った。助手席の僕は黙って従う。
車の扉が開き腕がそっと掴まれる。手を引かれるまま車を降り、数歩、歩んだところで止められた。辺りにはしっとりとした草木の匂いが広がっている。
「わたし、ここで思いっきり深呼吸するのが好きなんですよ。今日一日、よく働いたなあって。少しはみんなの役に立てたのかなって思って」
目を開けて、と言われたので瞼を開くと、僕は崖の上に突き出した高台の端に立っていた。足元は吸い込まれそうな漆黒の世界で、まるで空中庭園にいるようだ。
あずささんは夜空を見上げて、かすかに微笑んでいた。まるで恋人と待ち合わせた乙女のようでもあった。
僕は彼女の視線を追いかけ天を仰ぐ。
そして、目にした光景に息を呑んだ。
無数の星屑が夜に燃えていたのだ。
それまで僕は、「星降る夜」なんてものは言葉上の表現でしかないと思っていた。
星が地上に落ちることなんてない。時折、流れ星を目にすることもあるが、たいていは空中で燃え尽きるらしい。
でも、確かにこの地には燃えるように眩い星が降り注いでいた。惜しげもなく天空一面に撒き散らされた銀色の星屑は地平線まで続いていて、空と大地の距離など無きに等しいものに思えた。僕は無意識に星に向かって手を伸ばしていた。
無限の宇宙が、僕を迎えているような気さえしてしまう。
「砂銀」、ふいにそんな言葉が浮かんだ。
夜空は神様のためのキャンバスで、神様は銀の砂を惜しみなくキャンパスに散りばめ、真の美しさのなんたるかを僕に問いただしているようにも思えた。
「……神様って、センスいいんですね」
言葉が喉でつかえ、そういうのが精一杯だった。
「はい、いつもわたしにたくさん、幸せをプレゼントしてくれるんです」
聖歌のように清い音色の声だった。僕があずささんに振り向くと、彼女の大きな瞳は広がる世界の瞬きを映し込んでいた。
心臓がぎゅっと握られるような美しさだ。
世界に調和している、主張のない美がただそこにあった。
壮大な夜に溶けこむ彼女の神秘性を目の当たりにして、麻酔をかけられたように全身がじんと痺れる。
ああ、このひとは遥かかなたの星屑のようだ。
僕なんかがどんなに手を伸ばしても、触れることのできない場所にいる人なんだ。
僕の心を奪うこの不思議な感覚は、心地よい陶酔であると同時に、掴めないうつくしさに対する憧憬でもあった。
――僕は今まで、なんてひどい思い違いをしていたのだろうか。人工的な造形しか見てこなかった自分の美学は、ただのまがい物にすぎなかったのだ。
けれどもこのときの自虐的な自覚は、二十七年間の人生の中で味わう、最も甘美な苦痛のほんのひとかけらにしか過ぎなかった。
僕はこのとき、確かに、本当の恋というものを知ったのだ。
いや、思い知らされたのだ――。
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