【砂銀の空の下で・1】

「とんだ災難でしたね」


 彼女は立ち上がると早足で車に戻り、タオルを一枚持ち出してきた。


「これしかないんですけれど」


 そう言ってズボンが汚れるのも構わず、僕の目の前の雑草を座布団にして正座をし、タオルで僕の顔を拭こうとした。


「別にいいですよ。自分で拭きますから」


 と断ったにも関わらず、彼女は見開いた両眼を近づけ、丁寧に僕の頭と顔にかかった泥水を拭き取り始めた。


 親切さにお礼を言うべきか、馴れ馴れしいと拒否するべきか、それとも男性に対して警戒心がなさすぎると戒めるべきか。


 逡巡したが結局、当たり前のようにそうする彼女の態度に、僕は借りてきた猫になって従った。


「あら、良い顔立ちの方なんですね」


 泥水を拭き取りながら突然、そんな風に言われて驚いた。


 イケメン、というありふれた表現は、下心を隠しつつ相手をおだてるには便利なようで、あざとい女性が頻用していた。もちろん、褒める対象が本当にイケメンでなくても使われることがある。その表現を人一倍多く耳にした僕にとっては、あなたは丁度いいアクセサリーなのよと言われているような言葉だった。


 だから彼女のいう「良い顔立ち」という表現は、古典的でありながら新鮮にも思えた。僕は自分が褒められたことではなく、彼女の淀みない率直さに驚いたのだ。


「フミャア……」


 僕の隣では子猫が雑草の中でうずくまり震えていた。黒いから目立たないが泥水まみれだ。


「僕はもういいので、こいつを拭いてもらえないですか」


「あ、ほんとだ、寒そう」


 気づいた彼女は子猫のお腹に手を回すと優しく持ち上げ、タオルで体を包み、僕にしたのと同じように丁寧に泥水を拭き取る。


 その間に車に戻り、朝食に携えていたチキンサンドを持ち出し、パンに挟まれたチキンをつまみ上げる。すっかり泥水を拭き取られ毛が膨らんだ子猫の前に落とす。


 子猫は僕を見上げて「いいの?」と尋ねたような顔をしてから背中を丸くし、それから一心不乱に食べ始めた。


「お腹すいてたんだろうな」


「優しい方なんですね。ご自身の朝ごはんでは?」


「いえ、いいんです。僕は食欲がなくなってしまったもので」


「あら、どこか調子が悪いんですか」


 心配そうに僕の顔をのぞき込む。つくづく赤の他人に見せる態度とは思えない。


「いや、ただ……」


 顔を逸らし辺りを見回すと、一面は黄金色の稲穂が広がる田園で、遠くにはかすかに色づいた山々が仲良く肩を並べていた。青と白だけの空はあまりにも広い。ところどころに一軒家が見えたが、ビルも、ショッピングモールも、コンビニさえもここでは見当たらない。


 がらんどうとした空間が、こんなにも人を不安にさせるものだとは知らなかった。住処を失ったヤドカリの気持ちがよくわかる。異世界と呼んでも差し支えないほどの環境の違いに、僕の食欲はすっかり失われたのだ。


「でも風邪、ひかないようにしてくださいね」


「着替えますから大丈夫です。でもこいつ、家族いるんですかね」


 この子猫は僕が風景に愕然とし車を停めた時、鳴き声が聞こえて発見に至った。辺りに仲間の気配はなかったから、童謡のごとく迷子の子猫ちゃんなのかもしれない。


「わたし、後で見に来てみます。仕事で通ると思うので……」


「今、出勤の途中だったんですか」


 彼女ははっとして口を開けた。


「あっそうだ、仕事遅くなっちゃう。そろそろ行かなくちゃ」


「すみません、助けていただいたのになんのお礼もできなくて」


 僕の言葉に対し、彼女は意味ありげに微笑を浮かべて見せた。


「いえいえ、そのうちまた、お会いできると思いますよ」


 そう言い残してから、停めてあった白い軽バンに乗り込みエンジンをかける。すぐさま車は動き出し、去り際に彼女はガラス越しに小さく手を振った。


 彼女はこの田舎町の住人全員が知り合いだといった。だから再び会う機会があるということだろう。いったい、どんな仕事をしているのだろうか。


「やれやれ……」


 汚れたスーツを脱ぎ、簡単に折りたたんでビニール袋にしまい込んだ。一張羅ではないが予備のスーツは多くない。早々にクリーニングに出さなければ。


 引越しの荷物はすべて、車の後部座席に積み上げられたダンボールに詰めてある。いくつか開けて中身を確かめると別のスーツが見つかったので、とりあえずそれを引っ張り出して身にまとった。


 草むらの中からおかわりを欲しそうに見上げる黒猫に別れを告げ新しい職場へと向かう。


 ★


 田園に張り巡らされた私道をカーナビを頼りに進んでいくと、遠くからでも目立つ紅の屋根をかぶった平屋の建物があった。学校の教室ひとつ分くらいの広さだろうか、こじんまりとした建物だ。近づくと、砂利が敷き詰められた庭は広く、建物の脇にはいくつか重機が置いてあった。看板に目を向ける。


「メロン工務店 大子だいご支店」


 僕が今日から務める仕事場なのだが、勤務していた大手ハウスメーカー「グリーンホーム」の本社とは比べようもない規模だ。


 茨城県に多くの支店を持つメロン工務店は、本社と提携しているのだが、提携というのはけっして業務提携という意味ではない。


 工務店は、そこでは担いきれない大規模な仕事が舞い込んだり、地域開発の情報があった場合に速やかに本社に「献上」する役目があるのだ。


 だから提携している地域の工務店は、情報収集役としての意味が大きく、本社では諜報部隊とみなされている。


 本社には土地の買収から建築の設計および実施まで一手に引き受けるだけの人材や機動力がある。僕はその一端を担っていた、はずだった。


 その代わり経営の危機であれば本社がお情け程度の支援はおこなうし、また、僕のような派遣社員の受け皿となることもある。僕の給与は本社が支払うようだが、その額に見合うほどの貢献をすることはないのだろう。


 落ち着くまで身を潜めていれば、あの些細な問題が忘れられた頃には呼び声がかかるはずだ。だから馴れ合いなどはこの地ではもってのほかだし、この支店のスタッフだって、本社の僕を戦力としてどう扱えばよいのか困惑しているだろう。


 つまり、僕は従業員にして、ただのお客さんなのである。


「あれ、あの車……」


 ふと気になったのは、工務店の入り口脇に停めてあった白いバンの軽自動車だ。先程見た車に似ている。


 まさかここが、救世主の彼女の勤務先だったのだろうか。嫌な予感がする。


「あれ~、派遣のお兄ちゃんよねえ?」


 車から降りたと同時に声をかけてきたのは、僕より少し年上の快活そうな女性の従業員で、ちょうどエントランスを掃いている所だった。でかでかと「メロン」の刺繍が施されたエプロンを身につけていた。


 茨城県独特の語尾が上がる、強めのイントネーションは怒られたようにも感じるが、表情にネガティブな要素はなかった。僕に向かって駆け寄ってくる。


「はい、今日からお世話になります」


 軽く腰を折ると、何の躊躇もなく僕の腕を掴み、「ささ、こっちこっち」と仰々しく僕を迎え入れる。あまりの歓迎ぶりに嫌な予感が的中しているのではと思えてならない。


 僕の悪い予感とは、今朝の彼女がここの従業員で、地球の中心に向かって刺さり助けを叫んでいた僕のことを面白おかしく話していたのではないかということだ。


 僕は東京から来たと彼女に答えたし、彼女の「そのうちまた、お会いできると思いますよ」と言っていた。僕が本社から派遣された人材だと気づいていたようにも思える。


 もしそうだとすれば出鼻を挫かれた気分だ。本社のプライド、丸潰れだ。


 提携会社の、それも支店の色に馴染むつもりはなかったが、からかわれるなどもってのほかだ。あの黒猫が地獄へいざなう悪魔のように思えた。


 そして腕を引かれるままに建物の中に踏み込んだ。


 並んだ木製のデスクには数人のスタッフがいる。しかし、今朝の彼女の姿はなくとりあえず安堵した。


 奥の中央には恰幅の良い年配の男性が鎮座していた。赤ら顔に艶やかなひたいで、みなぎるエネルギーが感じられる。おそらくここの支店長だろうと雰囲気で察することができた。


「おお、きたかぁ、待ちくたびれたっぺよ」


 立ち上がり生粋の茨城弁で迎えてくれる。本社から派遣となった僕のことをどう扱うつもりなのだろうか。


「イゲメンだな、噂通りだっぺよ。やっぱ東京人はデーエヌエーが違うな」


 そう言ったのは手ぬぐいを頭に巻き、塗料のついたニッカポッカのズボンを穿いている僕と同年代の男性だ。外見は職人だが、職人が堂々と事務所のデスクに座っているなんて僕の常識ではあり得ない。


「んだな、あたしがつばつけちゃおっかな~」


 メロンエプロンの女性は、僕の左腕に馴れ馴れしく絡みついてくる。ノリの良い空気感が拒否することを許さないし、あけっぴろげの態度は紛れもなく冗談だ。諦めて受容することにした。


「おめえはだめだっぺよ、ダンナと子供泣かせるんじゃねーべよ」


「そんただことなかっぺよ。恋愛は自由だかんな」


 メロンエプロンの女性は梅干しのように顔をしわくちゃにし舌を出してみせた。職人(仮)のお兄さんは可笑しそうに口を開けて笑う。


 部屋の隅には若い男女ふたりがいて、丸めた壁紙やカーテンレールをダンボール箱にまとめているところだった。ちらちらと僕を見ながら小声で話をしている。どうやら品定めをしているようだ。


 互いのやり取りは雑然としているようでリズム感があり、矛盾が存在しない。和やかというべきか不真面目というべきか、本社とはかけ離れた辺境地の雰囲気に、どちら向きの解釈が正解なのかわからなくなる。


 戸惑いながらもまず、定型の自己紹介をする。


「はじめまして、久下本くげもと社臣ありおみと申します。入社して五年になります。しばらくお世話になります、よろしくお願いいたします」


 すると皆、いっせいに眉根を寄せた。


「くげ……あり……?」


 メロンエプロンの女性が僕の腕から離れ、まじまじと顔を覗き込む。茨城では珍しい名前なのだろう。顧客のデータベースを扱っていた僕は、たいていの名字は目にしたことがあったのだが。


「変な名前だな、覚えられねっぺよ」


 職人(仮)のお兄さんはすでにインプットを諦めたらしいが、支店長はフォローするように名前を呼びながら宙に漢字を書く。皆は対側の鏡文字から本名を推測している。


「ああー、『本』と『社』はわかったけんどよ、あとはわがんね」


 と、職人(仮)のお兄さんがぼやく。すると、呼応するように部屋の隅にいた若い女の子が声をあげた。


「じゃあ、もう『本社さん』でいいじゃん!」


「そだな」


「んだんだ」


「よかっぺよ」


 そして、締めはこともあろうに支店長だった。


「おめえさんを入れて七名だから、多数決で決まったな」


 民主主義は絶対主義ではないはずだが、雰囲気は完全に固まっていた。


 ――本社さん、か。


 別段、業務に支障がなければそれで構わなかった。立場の違いを明確にして距離を置くには都合のよい呼ばれ方だ。旧知の友人のように呼び捨てのファーストネームで呼ばれた方がよほどひっかかる。


 しかし、ふと疑問に思った。スタッフは七名と支店長は言ったが、ここにいるのは僕を合わせて六名だ。あとひとりはどこに?


 そのとき、部屋の奥まった場所にある扉が静かに開き、ダンボール箱が姿を現した。三つ、積み上がっていたから運んでいる人物の顔が見えない。三兄弟の箱は窮屈そうに扉から出てきた。


 しかし、箱の下に覗いたカーキ色のチノパンに僕は見覚えがあった。


 箱が静かに床に着地すると、ひょっこりと顔を覗かせたのは、やはり今朝会った、救世主の彼女だった。


 視線に気づいたようで僕に目を向け、はっとなった。一瞬、驚いたように目を見開き口を開きかける。


「あっ、さ……」


 彼女はそこで思いとどまった。一息ついてから柔和な顔になって会釈をする。栗色の髪がやわらかくなびいた。


「……はじめまして、グリーンホーム本社からいらした方ですね」


 その一言は、僕を心底安心させた。彼女は今朝のことを誰にも話していなかったようだ。しかも初対面のふりをしてくれた。


「そそ、『本社さん』って呼ばれたがってるっぺよ」


 職人(仮)のお兄さんはさも自分が名付けたかのように自慢げに言う。僕は否定するタイミングをむざむざと逃していた。


「『本社さん』ですか……?」


「本社さんだな」「本社さんだっぺよ」「んだ、本社さん」


 すると彼女は僕の正式な名前を聞くことなく、「分かりました、本社さんですね」と納得して目を細め、くすりと笑みをこぼした。その笑顔の向こうには、僕が用水路に突き刺さっていた姿があるに違いない。


 そこで支店長が一本締めのように手を叩き、会話に区切りをつけ、こう切り出した。


「んじゃ、早速なんだけど本社さん、みんな今忙しいから、今日はあずさについてってもらえねえか?」


「「え?」」


 疑問符の反応をしたのは、もちろん僕と、それから「あずさ」と呼ばれた今朝の彼女だった。ついていってもらえないかと支店長は言ったが、一体どこについてゆくというのだろうか。


「顔覚えてもらうってことも田舎じゃ大事なことなんだぞ、あずさからよう学んどけ」


 支店長は何を勘違いしたのか、すでに僕の上司のつもりらしい。部下が増えて興奮気味なのか赤ら顔がより色濃くなっている。


 相当によそよそしく扱われると想定していたが真逆だったようだ。この地域の人たちの距離感は掴み難い。しかもこれからの仕事は、どうやら営業回りのようだ。


 しかし、顧客の自宅を訪問するなんて僕には経験のない仕事だ。オンラインの申し込みだけで予約は飽和していたからその必要すらなかったし、現場は下請け会社に任されていたからだ。


「あずさ、それでえがっぺか?」


「あ、はい、いいですけど……」


 僕はあずささんと互いに顔を見合わせたけれど、ふたりともあけすけに困惑していたのは言うまでもなかった。


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