第2話 絶望 「アキレスは亀に追いつけない ?」

  幸運と言い、それは深い絶望から始まりました。

① 技術では関西に敵わない

  観戦開始早々、関学対早稲田戦(女子)を見た時、こう思いました。

  いくらパンチが速く・強力であっても、足腰を鍛えても技術を覚えても、それら運動能力や諸技術を、個別ではなく大きな流れとして戦うことのできる「3歳からやってます系」には及びがたい。敵の正負を逆転させるまで自己探求する練習量(時間)と、多くの公式戦の場数を踏んだお姉さま方には、こちらの長所が短所にされるという負け方をさせられるのだ、と。


◎ 関学は流れと切れで戦う

  前拳・後拳・蹴り・組み打ちの各攻撃が、単発ではなく連携した一つの流れとなっている。蹴って・打って・組んで、離れ際に打ちながら再び組んで、というように、腕・脚・腰を使った攻撃が、1(イチ) OR 0(ゼロ)というデジタルではなく、アナログ波形のような切れ目のない流れとなり、しかも、流れの順序が逆になったり、一つの流れが繰り返されたりと、デジタル的な動きにもなる。アナログ的な腰の強さとデジタル的な正確さを活かした、規則性能と突発性能を発揮している。

  これは同じ関西でも、関大や龍谷の「パワー拳法・デジタル拳法」と違い、大艦巨砲的パワーは必要としないとはいえ、圧倒的に(練習)時間と(公式戦の)場数が少ない大学開始組にとって「真似をする」のは難しい。徒(ただ)でさえ、旺盛な闘争心に肉体がついていけずにケガばかりしているのだから。


  もちろん、2019 年の府立(全日)における大阪商業大学 対 立正大学のように、東西の「アナデジ拳法」を楽しめる好カードもありました(You-Tube 「2019 全日本学生拳法選手権大会 大阪商業大学 対 立正大学」大商大新聞部撮影)。

  ただ、立正はアナログとデジタルの転換が大商大ほどうまくいっていないので、勝負としては「ほぼ完敗」となりましたが、内容的には見応えがありました。さすが、関東で一番に大学日本拳法を始めたところです。


  私自身はこの年の大商大拳法という「パワー拳法」以外のスタイルがあることを(同大新聞部による5本の映像によって)初めて知り、心中「ケンカ拳法」と呼んで(賞賛して)いました。

  関学の場合、これが更に強化・洗練され「アナデジ拳法」と呼べるほどに完成された(と私は思っています)。そして、彼らはこの「旺盛な闘争心」と「シームレスのアナデジ転換」を実現する為に、おそらく各自が、かなりの時間を下半身の強化に費やしているのではないだろうか。サンドバッグを突いたり筋トレをするというのは、多くの場合「自己満足」にしかならないが、下半身の強化は、普遍性を持つ強さを裏書きしてくれるのです。


◎ 不確定性原理への挑戦

  ただ、「集中の自由は攻撃側にある」「哀兵必○ 〇は月偏に生(両軍の力が伯仲している時、悲しみや怒りが強い方が勝つ)」といった「運用上の工夫」や「精神力」といった不確定性の余地がある「系」ですから、大学開始組の持つ様々な強みを活かし、団体戦という変数をうまく利用することで、関東勢でも「決勝戦まで勝ち進む」ことができるかもしれません。

  それは、取りも直さず、彼らのアルゴリズムを理解することにあります。


  今大会で関西学院大学(男女)を決勝戦まで進ませた「アナデジ混在」というアルゴリズムは、明治・中央・関大・龍谷といったパワー拳法が主流の府立(といっても、私が知っているのはYou-Tubeで知ることのできる、ここ10年くらいのことですが)の中では、ほとんど目立たない存在であったようです。

  2020年の府立で、中央大学を3位決定戦で破った大阪商業大学の「ケンカ拳法」に、私は興味を覚えましたが、あの時の大商大拳法こそ、今大会における関学拳法と同系列であると言えるでしょう。

  大商大拳法とは、今大会における関学ほど積極的に組んでいくことはないが、粘り強く組み打ちに耐えながら、パンチ主流の自分の拳法へつなげていくネチっこさという基本は同じです。

  アナログとデジタルのシームレス(縫い目や継ぎ目がないこと)な連関をコントロールする強力な精神力を見せてくれた2019年府立(全日)における大商大の躍進(3位入賞)は、アメリカ軍による力づくの物量作戦に打ち勝った(1975年)、泥臭い戦い方のベトコン・ゲリラのような趣(おもむき)がありました。

  別の例えで言えば、明治・中央・関大・龍谷のパワー拳法とは、パソコン世界で主流を占めるWindows OSであり、一方、大商大や関学のアナデジ混在拳法とは、少数派のLinux OSという位置づけになるのでしょうか。それは、40年前に主流であったモトローラ系のマイクロプロセッサーと、当時はマイナーでしたが、現在は完全に独占状態にあるインテルのマイクロプロセッサーのアーキテクチャー(設計思想)の違いに由来します。

  「インテル」では、CPUの処理スピードの速さと膨大な量の実装メモリーを使い、ブンブン振り回すような、ちから任せの処理をする(メモリーを食うし電気代もかかる)のですが、「モトローラ」の場合、仮想メモリー(ハードディスク上に一時的なメモリー領域を作る)とOSによるパラレル処理によって、実装メモリーが小さくても大きなプログラムを走らせることができる、という特徴がありました。昔の「インテル」は、よく「落ちた」のですが、モトローラのCPUは、ディスクにアクセスする分、多少時間がかかりますが安定していました。


  今回わたしが目撃した関学の拳法とは、ハードディスク領域に(物理的)メモリー空間を作り出す(仮想メモリー)ことで大きなプログラムを作動させて大量のデータを処理するという、モトローラのアーキテクチャを連想させます。関学はインテル的なるパワー拳法に対し「物理的な実処理が行える仮想空間」を生み出す(「五輪書」かげをうごかす・かげをおさゆる)ことにより、パワー拳法との戦いに勝ち抜き決勝戦に進んできた(?)。

  その意味で、関学のアーキテクチャとアルゴリズムは、いま流行りのバーチャル・リアリティ(仮想という名の夢想)ではなく、現実的な問題解決を可能にする「スーパー・バーチャル・リアリティ」と言えるのかもしれません。


  では一体、この強力なアーキテクチャー(基本設計思想)とアルゴリズム(問題解決手法)が、なぜ中央との決勝戦で敗れたのか。

  それは、決勝戦・次鋒の戦いに答えが出ています。

  すなわち、このアナデジ・アルゴリズムが生み出す圧倒的な物理的迫力・心理的圧力によって、中央大学の次鋒は一旦は押し込まれますが「あらたなる」(「五輪書」)、「つかを放す」によって冷静になり、「景気を知り」(同)、「けんを踏む」(同)ことで、この強力なアルゴリズム(攻撃)を粉砕してしまいます。

  早い話が、「中央大学のアーキテクチャー」由来の抜き胴・引き面突きというアルゴリズムが、関学のアナログ・デジタルの交互転換を遮断してしまったのです。

 こうなると、ごく普通のデジタル拳法ですから、力と力、技術と技術という単調な戦いとなり、アナデジ混在のメリットがなくなり、関学の弐段は弐段の拳法しかできなくなり、中大の参段に常識通り敗れてしまいます。

  今大会、関学対明大戦(男子)で、明治の三将(参段)は関学(弐段)のアルゴリズムに完全に巻き込まれ、サンドバッグのようにボロボロにされたのとは対照的でした。さすが東京は西の外れ、八王子の山奥にある中央大学、猪突猛進イノシシ相手の成果が出た、といえるでしょう。

  或いは、関学の「アナデジ機能」という「相手に先を取らせないように封じてしまう(枕を押さえる、けんを踏む)」という攻撃アルゴリズムが、中大のワイルド・スピリッツという「精神力」と、中大伝統の引き胴という「技術」によって無力化されてしまった為、とも言えます。

  もっと簡単に言えば「先の先を取るための先」という関学のアルゴリズムを「その手は桑名の焼きハマグリ」と、中大が無視し自分の拳法で押し切った、ということでしょうか。


  関東の(大学開始組の)ストレート拳法は、練習時間や場数(公式戦の経験)が圧倒的に不足しているが故に、どうしても「点で戦う」ことになる。

  しかし、各校・各試合の勝ち負けに関係ない立場という完全部外者(只の通りすがり)の私にしてみれば、それはそれで、「わかりやすい」という意味で大いに楽しめるのです。

  アーキテクチャーだのアルゴリズムだのと煩雑なことを考えることなく、彼や彼女たちの真摯で直線的な戦いぶりを通して、彼らの(精神的な)生き様・学生ライフが、一度は通過したことのある私の胸にも彷彿としてきて、薄汚れた自分の心が浄化されるような爽快感を味わえるからです。ミルクも砂糖も入っていない、ストレート・ブラック・コーヒーの味わいといえるかもしれません。

  さて、技術がダメなら根性(ガッツ)か、というと。


② 技術と経験由来の強烈なガッツ、というか自信(前へ出れば絶対に勝てる、という確信)にも圧倒される。

  関学男子の場合、かなり足腰を鍛えているようです。

  パワー拳法指向の大学は、筋力をつけるトレーニング主体のようですが、関学の場合、とにかく基礎体力としての足腰のパワーを強化することを重視しているのではないだろうか。だから、自分よりも身体の大きい選手に対しても、ガンガン積極的に組んでいくことができる。

  これは関東の大学開始組にとって、大いに参考とすべきことでしょう。

  4年間筋トレやって肉体美を誇るなんてバカらしいことです(ボディビル部じゃないんですから)。現実にケンカで勝てるガッツと(基礎)体力、又、殴られるにしても前へ出て殴られるという「殴られ方」を4年間鍛えなければ「日本拳法やってました」とは言えない(と、あくまでも個人的に私は思います)。

  今大会、関学対明治での三将戦、明治はボコボコにされていましたが、彼は「前へ出て殴られる」という経験というか鍛錬をしていなかったので「ボコボコ」に見える殴られ方をしていた。もし、あの殴られ方で、この試合の大将戦「明治の木村」が関学の大将に放った強烈な一撃を受けていたら、明治の三将は〇んでいたかもしれません。

  関学の大将はあの強烈な面突きを前向きに受けたからこそ、軽度の脳震盪でまだ済んだのではないでしょうか。それくらい、前向きにパンチを受けるのと後ろに下がって受けるのとでは衝撃が違うし、打たれる側の心理的にも大きな落差が生じるのです。

 「明治の木村」は、あの関学対象への強烈なパンチを、彼の仲間たちに日々の練習で打ち込んでおくべきだったかもしれません。 



  更に関西系大学・関西学院大学は、

③ 緩急自在の心(戦いにメリハリを作り出すことで自分のペースにする)で戦う

  関学女子の皆さんは、入場行進しているあいだ、観客席に手を振ったりして「完全にリラックス」状態。「いっつも真面目」の関東人と違いメリハリのあるのが関西人、ということなのでしょうか。

  なんでこうもハイテンションなのか羨ましいくらいですが、そこはみなさん武道家、チャラチャラ歩いていても、竹の節のように、試合コートに入る時はきちっと礼をし、試合中でも締めるところは締め、決めるところはきちっと決めている。彼女たちは、今年7月3日の全国大学選抜選手権の時も、こんな楽しいノリで優勝したのではなかったか。

  今大会でも、決勝戦で入場の時はキャピキャピしていたのに、優勝して校歌斉唱の時は顔をくしゃくしゃにして泣いていて、このメリハリに私は感激しました。


  ところが、実はこの緩急(かんきゅう:ゆるめたりひきしめたり)こそが、関西学院大学日本拳法部もしくは関西日本拳法の強さの秘密(のひとつ)である、ということに今回気づきました。

  ○ 関学女子の場合は「お気楽さ」と真剣勝負という緩急自在の力

  ○ 関学男子の場合、3分間の試合時間中、火急(火が燃え広がるように急なこと)の勢いで、ほぼ攻撃しっぱなしに見えますが、ミクロの目で見ると、アナログ(緩)で入って崩し、デジタル(急)で決める。「先に拳を打つ」のでなくても「下から組み付いて相手の体勢を崩すという先」を取り、それを面突きなどへつなげていく。

  組みで一本も狙っているのでしょうが、緩急のリズムで相手の肉体的及び精神的なバランスを崩し、組み・打ち・蹴りの一本を取り易くするという攻撃思想(アーキテクチャー)。

  こうして、振り子のように緩(アナログ) ←→ 急(デジタル)を繰り返しながら、自分の(拳法スタイル)ペースに巻き込んでいくというアルゴリズム。アナログの持つ腰の強さとデジタルの特性である切れの良さこそが、関西学院大学のアルゴリズムというかスクールカラーなのかもしれません。


  今大会、関学対明治戦(男子)での三将戦。明治の三将(参段)は2年前から受け身スタイルの選手でしたが、そういう人だからこそ、緩急自在の関学の選手(弐段)に翻弄されてしまったのか。受け身の人というのは「取り込まれ易い」のでしょう。


  とにかく、①技術でも②気迫でも③お気楽さ(神の目線)でも、関西のお姉さま方に追いつくことは不可能である、という深い絶望が今大会観戦の端緒にあったのです。

  また、決勝戦で中央大学に敗れた関学男子(7人中4人が弐段)にしても、マシンガンのような連続技に見る、人間の考える法域を越えた「神の目線」的な精神の自由さ・大きさを感じさせてくれましたが、これもまた、一朝一夕では追いつけそうにありません。


◎ 中大勝利の二大要因

  私の遠い思い出ともつながるのですが、今大会決勝戦の流れを決めたのは、次鋒戦ではないかと思います。

  関学次鋒の「あまりにも日本拳法的」なる、何でもありの連続技・どうやっても勝とうという気迫・食いついたら離れないという強烈な執着心。

  それに対し、これこそ、40年前の私が(先鋒戦で)体験した(一本取られた)中央伝統の「引き胴」が、ここで見事に復活しました。それはまるで、突進してくる獰猛な灰色熊を、遠距離から猟銃で仕留めるのではなく、至近距離まで引き寄せ・引きつけ、襲いかかるそのホンの一瞬前に短銃(ピストル)のズドンという一発で撃ち倒す、という趣(おもむき)があります。これがアルゴリズムとして復活してきたところに、今回中央の、一つの勝因があったといえるのではないでしょうか。


  中央も明治も、突き詰めれば、選手ほぼ全員が関西人であり、背負っている看板が関東の大学というだけですが、それはそれとして楽しめました。

  「明治の木村」は、いかにも明治らしい骨太拳法で彼ら明治の最後を強力に締めくくりました。


  「中央の横井」は、関東一のコンサーバティブな気風であった中大日本拳法部に、ワイルドさという、中大が求めていた気風を持ち込んだかのようです。

  特に、今大会決勝戦における「中央の横井」は、他の6人の試合中、一人で飛んだり跳ねたり大声で声援を送ったりして(準決勝戦では主審に注意を受けたほどでしたが)、仲間を勇気づけ・元気づけ、2019年7月の全国大学選抜選手権で龍谷大学を破り、優勝した時と同じワイルドさで、関学の「ケンカ拳法」を押し返しました。(こういう試合コート外の様子は、ビデオ映像で捉えることができない、まさに生観戦のメリットでした。)

  彼が自分1人でワイルドになったのではなく、他の選手たち全員のワイルドさ(かなり強引に前へ出て打つ闘争心)を引き出した、という点に(穏健派中大にとっての)大きな意義と、(今大会、あの明治でさえ蹴散らされた、モンゴルの騎馬軍団のような関学の迫力を打ち消すという)価値があったのではないでしょうか。(2020年府立・全日での準々決勝戦では、大商大の「前へ出る拳法」に押し切られた形の中大でしたが。)

  彼自身は、決勝戦における大将戦、関学に一本先行されましたが、後手で取った2本の内、特に2本目は、いかにもこの人らしい「15年の重み」が出た素晴らしい一撃でした。こんな攻撃は大学開始組にとっては絶望的といえるかもしれません。腕力だけのパンチということではなく、場と間合いとタイミングにピタリとはまった、身体全体で打つ面突きとは、4年間では醸造し難い日本拳法の奥深さを痛感(絶望)させられますが、それは又、日本拳法をやる者にとっての誇りでもあるのです。

  大学日本拳法における「時間と場数」を象徴する、今大会の秀美(終美)を飾る面突きでした。

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