エピローグ その1

 ――それから、約半年の時が過ぎた。

 アキラは今も日本で暮らしていて、神明学園の寮で生活している。


 とはいえ、それも今だけの話で、既に退寮と退学の手続きも済ませていた。

 随分と長引いてしまったのは、引き止めてくれた友人や、実家関係の事もある。

 だが一番の理由は、身辺整理の為だった。


 二度と日本の土を踏まないというつもりもないので、色々と残しておくもの、片付けるものを整理しておく必要がある。

 即時退学は考えていなかったので、学生としての本分を真っ当していたら、準備も遅々として進まず、多くの時間が掛かってしまった。


 だが、時間が掛かるのは別に問題ではなかった。

 なにしろ、デイアートという異世界への扉は、原則として一年に二度しか開かない。

 それもデイアート側から開ける事になる性質上、取り決め以外で開く事は推奨されない、という約定が組み交わされていた。


 火急の用事や、危機的状況を報せる訳でない限り、それが最善として、気ままに孔を開く事はしないと決めたらしい。

 それはやはり、孔に対する国民感情というものに配慮した結果でもある。

 そして万が一、鬼による侵略などがあったなら――取り決め日以外に孔の気配があったなら、それが悪意あって開かれたものと構える事も出来る。


 そういった、謂わば防衛措置的な役割を持たせる意味でも、孔を開く日は厳粛に決定されたのだ。

 そしてアキラは、その日に向けて準備していたし、その日から生活の基盤をデイアートに移すつもりでいた。


 今日は一年に二度しか無い孔の開く日――開孔日であり、そして同時に孔の向こうから来る客人を迎える日でもある。

 その為に持て成す準備が、今や順調に進められている筈だった。


 戦勝記念日は別にあり、その時改めて祝われる予定だが、いずれにしても正式な形で開かれる孔だ。

 この際に、当時共に戦った勇士たちを招けないか、という発案が実った形だった。


 だから誰もが敬意ある客人として遇するつもりだし、この際に楽しんで貰いたいと思っている。

 だが、それはそれとして、オミカゲ様の千年に渡る戦い、その終止符を打った戦いは国民の知るところになった。


 無論、詳しく一部始終を知られた訳ではない。

 一時の間、結界が破れた事によってオミカゲ様の戦う姿が明らかになった事で、それが知られると共に憶測も多く広がった。


 動画も多種多様に出回ったし、ミレイユによる――それをオミカゲ様と誤認する人もまた多いが――無辜の民を助けたい、という言葉は衝撃の光景と共に、全世界へ知れ渡ったのだ。


 巨人の出現、大規模な爆発も目撃されており、そこに神による戦いがあったのは明らかだった。

 しかし、神宮や御影本庁はカバーストーリーを仕立て、それらしい説明をしていたので、実際の真相は闇の中だ。


 オミカゲ様の鬼退治、それに乗っかった形なのだが、詳しい事は結局何一つ伝えていない。

 ただ、そこに壮絶な何かがあった事だけは理解していて、オミカゲ様が奮戦していた事実だけは共通している認識だった。


 実は日本が侵略を受けていて、それを陰ながら護っていた事など知らずにいた方が良い、というのがオミカゲ様の方針だった。

 御由緒家や神宮もそれを受け入れ、だから誰もが口を閉ざす。


 噂話ばかりが先行し、都市伝説まで生まれる始末だが、好きにさせるつもりのようだ。

 アキラもまた、知らずにいるのが最善だと思っている。


 その様に物思いに耽っていると、自室の扉を叩く音がして開けると、そこには凱人が立っていた。

 少し視線をずらせば、そこには漣の姿も見える。


「あぁ、もう準備済んでるみたいだな。すぐに行けるか?」

「うん、大丈夫。行こうか」


 部屋から出ながら、アキラは頷く。

 既に正装へ着替えていて、いつでも出発できる準備が万端整っていた。


 異世界からの客人とはアキラも縁が深く、そして御由緒家の末席に連なる者として、この歓迎パーティに参加しない訳にはいかない。

 本格的な式典はまた別の日になる予定だが、かの勇士達を饗す為の食事会は本日行われる。


 式典当日となると、あちら側の権力者なども来賓として招かれるらしい。

 そちらには参加しない、いち兵士として戦ってくれた者達を歓迎する食事会であり、こちらは礼儀などを気にしない気楽なものだ。


 粗野な冒険者などは式典に参加したくないし、美味しい食べ物や酒を飲んで、ただ楽しんで貰う為のものだから、参加する彼らはむしろ喜んでくれるだろう。


 車に乗り込み、神宮まで行く傍ら、既に何度か交わされた会話を繰り返す。

 二人としては、アキラの意志を尊重していても、簡単に割り切れないようだ。

 それに、式典が終わればアキラは出立する。それまでのタイムリミットと思えば、言わずにはいられなかったのだろう。


「なぁ、どうしても行くのか? いや、あちらを決して悪く思うものじゃないんだが……。二つの世界を知っているアキラなら、どちらが過ごし易いとか知ってるんだろ?」

「そうだね、文明レベルで言えば、こっちの世界の方が、ずっと高いし過ごし易いよ。でも、あちらにはミレイユ様が御わすからね……」

「御子神様か……。そりゃあ、お仕えしたい気持ちは分からないでもないけどな……」


 漣が唸るように同意して、それから重く溜め息を吐く。


「それに、鬼はもうあれから一度も出てないでしょ。警戒だけは今も続けてるけど、平穏がずっと続けば隊士達のお役は御免になる筈だ」

「別に隊士の仕事は、鬼退治ばかりでもないけどな……」

「でも、大部分はそうだった。そりゃあ、頭を使ったりする仕事も、沢山あるんだろうと思うけど……」


 凱人も腕を組んだまま、大いに頷いて同意する。


「あぁ、結希乃さんとかな。……とはいえ、あの人はまぁ、その中でも選りすぐりのエリートだから、同じ様に考える事も出来ないが。犯罪捜査の協力に駆け付けたりする事もあるようだ……」

「それに御由緒家は、それぞれオミカゲ様から預かった仕事ってのがあるからな。一戦から身を引いた当主は、必ずその家業を引き継ぐもんだし、俺も今からそれ学んでるんだよな……。鬼退治がめっきり無くなっちまったから。全くよ、もっと後で済むと思ってたのに……」


 漣は元々、身体を動かす方が得意で、勉学に対して熱心ではない。

 鬼退治は丁度よい逃げ口上、逃避先ですらあったのだろう。それを突然奪われて、どうにも参っているらしい。


 漣がむっつりと眉間に皺を寄せると、同じように凱人も眉間に皺を刻んだ。


「ウチも似た様なものだ。外交は由衛の取り仕切るところ……。神宮勢力より外との折衷という役割があるんだ。海の外という意味だけでなく、神宮の外、という意味合いも込みでの外交だな。昨今は更に面会希望が増えている」

「あー、やっぱり、それって……」


 オミカゲ様は本物の神だ。

 それは日本国内では真の事だと信じられて来たが、鬼退治については懐疑的な部分が多かった。

 その昔、何かの教訓めいた逸話が、そうした形で現れただけだろう、と思っていた者は少なくなかったのだ。


「メディアからの接触も多いし、これらを上手く制御することを求められる。……いっそ、鬼と戦う方が遥かに楽だぞ。オミカゲ様の御威光を損なわず、しかし蜜を吸いたいだけの者どもを、上手く捌いてやらねばならない」

「あぁ、それは……大変だ」

「だから、掛け値なしに信用できる、お前の様な者がいてくれると有り難い。中にはオミカゲ様を暴こうとか、貶めようとする不遜な輩だっている。これもまた、あるい意味で邪な鬼と変わらん連中だ。そういう鬼から、共にオミカゲ様をお護り出来ないか」


 凱人の真摯な瞳、真摯な熱意を聞かされると、それに頷きたくなる衝動に駆られる。

 アキラもまた、オミカゲ様に対する尊崇の念を持っていて、今も消えた訳ではいない。

 かつて抱いていた信仰に陰りはなかった。


 ――しかし、それでも、なのだ。

 オミカゲ様には千年の間に築いた信頼と、そしてオミカゲ様からも信頼できる家臣がいる。

 ミレイユにも信頼できる仲間と、これまでに築いた信頼はいるだろう。

 だが、双方を見比べて、よりどちらへ助力したいかとなれば、盤石とは程遠いミレイユを助けたく思ってしまう。


「申し訳ないけど、僕の気持ちは変わらないよ。僕は僕で、御子神様を……ミレイユ様をお助けしたいと思う」

「……そうか」


 小さく頷いて息を吐き、それから凱人はカラリと笑った。


「ま、何度止めても駄目だったんだ。この土壇場でも、やはり駄目だったとなれば尊重するしかないな。……あちらでは苦労もきっと多いんだろうが、応援するよ」

「……だな。寂しくなるがよ、男が決めた道だもんな。応援しない訳にはいかねぇよ。アキラは俺らと違って、しがらみなんかもないしな……」


 もしもアキラの父が順当に当主として収まっていて、そしてアキラも次期当主として目されていたなら、このような自由は許されなかっただろう。

 ある意味で、父が残した置き土産として捨てた地位が生きていて、今だけはそれに感謝したい気分だった。


 アキラは一度頷いて、それから窓の外へと目を向ける。

 そこには見慣れた――ごくごく見慣れた、日常の風景があった。


 アスファルトの地面、規則正しく並ぶ電柱と、そしてビルや家屋……。

 どれも有り触れた、しかし今後は見る事が出来なくなるかもしれない光景だった。


 アキラはそれをしっかりと目に留め、故郷である自覚と、ありふれた光景を胸に刻み込もうと眺め続けた。


 ◇◆◇◆◇◆


 イルヴィがスメラータと共に孔を潜り終えた時、そこに広がるのは豪奢な部屋だった。

 見た事もない木造の建築様式だが、洗練された美しさを感じずにはいられず、思わず感嘆の息を吐く。


 室内には歓迎の意を示して待っていた神官らしき者がいて、開け放たれた扉の奥には、道の端に人が列を成して頭を下げている。

 女性ばかりが白い上着と赤い幅広をズボンを穿いていて、どうやらそれが彼女らの帰属を表す服装らしい。


 特別な格好は必要ない、と聞いていたので武具は身に着けず、動きやすい格好で来た。

 しかし、彼女らに使われた布を見ると、非常に高価なもので仕立てられたのだと分かる。

 見栄を張るのは好きでないが、こうも落差を見せつけられると、もう少しマシな格好をしてくれば良かったと後悔したくなる。


 単なる戦勝を祝う食事会、功労者を労う饗宴、ただ飲み食らう為だけの会、と聞いていた。

 だから仕事終わりに酒場へ繰り出す様な気楽さで来たのだが、もう少し格好に気を付けなければならなかったらしい。


 何しろ今日は、久々にアキラと会える。

 神同士の取り決めを行う為に、アキラは書簡を届ける役目などを担っていたから、その都度会う機会はあった。


 しかし、忙しく動いていたのは最初のひと月くらいで、それからは全く姿を見せなくなった。

 苛立ちが最高潮に達していた時、今度はこちら側から行けるのだと、テオ王の遣いから連絡が来た。


 自由に行けないほど遠い場所にあるから、と我慢していたが、行けるとなれば、自ら動く方が性に合ってる。

 そして、あの戦に参加した者全てを招待するとなれば、当然スメラータも共に行くと言い出すのは当然だった。


 そのスメラータは、今更後悔した様な顔をして、イルヴィを見つめて来ている。

 恐らくは、イルヴィも同じ様な表情をスメラータに向けているだろう。


 アキラは見栄えや格好など気にしないと知っているが、あからさまに品の高いものと見比べられるのは気分が悪い。

 普段は気にしなくても、並べて見る事で気が付く事はあるものだ。


「それでは、ご来場された方から順次、会場の方へご案内させて頂きます。……あちらの者が先導致しますので、その後に付いて、ご移動願います」


 そう言って、室内で一人待ち構えていた神官らしき者が言う。

 本当に神官なのかは知らないが、神の住まう近くで偉そうにしているなら、きっと神官なのだろうという、勝手な推測で思っただけだった。


 手をゆっくりと向けた先で、一人の女官が進み出て、見事な一礼で迎える。

 今ここに居るのはイルヴィとスメラータ以外には数人の冒険者達だけだが、これから獣人族やエルフ達も来る予定だし、ずらりと並ぶ彼女らは、その為に用意された人員なのかもしれない。


 スメラータと互いに顔を見合わせ、それから意を決した様に頷く。

 先導役の後ろに付いて歩けば、程なくして庭などが見える回廊に出た。

 周囲は静かで物音が無く、鳥の囀りが聞こえるだけだ。


 神が住まう場所に相応しく、庭木は綺麗に整えられ、イルヴィの知らない草花が目を楽しませてくれる。

 樹木や花だけではなく、芝の高さまで一律に保たれていて、どこまで見渡しても不揃いなものがない。


 緑の絨毯を敷いているだけと言われても納得してしまいそうで、いっそ偏執的といえるほどの整え方には、神への敬意以上に己の仕事に対する誇りを感じさせた。


 これ程の庭を作るのは、並大抵な庭師では不可能だろう。

 王城への出入りは一度のみならずあるが、ここまで見事な庭など見たことがない。


 感嘆するのは庭だけではないし、むしろ何を見ようと感嘆の息しか出てこないが、金さえ掛ければ出来るものでない事だけは分かる。

 彼女らが慕う神は、それだけの仕事をしたいと思わせる神なのだ。


 デイアートの神々、そして常識からは考えられない神だという話は、それとなく聞いていた。

 改めて、その一端を垣間見て羨ましくなる。


 いや、デイアートもまた、神々が大きく入れ替わり、大変な変革が起きたばかりだ。

 ――あの日、オズロワーナで起きた政変は、同時に神々の世界でも起きた事らしい。


 あれからというもの、神々が村を焼き払ったり、理不尽な暴挙を喰らわせた、という話は聞かない。

 これからどうなるか、この先も神の理不尽な怒りは下されないのか、そこまでは分からない。

 だが、人の世にあっては平穏を――。

 そう、オズロワーナが宣言したものを、神が追随したのは事実だった。


 世界は上手く回り始めていて、より良い世界が広がろうとしている。

 そうした希望感を誰もが抱いているのも、また事実だ。


 いずれは、この庭の様に整然とした美しいばかりの世界が創られるかもしれない。

 それは夢物語に過ぎなかったが、そうと思わせる期待感に満ちていた。


 静謐の中、互いに声を出す事も出来なくて、だから目を楽しませて移動を続けていると、にわかに騒がしさが耳につくようになって来た。

 どうやら宴会会場へ近付いているらしく、それに合わせて活気も見えて来るかのようだった。


 そしていざ会場の中に入ると、見た事もない料理がテーブルの上にズラリと並び、色とりどりの酒類やグラスが、壁際に所狭しと並んでいる。

 会場の中止にには幾つもの丸テーブルが置かれており、匂いも芳しく食欲をそそるものばかりが、これまた所狭しと並んでいた。

 食べた事のない料理ばかりだというのに、既に美味が約束されているかのようで、思わず涎が垂れる。


 椅子の類は無く、立食形式のようで、どこに立ってどこで飲んでも構わないらしい。

 お上品に座って食べるなど、出来ないというのが冒険者だ。

 その辺りはよくよく理解しているらしく、歓迎の意に関しても良く練られていると感じられた。


 今日何度目かに分からない唸りと感嘆の息を吐いていると、イルヴィ達が通って来た入り口から、また別の一団がやって来た。

 目を向けると、見た事のないご立派な服装を身に着けた若い連中が目に入る。


 多分、この国の貴族か何かだろう、と思った瞬間、見知った顔を見つけて眉を上げた。

 今更知らない格好をしているからと、見間違えないのはスメラータも同様だった。

 食欲をそそる料理の数々などすっかり捨て置いて、一目散に駆け寄っていく。


「――アキラ! 久しぶりだよ! ほんとぉぉに、久しぶり!」

「うん、久しぶり。元気そうで良かった」

「そりゃ元気だけどさ、もう全っ然、会えなかったからさぁ……!」


 スメラータは昨日まで散々言っていた不満をどこかへ蹴飛ばし、顔に満面の笑顔を向けて、喜びを体全体で表している。

 イルヴィとしても同じ気持ちだったが、スメラータの勢いが早すぎて出遅れてしまった。

 それとなく肩に触れ、ニコリと微笑みかけつつ、イルヴィも再開の挨拶を交わす。


「アキラ、本当に久しぶりだ。逢えない時間が長すぎて、一日が千日に感じる程だったよ」

「あ、あぁ、いや……!」


 アキラは素直な言葉を恥ずかしがるが、逆にイルヴィは真っ直ぐな言葉は美徳とされて育ってきた。

 今更それを変えられないが、アキラが好まないというなら、自分を曲げる事も考え始めて良いかもしれない。


 アキラの傍には他に数人いて、誰もがあの戦いで一緒にいた筈の者達だった。

 何しろ激戦だったので全員の顔に覚えはないが、知っている顔も幾つかいる。


 その一人が、ツカツカと歩み寄って来て、アキラの肩に乗せた手を優しく払った。

 他の誰かはともかく、直接握られたイルヴィには、痛烈な痛みが掌と甲に走っている。

 つまりこれは、宣戦布告という奴だ。


 手を払ったのは、見事な服飾で着飾った女性で、輝く黒髪をさらりと流して嗤う。


「お名前はご存知だったかしら? 自己紹介させて下さいね、阿由葉七生です。アキラくんとは親密にさせて頂いているの」

「そうかい。その親密ってのは、手を握る程度の事を言うんだろうね。うちの婿が世話になっているようで有り難いよ」

「あら、婿だなんて……。それはあまりに、気が早すぎる話じゃありません? 互いの合意というものが、婚姻には必要なのですよ。見たところ聞いたところ……、お二人にはそういう事実は一切ないとの事……」

「いやいや、遅かれ早かれの問題さ。――そうとも、アキラ。今度、我が部族の集落を案内しよう。是非とも、我が族長に顔見せしておきたい」


 そう言って誘ったのに、当のアキラは口をもごもごとさせて、顔を必死に背けていた。

 そして助けを乞うた先にいる男性陣は、決して巻き込まれまいと壁際に直立不動で立っている。

 七生の背後から立ち昇る気配に当てられて、すっかり顔を青褪めさせて無関係を装っていた。


「あら、アキラくんのご実家をご理解でない? こう見えて立派な貴族の一員です。勝手な面通しなど、御家にご迷惑と分かりません?」

「あぁ、そうなのかい。貴族……けどまぁ、関係ない。これはあたしが惚れたっていう話であって、欲しいと思えば決して諦めないって話だから」

「そんな勝手は通りません。御由緒家が、それを許可しませんからね」


 末に互いの鼻先をぶつけあい、一歩も引かぬ構えになっている。

 笑顔を浮かべてはいるが、互いに笑ってはいなかった。

 熾烈なぶつかり合いを見せている最中、その横からスメラータがアキラの手を取ってブンブンと上下に振った。


「あんなの置いといてさ、さっさと冒険行っちゃえばいいんだよ。知ってる? 消えた大瀑布の向こう側、その先に新大陸発見だって! これはもう、絶対行くしかないよね! ね!」

「い、いや、うん……どうだろう」

「スメラータ! 横から男を掻っ攫おうとするんじゃないよ! お前はそんな女だったか!?」

「馬鹿やってる方が悪いんじゃん」


 スメラータは悪びれもせず、しまいには舌を出して挑発した。

 それに我慢ならなくなったのは七生だ。


「なんですか、その接触は! そんな、羨ま――じゃない、ふしだらな! アキラくんは新大陸なんて行きません! そっちの世界にだってね!」

「……いや、行くけど……」

「――行くの!?」


 頑強に否定していた七生こそが、その発言に驚いていた。

 アキラが口にした事が本当で、そしてそれを知らなかったというなら、互いに親しい間柄ではないようだ。


 つまり、勝手に周囲を嗅ぎ回るだけの雌犬という事になる。

 ならば捨て置いて問題ないか、と意識を外へ向けたところで、七生は壁際に並んだ男たちへ気炎を上げた。


「ちょっと! 説得するって話はどうなったの!?」

「いや、した事は間違いない……ちゃんとした。ただ、アキラの意志は止められないと思っただけで……」

「そうそう。一度や二度じゃないんだぞ、何度も説得した。それでもアキラの意志は固かった。アキラには自分が望む未来ってモンもあるんだから……、それを応援してやるのも友達ってもんだろ?」


 中々道理を弁えている発言で、イルヴィは男たちの言葉に深く納得した。

 未来を決めるのはいつだって己の意志だ。

 そして、アキラはその未来を、生まれ育った地ではなく、異国で掴もうと手を伸ばしたのだ。


 スメラータも改めてアキラの意志を知って、胸を温かくしているようだ。

 感動した面持ちで、アキラの横顔を見つめている。


 アキラの進退については、イルヴィ達も知らない事だった。

 かつて頻繁に会えていた時は、定住先をデイアートに、という話は幾度もしていた。


 その時の反応も決して悪いものではなかったし、掴もうとするとスルリと抜け出るような返答しか貰えていなかった。

 それでも、とうとう決意してくれた、という事らしい。


 イルヴィの心にも満足と期待感で気持ちが溢れて出して来る。

 これからの未来に明るいものを感じ始めた時、七生が剣呑な目付きで堂々と宣言した。


「そう、分かった。……それなら、私も行くわ」

「――は?」

「はぁ!?」


 疑義を呈する声は、全員からのものだ。

 壁際の男たちからも、目を丸くして開いた口を塞げていない。

 何を馬鹿な、と言っているのが目に見えるようであり、そしてそれは、硬直から立ち直った男の一人から口に出された。


「いや、そんな簡単に言うがよ……。それこそ阿由葉家が許すかどうか……」

「許しは頂くわ、必ず」


 そう言った七生の表情には、頑健な決意に満ちていた。

 あれを説得して止めるのは、それこそ不可能だろう。武器を持って脅そうと、決して思いを変えたりすまい。


 詰め寄って止めようとしていたスメラータだったが、その肩を掴んで止めて首を振る。

 ここでイルヴィ達が前に出るのは、逆効果にしかならないだろう。

 そうしている間に、硬直から回復したアキラの方から口を挟む。


「いや、でも……そう簡単にはいかないんじゃ……。僕が勝手をするほど素直に行くとは思えないし……、それこそ他家が許してくれないんじゃないかな」

「貴方が意志を曲げないというなら、私だって曲げないわ。これは女の意地の問題なの」

「いや、それにしたって……」


 アキラは説得しようと試みているが、その意志を変える事はきっと出来ないだろう。

 達観した気分でグラスの一つを適当に取り、そして薄いガラス製なのに見事な装飾をされた逸品に舌を巻く。


 どこを取っても驚きと感動しかないな、と思いながら中の酒を口に含み、それから味わった事のない美酒に頬が緩む。

 アキラが帰ってくれば退屈とは無縁になる。


 そう疑っていなかったが、更に賑やかな事になりそうだった。

 決して歓迎できる展開になりそうではなかったが、それはそれで面白い、と思い直す。

 イルヴィは更に酒を口に含んで嚥下すると、アキラ達の様子と、その彼を取り巻く未来を垣間見て、大きく笑い声を響かせた。


 ◇◆◇◆◇◆


 結希乃は御影本庁にある自分のデスクへ、不機嫌に踵を鳴らして近付くと、手に持った書類を叩くように投げ付けた。


「たったこれだけの書類を用意するのに、どれほど時間を掛ければ気が済むのか! 全く……っ! 無能の警察庁め!」

「結希乃様、余り外聞の悪い言い様は、その……」

「構わないわ、他に誰もいないもの」


 自分の部下である、佐守さもり千歳ちとせへと冷たい声で返事して、慌てて表情を取り繕って微笑みかける。

 苛立ちがあろうとも、それを部下にぶつけるべきではない。

 千歳も笑みを向けられると、ホッとした様な表情を浮かべて、机の上の書類に目を向けた。


「……ともかくも、結希乃様。それが、例の……?」

「えぇ、去年にあった神刀奪回、生霧会幹部の捕縛についてね。警察の動員もあったし、拘留や後々の裁判の事もあるから、勿論無関係じゃないけれど……」

「やけに出し渋ってましたよね。……何かあるんですか?」


 捜査や取り調べ、そういった部分は主に警察の管轄の為、そちら主導で動くのは当然といえた。

 だが、神刀に関する部分、その関わりが強い部分については御影本庁の管轄だ。

 麻薬取引を行った事件でもあるので、そちらについては譲らねばならず、二つの事件が庁を跨いで行われるのが問題となり、そして事態を複雑化させる原因になった。


「要は手柄の問題ね。管轄であったり職分だったりは二の次よ。自分たちが幅を利かせられないの、それが気に食わないんだわ」

「……下らない」

「本当よ。だから麻薬取引に、どこのマフィアと関わりがあったか、それを教えるだけで馬鹿みたいな時間を掛けては、体面と体裁を取り繕った……!」


 結希乃は憎々しく書類を睨み付け、再び叩きつけてやりたい衝動を必死に抑える。


「神刀は既に一つ、海外へ運ばれてしまっていたのよ! それについて詳しく調べ、奪還すべく動mくのは我々の仕事! だってのに……!」

「先にあちらの仕事を優先された、という訳ですか……」

「別にいいわよ、自分達の管轄の仕事と職分に沿って動く分には! 麻薬の取引先、卸先を取り調べるのは当然だわ! でも、後回しにするのは別でしょ! 並行させなさいよ!」


 当然、御影本庁としても、神刀をいつまでも海外に置かれている状況は望ましくない。

 その事実を知った時でさえ、取引から既に多くの時間が経過していた。


 マフィアの手の中に収まったままなのか、そこから更に取引されて移動したのか、それも調べなくてはならない。

 だというのに、自分たちの捜査権を盾にされ、後回しにされたのだ。


 無論、幾度となく抗議と是正を求めて進言した。

 要求を全く無視される事はなかったが、神刀の行方についても、複数の尋問内容の中に含まれているのでお待ち下さい、という返答だった。


 そして、仮に聞き出せたとしても、その裏付けは必要になる。

 その尋問内容についても、やはり管轄の違いなどを盾に逃げられていた。

 だが、麻薬捜査に進展があり、解決まで道筋が通ったので、ようやくこちらにも情報が渡ってきたのだ。


「全く……、足を引っ張る事だけは有能な連中ね! でもこれで、こちらとしてもようやく、大っぴらに動く事が出来るわ。……準備は?」

「えぇ、形式は完璧に整えていますが……。でも、前から先行して進めてましたよね。大丈夫なんですか?」

「形式さえ整っていれば、後はどうとでも誤魔化しが利くわ。――勿論、蔑ろにして良いものじゃないけど、明らかに邪魔されてるというなら、こちらだって黙っていてやる必要がないもの」


 好き勝手やられては警察の面子が立たない、という言い分にも理解できる。

 だが、それで神刀の行方が完全に霞と消えてしまっては意味もない。


 彼らからすると、オミカゲ様の名を借りて好き勝手、大きな顔をしているとでも思っているのかもしれないが、全くいい迷惑だった。

 時として、御影本庁が捜査の横槍を入れる事があるので、その意趣返しのつもりなのかもしれない。


 苛つきがまた腹の底から煮え滾ろうとしたが、オミカゲ様のご尊顔を思い出して鎮静させる。

 感情の発露は自然なものだとしても、あまりに行き過ぎると下品になる。

 御影本庁に属する者として、また御由緒家の末席に連なる者として、部下の前で無様な姿を見せるものではなかった。


 最近、オミカゲ様は憑き物が取れたように穏やかな顔で過ごしている、という話は実しやかに結希乃の耳にも届いていた。

 女官の口は固いものだが、オミカゲ様の喜ぶ事となると、その口も若干軽いものとなる。


 オミカゲ様が心安らかに過ごしているのは、喜ばしい事だ。

 その御心を悩ます事がないよう、そして神刀の海外流出を即座に解決してみせるのが、結希乃の仕事と理解している。


 懸念や不安の報告を、オミカゲ様へせずに済むよう、全力を尽くさねばならない。

 結希乃は改めて心を落ち着かせ、自分は冷静だと心の中で呟いてから、千歳へと声をかける。


「飛行機の手配をお願い。整い次第、直ぐに出るわよ」

「え!? で、でも……式典は五日後ですよ!? 結希乃様も出席なさるんですよね!?」

「勿論よ。戦線に立った者としても、御由緒家としても、欠席する事は許されない。食事会は諦めるしか無いでしょうけど……だから、三日で済ませるわよ」

「そんな無茶な……! まだ詳しい所在だって掴めてませんし、マフィアを締め上げたぐらいで、即座の解決なんて出来ませんよ!」

「だから急ぐのよ。――いいから、手配!」

「は、はいぃぃ……!」


 結希乃が睨みを利かせると、背筋を伸ばして一礼し、部屋から駆け足で出て行く。

 その背後を見つめながら静かに息を吐いて、次いで書類へと顔を向けた。


 そこに記された情報程度では、到底神刀まで行き着く事は出来ないだろう。

 少しの聞き込み、少しの脅し程度で見つかる筈もない。


 海外での理力を使った捜査は推奨されず、それは回復手段がない事を理由としているが、短期に絞った捜査なら、それも可能と結希乃は思っている。

 捜査や探知、観察に優れた理術を使いこなせる者が一緒なら、即座に済ませる事も出来る筈なのだ。


 捜査権を行使しない奪回は、略奪と取られても仕方ない事だ。

 そもそも日本国の捜査権が、国外で通用する筈もない。

 警察の協力もなく、御影本庁だけで不可能と思っているなら、勘違いも甚だしい。


 秘密裏にやるのだ。

 相手が犯罪組織であろうとも勝手を許されないのは当然だし、時に権力とは足かせにもなる。

 好き勝手に力を振るう事は、公僕として許される事ではない。


 だが、オミカゲ様に関わる場合だけ、時として条理を破る事もある。

 特に今回は、その行方を完全に喪失している、というのが如何にも拙かった。調査には数年を要する事になるのだろうが、それであっても常套手段では見つけられない。


 オミカゲ様の――神刀や理術について研究される事は、非常に不都合な問題でもある。

 理力を科学で解明できるとは思えないが、もしも可能とした時、核兵器よりも恐ろしいものが生まれてしまうかもしれない。


 それを未然に防ぐ為には、多少の無茶も許容範囲と認められている。

 ただ、見つかったら大事なのは間違いない。それならば、見つからなければ良いだけだ。


 その為には、優れた術士が必要だ。

 そして、由喜門にはそうした事を代々得意としており、今代の術士も例外なく得意にしている。


「……紫都にも力を借りられないかしら」


 表沙汰に出来る事でも、決して褒められる事ではない。

 それを加味すると、果たして彼女が頷いてくれるかどうかが問題だった。

 何か上手い誘い文句はないものか……。

 結希乃は思案顔で頬に手を添え、溜息を吐いた。


 ◇◆◇◆◇◆


 オズロワーナの中心に位置する居城、三階にある執務室で、テオは大きな机を占める書類と格闘していた。

 広い室内は飾り気がなく、精々花瓶に花が活けてあるくらいで、絵画の一つも置かれていない。


 質実剛健と聞けば印象も良いが、実際には金が無いから部屋を装飾する余裕もないだけだった。

 本当なら花瓶すらいらないぐらいだったが、流石にそれは寂しすぎるという事で、泣けなしに用意されたものだ。


 部屋の中にはテオの使う執務机だけでなく、他の文官が四名、同じく机で書類仕事に取り掛かり、それぞれに補佐官が二名付いて粛々と紙にペンを走らせている。

 テオにもヴァレネオという補佐官がいるが、今は少し出払っていた。


 王様は玉座で踏ん反り返っていれば良い仕事、などと思っていた訳ではなかったが、こうも変わらず文官に混じって仕事をするのも違うのではないか、と最近思ってきた。


 決済された書類の確認、決議だけする状態、あるいは御璽押印など、王様にしか出来ない仕事だけ回されるものだと思っていたのだ。

 それなのに、まるでいち文官と変わらぬ仕事を与えられている。


 決して楽をしたくて、王を目指していた訳ではない。

 理想を追うからこそ、それを実現する立場が欲しくて王を目指したのだ。

 現状も、正しく理想を実現する為の仕事ではある。

 だが、ここまであくせく仕事をせねばならないのか、と愚痴を吐きたい気持ちに駆られた。


 その時、執務室の扉が開いて、ヴァレネオが入室して来る。

 テオは恨みがましい視線を隠そうともせず、自席へと座る彼を目で追い、唇を突き出しながら不満を垂らした。


「遅いぞ。仕事は幾らでも山積しているというのに、お前一人抜けた穴がどれだけデカイか、今から説明してやろうか?」

「いりませんよ。大体、遊びに出掛けていた訳でないと、理解している筈では?」

「それでもだ! そもそも、何故この王たる俺が、文官混じり働いておるのだ! もっとこう……、なんかこう……違うのではないか!?」

「まぁ……、なまじ仕事が出来ると発揮して見せたからでは? 遊ばせておく人員などおらんのですから、当然……適材適所を考えると、そうならざるを得ないという……」


 ヴァレネオの指摘に、テオは歯噛みしながら文官達に目を向けた。

 今より約半年前、オズロワーナが被災によって上へ下への大混乱の折、テオは陣頭に立って必要な物資の計算や、必要な人員をどこに配置するか指示を出した。


 ただ指示を出すだけではなく、必要な書類の作成まで手伝っていたので、それがすっかりテオの仕事として定着してしまった。

 これまでの王がどういう仕事を知らずにいたテオは、そうして任されるまま、自分に出来る範囲の事を必死にこなしていたのだが……。


 いつの間にやら、文官の王という立場に収まっていた。

 ただ決裁書類が出来るまで待つ王より、その書類内容に精通し、自ら考える事も出来る王の方が、文官の方も有り難いと思ったらしい。


 だから、文句が出るまで体勢を維持しようとした結果、半年以上も現体制が維持され、そしてなし崩しに続けられる事となってしまった。


 お陰で必要な物資の集積や、現時点で求められる政策など、実にスムーズに事が運ぶので、テオは文官から絶賛されている。

 前王は働かず、とにかく戦費を掻き集める事に腐心するばかりで碌な指示もせず、とにかく無茶に振り回されていたという事実が、今のテオを絶賛させる要因にもなっていた。


「えぇい、人手……人手か! 一朝一夕には揃わん事だし、嘆いた所で仕方ないが……!」

「デルンが陥落した事で多くの穴が抜けたものですが、貴方の努力が都市の復興を助け、その復興の功績を持って、戻って来ようとしている者もいます。一人の王として、認められようとしておるのです。それは口だけ言っても意味はなく、どれほど大きく言ったところで響かぬもの。今を続ける事が、何よりの近道でしょう」


 その言い分には理解もするし、掲げた理想を理想のままにするつもりもない。

 努力はこれまで以上に必要となる事は分かっていたし、覚悟もしている。

 しかし、一人の努力に縋り続ける世の中、というのも間違っていると思うのだ。


「いずれは王制も廃止する。今は必要だからこの地位に甘んじるが、誰もが平等な世の中、その礎を作る事こそ俺の役目だ。より良い世界を目指す先は、一人の意思決定で行うべきものではない!」

「大変、結構な事かと。ミレイユ様も奨励されておりました。そのミレイユ様も、神の気まぐれで人の世が乱されてはならぬと、神の横暴を取り除いて下さいました」

「人には人の、世の在り方を決める権利がある……だったか」


 神が人に手出ししない、という世界の在り方は、テオにとって青天の霹靂でもあった。

 種類は違えど、神からの干渉はあって当然、と思っていた。

 それは天の頂にミレイユが就く事でも変わらないと、考えるまでもなく、そう受け止めていた事でもあった。


 ミレイユを信頼してなかった訳ではないが、しかし神ならば当然、と思っていたのだ。

 王を始めとした権利者は、その特権や利権を守ろうとする。

 それと同じで、神からしても当然、それと似たものを振り翳すものだと疑っていなかった。


 神は一切、人の世に干渉しない。

 人は人の持つ責任において、自由に向きを変える権利を持つ。

 神に反感を抱くも、信奉を向けるのも、それは人が持つ自由であるという発言には、テオでなくとも耳を疑うに十分だった。

 

 しかし、今までと同じ病毒・怪我の加護はそのままに、ミレイユは見事神々を統率し、余計な手出しをさせなかった。

 神々の多くを失った事、それらが大地震の折に失われたのだと、世間は後に知った。


 ご機嫌取りだと、あるいは人の世から逃れる口実だと、口さがなく言う者もいた事を知っている。

 だが、信奉した神々がいなくなる事を悲劇と思っても、実害が消える事の方が遥かに大事だった。


 何故なら、それまで当然にあった、ご機嫌取りのような信奉を向ける必要がない。

 敬わなければ罰せられる。神のいずれかを信奉しなければ、災いが落ちる。

 敬う限りにおいて、従順に信奉する限りにおいて、民は自由を許されていたのだ。


 これまでの半年、悪態や暴言を吐いた程度で罰せられた民は存在しない。

 癇癪を起こした神が人に暴力を振るおうとして、それをミレイユが殴り飛ばして止めた場面なら見た事はあった。


 挑発するような人間の方が悪いと思うのだが、安易に挑発に乗る神こそが悪い、という論法らしい。

 ありがたいと思うし、その沙汰と実行についても、人は安心できる材料になったろうと思う。

 それを悪く思う事はないものの、しかし、どうしても思ってしまう事もある。


「干渉しない、というのは結構な事だと思う。今まではどうしても、頭を押さえつけられた窮屈さから抜け出せなかった。それがないからこそ、自由な思想、自由な発想で世界を良くしていけるんだろうが……」

「……だというのに、何か不満があるので?」


 ヴァレネオは間違いなく敬虔なミレイユ信者で、ミレイユを悪く言うと機嫌を悪くする。

 神が許している事といえど、それを自分が我慢する事は別だと思っていた。

 だから、ミレイユの話題を出す時は、いつも気を配る。


「いや、悪いとは言ってない。ただ、干渉しないのは、自らが干渉されるのを遠ざける為じゃないのか。神は何もしない、だから最初から求めるな、余計な面倒を持ってくるな、と言うような……」

「それが悪いとは思えません。人の世の事です。人の問題は、人の間で解決するのが道理でしょう。困った時だけ頼るというのも、些か品性に欠けるのでは……?」

「まぁ、そうだが……」


 それは事実だとしても、自らが動かなくて良い大義名分を得たいから、そうした取り決めを作ったのではないか……。テオには、そう思えてならなかった。


「人がやる事だから、人が決める事だから時間は掛かる。それは仕方がない。神様の言うとおり、とは行かないでしょう。……が、貴方には最早、猶予を気にする必要もない。そこは素直に感謝して、ミレイユ様がそう望むのであれば、その望みの為に動くべきかと思いますがね」

「う、む……。それなぁ……。いや、勿論感謝しているが、だからといって、それを理由に信奉とかそういうのは……」

「えぇ、ミレイユ様も別段、望んでおられますまい。その為にやった事でもなかろうと思います。……いわば、働きに対する正当な報酬。あるいは、その働きを十全にこなす為に必要と下賜されたもの、そういう事だと思いますがね」


 何ともヴァレネオの盲信ぶりが分かる発言だった。

 テオには人の寿命の半分ほども、時間が残されていなかった。

 そして自らに掛けた呪いの為、更なる矮小な存在として生まれ変わる事を余儀なくされていた。


 それを払ってくれたのはミレイユだ。

 どうやったものか見当もつかないが、ユミル主導の元、ルチアと三人掛かりで色々され、その結果呪いは解かれる事になった。

 普通の寿命を取り戻し、そして普通に死んでいけるようにもなった。


 それについては素直に感謝している。

 理想を叶えられる段階まで、そして現在の位置まで、その背中を押してくれた彼女には、確かに感謝以外の気持ちを表しようがないのだ。


 ヴァレネオとしては、それだけ恩があるのなら、素直に神と認めて信奉しろ、というところに落ち着かせたいのだろう。

 だが、昔のミレイユを知っている身だと、どうにも素直になれないところがある。


 その当人に殺された身としては、最初に身構えてしまう癖が抜けてくれない。

 襲い掛かった自分も悪いと思うが、その時の苛烈な反撃はテオの心に恐怖を刻み込んだのだ。

 風向きを悪く感じて、テオは無理やりだろうと構わず、話題を転換した。


「そういえば、どうだったんだ。急な呼び出しだったんだろ? 何があったんだ?」

「……まぁ、よろしいでしょう。いえ、最近恒例となりつつある、神の悪戯について、少し……」

「あれか……」


 テオは顔を顰めて、こめかみに握り拳を当てた。

 神と言っても、ミレイユが何かする訳ではない。むしろその逆で、何か問題行動を起こそうとする小神を、ミレイユが取り締まろうとしているのだ。


 起こる問題行動も人的被害が起きる程ではなく、ミレイユに構って欲しいから起こす悪事と予想している。

 だから悪戯の範囲を超えていない。

 しかし、神にとっては悪戯でも、人にとっては笑い話で済まない事もあった。

 その対処に、少し駆り出されていた、といったところなのだろう。

 

「まぁ、我々の方に問題はありません。あったのは、むしろあちらの方でして……。それでも一応、建物に被害が出ましたので、その確認と今後の詫びなど相談させて頂いた、といったところで……」

「ちょっと待て。……詫び? 誰が、誰に?」

「神が、人にです」


 テオは頭痛を覚えてしまい、思わずこめかみに沿えていた拳を強く押し付けた。

 全くの前代未聞、驚天動地とはこの事だった。

 人が許しを乞う事があっても、その逆は無いのが神というものだ。


「無償労働でもさせて、コキ使って修復の手伝いでもさせろ、というお言葉を頂きましたが……丁重にお断りを。代わりに信徒の貸し出しや、寄進などをして頂こうという話で落ち着きました」

「それが良いだろうな。神が混じって働いてみろ。大混乱になるだろ」

「意識を変えさせたい一貫なのやもしれませんな」

「大体……何だったか。アルケスだったか、その神。そいつなんて、明らかにミレイユに構って欲しいだけだろ。それを律儀に……」

「神の横暴を、無力化して止められるのは、ミレイユ様しかおりませんからな。とはいえ、それを逆手に取られている風なのも事実。何か厳罰を課す様でなければ、これからも続くかもしれません」

「いっそ放っておか……れても困るか。実害が大きくなっても、なぁ……。それでまた、神々の闘争なんか起きても困るしな」


 あの日、天変地異が起きたのも、それが理由だと多くの人は思っている。

 神々同士の熾烈な争いは、大地すら割るのだと、そう認識させられた。

 それは事実と異なると、テオやヴァレネオは教えられていたが、庶民からすればそう考える方が自然なのだ。


「ともかく、神々の頭を押さえているのがミレイユで助かる。お陰で馬鹿をするのはアルケスだけで、他は大人しいもんだ。ある意味で、それが良い教訓として神々の間で広まっているのかもしれないな……」

「それもまた、あり得ますな。悪戯の域を越えれば弑される可能性も、十分あるのだと認識している筈です。命懸けの遊びなど、誰もやろうとせぬでしょう」


 話している間に熱がこもり、手を止める時間も長くなっていた。

 目の前の書類は全く減っておらず、むしろ増えている有様だ。手を止めていた分、これを片付けなければ酷く恨まれる事になるだろう。


 こちらを見つめる文官たちからの視線も、段々と鋭いものになっている。

 テオは大きく溜め息を吐いて、作業を再開する。

 せめて式典の時は、羽目を外して酒でも飲もう、と心に誓った。

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