しばしの別れ その7

 アヴェリンは腕で乱暴に涙を拭い、それからユミルの腕を優しく取る。

 次から次へと涙が溢れて止まらないが、いつまでも足踏みしている事は許されなかった。


 今もきっと、ミレイユは戦っている筈だ。

 ひと柱を既に弑した後かどうか、それはアヴェリンにも分からない。だが何れにしても、今も奮戦している事は疑いようがなかった。


 アヴェリン達が歩みを止めた分だけ、彼女の不利が続き、そしてそれが敗北に繋がる。

 苦渋の決断ではある。

 だが、その所為でミレイユまで失う事になれば、アヴェリンは決して己を許せない。

 自分の身代わりとなったユミルの為にも、その死に報いるだけの事を成さねばならなかった。


 アヴェリンは、ユミルの両手を鳩尾の上に乗せて、重ね合わせる。

 彼女に相応しい埋葬様式を知らないが、どちらにしても暫く、この場に置いて行くだけだ。まさかこの場で埋葬する訳にいかない以上、他にやりようもない。


 アヴェリンは今も空虚に見つめるユミルの目に手を翳し、瞼の上を優しく擦るようにして閉じてやった。


「……しばしの別れだ。友よ、安らかに眠れ」

「……きっと、待っているのは得意ですよ。永く生きてきた……っ、人ですからね……!」

「そうだな……」


 涙で顔を濡らしながら、ルチアは髪を梳くように頭を撫で、乱れた髪型を戻していた。

 そうして、唐突にその動きが止まる。

 悲しげに伏せられていた表情も不自然に固まり、それは死を悼むというよりも、まるで思案するかのように見えた。


「……どうした、ルチア」

「いえ……。ユミルさんの為にも、私たちは進まないと。それが、神を穿つ一矢になるかもしれないんですから」

「正しく、その通りだな。ユミルの仇と、あいつの代わりにゲルミル一族の仇も取ってやらねばならん。必ず、相応の報いをくれてやる……ッ!」


 アヴェリンは腹に力を入れて立ち上がり、溢れる涙を乱暴に涙を拭って顔を上げた。

 その死を悼み涙を流すのもこれまで、悲哀は戦場に持ち込んだところで意味がない。

 全てが終わった後、酒と共に送り出してやるべきで、そしてその為には、余計な感情は邪魔だった。


 ルチアも最後に一撫でしてから手を離し、視線を切って立ち上がる。

 放り出すように地面へ落としていた杖を取り、水薬を取り出しては、コルクを抜いて口へ運んだ。


 それを見て、アヴェリンもまた同じ様に水薬を口に含む。

 喫緊の状態で癒して貰うならルチアに頼むべきだが、ルチアも無尽蔵に魔力を持つ訳ではない。攻撃や支援、結界や治癒と扱う魔術の幅も広いからこそ、頼りにされる場面も多かった。


 これから何戦するかも分からない状況だから、節約できる部分は節約しなければ保たない。

 水薬は時間と共に効果を継続して発揮するものだから、こういう余裕のある時、口にしておかねばならないのだ。


 また、貴重な材料を使った高級水薬を所持していない、という理由も大きかった。

 無い物ねだりをしても仕方ないが、『箱庭』があったら、と思わずにいられない。そうすれば、遥かに効力の高い水薬で癒す時間も短縮できただろうに。


「急いで向かいたいところだが、現在位置も分からんのではな……。奥へ行けば良い、という話だったが、その『奥』が何処だという話でもあるぞ」

「仮に分かったところで、近場であるなら、やっぱりすぐ駆け付けるべきでもないと思います。……せめて、今の水薬が効果を発揮し切るまで待つべきです」

「そうだな……、我らは手負いだ。完全に回復するまで待てないまでも、戦闘に参加するなら、足手まといになる状態で飛び込む訳にはいくまい。戦闘続行に支障がない状態まで戻すのは、義務とすら言える」


 互いに頷き合い、まずは部屋から出ようと踵を返す。

 どちらにしても、現在位置を把握しておかねば話にならない。

 状況次第では回復を待つなどと、悠長な事を言っていられないかもしれないし、何より敵は神だけではないだろう。


 何らかの兵を擁しているのは間違いなく、それはインギェムの口からも聞いている。

 彼女が言っていた兵は直接戦闘するタイプのものではないようだが、しかし神の手足として働く者がいるのなら、武力を持つ兵もやはりいる筈だった。


 それらが今の今まで攻め込んで来なかった事は不審に思うが、単に部屋の位置が問題だったのかもしれない。あまりに辺鄙な場所にあるのなら、合流もやはり遅くなる。


 アヴェリンは最後にユミルを一瞥し、眉根に深く皺を刻んでから、断ち切るように身体ごと正面を向いた。

 ルチアもまた、同じ様に視線を向けていたが、悔恨とも憐憫とも違う、悼むものとも違う目をしていて不思議に思う。


 そのまま暫く見つめていたが、アヴェリンの視線に気付き、慌てて顔を下に戻した。

 どうにも取り繕ったものを感じ、不審に思って声を掛ける。


「どうした、何かあるのか……?」

「あぁ、いえ……。ユミルさんが敵兵に見つかると厄介な事にならないか、と少し考えてしまっただけで……」

「それは……うむ。敵兵からしても、神を弑した仇敵だ。腹いせに何かする可能性はあるか」


 言われて初めて、アヴェリンもその可能性に思い至った。

 死体の損壊だけでなく、首を晒すなどの辱めを受けるかもしれない。アヴェリンとしては、決して認められない事態だった。


「どうにか防げないか? 未だにその敵兵が姿を見せないのは気になるが、派手な戦闘音は響いただろう。確認に来る事くらいはする筈だ」

「未だにこちらへ来ていないのは、それこそ先にラウアイクスの方へ行った所為かもしれませんけど」


 それもまた、十分考えられる事だった。

 ルヴァイルにナトリアがいたように、ラウアイクスにも神使がいる筈だ。だから、その兵が動くのだろうと思ったが、これは逆かもしれない。


 その数は多くないだろうが、今回の異変に際して、主神を護ろうと動く事は当然考えられる。

 敵に攻め込まれる事を想定しないからこそ、あちこちへ回す兵力など無いだろうし、だからこそ遠方の様子を見に行く余裕などないのかもしれなかった。


 忠誠と信仰を向けているのは自身の神だけなのであって、その安全の為ならば、極論――他の神など、どうでも良いのだ。


「だが、そうなると少し困った事になるな……。インギェムがラウアイクスの拘束を担っていた筈だったろう? 戦闘に向かないと言う神が、その神使に対応し続けられるものか?」

「そこは確かに、疑問な所です。最悪を回避するか、傷を無視するかの選択を迫られますね」


 そう言って、ルチアはむっつりと押し黙った。

 戦闘を始めて随分と時間が経っているから、救出か救援かに駆け付けるつもりなら、当に到着している頃だろう。


 各個撃破が理想、という話だったのに、その前提が崩れるなら、いかにも拙かった。

 今もミレイユがシオルアンを凌いでいる状況かもしれず、そこへ合流される事態となれば、悠長に回復を待ってもいられない。

 そして最悪の事態とは、ミレイユを喪ってしまう事だ。


 それを回避する為ならば、戦力として十全な役に立てない、という理由さえ些事だった。

 アヴェリンはルチアへ向き直ると、力強く頷く。


「最悪を回避する事が優先される。温存などと言っている場合ではないぞ。まずラウアイクスの確認をせねばならない」

「了解です。でも念の為、扉の方は魔術錠を施しましょうか。潜入、隠密が得意なユミルさんクラスでなければ、解けないものを使っておきます」

「それで良いだろう。ユミルほど得意な奴というのも、そうは居ない筈だ。戦闘音もしない部屋となれば、後回しにする可能性も高いのではないか? ――それでやってくれ」


 またも了解です、とルチアが短く返事して、締めた扉に魔術を掛けていく。

 ごく短い時間でそれを済ますと、一応しっかりと機能しているか取っ手を動かし、満足気に頷いて扉から離れた。


「では、急ぎましょう」

「そうだな。とはいえ、……『奥』とはどっちだ」


 アヴェリンは部屋の通路の前で、左右へ忙しなく顔を動かした。

 道は広く、その両端には小川の様な水が流れていて、正面は壁だ。途中いくつも扉が見えるものの、今し方出てきた扉と造形に違いがない。


 部屋の中に違いはあるのだろうが、だからこそ、その先が目的地に繋がっているとは思えなかった。

 通路は長く、その先は直角に曲がっていて、どちらへ顔を向けても先を見通せない。

 まずは勘で動くか、と足を踏み出した時、隣からルチアが声を上げた。


「まぁ、そうですね……。『奥』というからには、水流を逆上れば良い、という事ですかね?」

「水流……。この道の端に流れているヤツか?」

「目印となって、見れば分かるという発言から考えると、他にめぼしいものも見当たりませんし……」

「なるほど、今はそれを目安にするしかなさそうだ。――では、こちらか」


 アヴェリンは顔を左に向けて走り出す。

 ルチアを置き去りにする訳にはいかないので、抑え気味に走っているが、今にも置いて走り出したい衝動に駆られていた。

 走る程にその感情が高まりだして、抑え続ける事は相当な労力を要する。


 何とか自制して体中に籠る力を抜いて、噴き出す様に、荒く息を吐く。

 そうして走りながら、不意に思う。


 確信もなく、多分そうだろうというつもりで走り出したが、実は全く逆の方向へ走り出しているかもしれなかった。

 ミレイユならば、こうした場合、何かしらの保険というか、同時に行える手は使っていたものだと思い直す。


「ルチア! 探知を使って、より詳しい場所を探り出せないか? 漠然と走るより、そちらの方が早い気がするんだが!」

「既にやってみましたけど、難しいです……! 多分、他から盗み見られないような対策がされているんだと思います!」

「他……? 人が魔術で、場所を探したり出来ないようにか?」


 実際、神の住処が今まで不明だったのは、その所為もあったのではないか。

 神の実在を事実として知っていて、何処に居るのか、という疑問を疑問のままにしておける者ばかりではないだろう。

 魔術という手段も持っていて、過去試みる事さえしなかったとは思えなかった。


 しかし、ルチアはそれに、同意しつつも否定する。

 そして、より確度の高い答えを口にしてくれた。


「それも有り得る話ですけど、話はもっと単純でしょう。互いに監視し合う関係だから、むしろそっち対策で、見えなくしてるんじゃないですか? 表向きは協力的姿勢を見せつつ、裏では……なんて事よくありそうですし」

「それもまた、実に納得できそうな話だ」


 だが、ルチアの探知が難しい、というのなら、今は推測で動くしかなかった。

 そして見れば分かる、とインギェムが言っていた事を考えても、分かり辛い方法で道を示しているとは考えられなかった。


 案内板ほど分かり易いものがあるとは思えないが、道順が分かるようになっている何かがあるなら、それは道の両端に流れる水しかないと思う。


 もどかしい気持ちで走っていると、次第に遠くから、何らかの戦闘音が聞こえて来た。

 金属同士を打ち付ける様な音や爆破音など、それらがくぐもった音で伝わって来る。


 思わず、ルチアと互いに顔を向け合った。

 無言で頷き合うと、更に足へ力を込め、一秒惜しむように走り出した。

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