竜の谷 その6
すっかり陽は落ち夜になったものの、一切の暗闇に支配される訳ではない。
光源には月明かりがあり、雲で遮られる事のない光は、足元を照らすには十分な光量がある。
夜目が利く者からすると、それだけで歩行するには問題ない。
だが、それはあくまで稜線を歩き、障害物が周囲にない場合に限っての話だ。
稜線を歩き続ければ、今度はなだらかに道が下り始め、それに沿って進むと雲海の中を進む事になる。
視界は一気に隠され、手を伸ばした先すら霞んでしまう。
しかし、地が続いているのは確かで、一歩踏み出せば間違いなく道が見えてくる。
急に崖へ行き当たって滑落する事を考えると、足元を警戒しない訳にはいかず、自然と歩行速度は下がった。
その最初の犠牲者となるのはアヴェリンだから、ミレイユは念の為、いつでもフォロー出来るよう、念動力で腰を掴んでいる。
そうして歩くこと暫し――。
雲海を抜けて、唐突に視界が開けた。
気付けば両端は三メートルを超える壁に寄って挟まれていて、まるで囲い込まれた様に感じられる。
両手を横へ広げても十分な幅はあるが、細く長い道は人工的に作られた物の様に見えた。
いや、とミレイユは思い直す。
よくよく見れば、地面にも壁にも、何か擦れた跡が幾つも残っている。
まるで巨大な木の棒を前後に引いて削ったかの様にも見えて、長い間、幾度となく何かが擦れて出来た道だという事が分かった。そうであるなら、これはきっとドラゴンが造った道に違いない。
蛇の様な巨体が通った事で、自然とこの様な形になったのだろう。
ミレイユがルチアへ目配せすると、ルチアは感知を開始する。
幾らもしない内に顔を上げ、それから小声で報告して来た。
「――います。強い魔力反応と巨大な何か。蛇の形ではありません。もっと別の……他に似た形が思い浮かばないので何とも言えませんが、とにかくそれが、三体いますね」
「三体? この先は広場の様になっているのか? それが待ち構えている……?」
「いえ、そういう訳ではなさそうです。開けた場所がこの先にあるのは間違いないですが、我々を待っているのとは違うでしょうね。外への警戒心は薄く、そして何か争っている様な……。内輪揉め、ですかね……?」
「何かに襲撃されている訳ではないのか?」
「そう思えます。三体以外に感じられる魔力反応がありません。侵入者と戦っている訳ではなさそうですね」
ふぅん、と呟き、アヴェリンから向けられる、窺う様な視線に頷く。
構わず進め、という合図に、アヴェリンも首肯を返して前進を始めた。
神々がドラゴンの異変に勘付いて、尖兵を送り込むなりしていても不思議ではないし、だから争っているのかとも思ったのだが、そうでないなら確認してみる他ない。
迂回できる道がある訳でもなく、そして竜の巣がこの先にあるのなら、進んでみるしかなかった。
ミレイユ達が近付けば、当然それは相手にも伝わる。
ルチアが言っていた通り、互いに争う姿を見せていたドラゴン達は、ミレイユ達の存在に気付くとピタリと動きを止めた。
首へ喰らいついたりしていた口を離し、警戒心も顕に睨み付けて、叫び声を上げた。
「ギャオオオウウウ!!」
「あら、素敵な姿だコト。若い個体なのかしら。……あぁ、でも姿が変わったコトだし、声音で判断するのは危険かしらね?」
かつてのドラゴンならば、姿形、そして声からでも識別できたものだが、今でも同じように判別して良いのか不明だ。
長く生きたドラゴンは人間同様声が低く、重みも増してくるものなので、甲高い声はまだ若い個体だと判別したものだが、今では生物としての形が全く違う。
ユミルが言う通り、姿形が元に戻ったからには、その常識も当て嵌まらないかもしれない。
そのドラゴン達の姿は、かつてミレイユが現世で想像されていた姿と良く似ていた。
デイアートで常識となっている蛇に良く似た不格好な姿ではなく、爬虫類的外見でありつつも哺乳類的骨格を持ち、長い尻尾と蝙蝠に似た翼を持っている。
体表面は鱗に覆われつつ肩などに硬い外殻を持ち、筋肉質な両手両足には鋭い爪が生えていて、これまで見て来た姿とはまるで違う。
しかし唯一、変化のない部分が頭部で、見慣れた部分と組み合わせて見れば、ドラゴンとしては相応しい姿ではある。
そう思えるものの、今までの慣れ親しんだ姿で覚えていると、違和感の方が先んじてしまう。
今は剣呑に細められた目と、喉元で唸り声を上げる様子が、警戒を一段階上げたと教えていた。
そんな様子を見ながらも、アキラは興奮する様に、鼻息荒くドラゴンを見つめている。
ファンタジー世界の定番、あるいは目玉とも言える存在に出会えたからかもしれないが、どこか抜けた奴だな、と今更ながらに思った。
「『遺物』は問題なく願いを叶えた。そう思って良さそうだな」
「だと思うわ。後は最古の四竜も、同じ様に戻っていれば文句なしね」
「変わってない可能性があるのか?」
「強大な存在に根本から変化を与えるのって、簡単じゃないと思うのよね。ドラゴンにも個体によって実力差があって、若い個体と古い個体を比べたら、そりゃあ天と地ほどの差があるんだから」
言われて、ミレイユも納得する。
願いの内容は曖昧でないにしろ、その規模について詳細に願った訳ではなかった。
蓄えたエネルギーから使用されるのだから、一体のみと百体全てに影響を及ぼす場合だけでも、その差は生まれて来るだろう。
それを思えば、弱個体と強個体と比べた時、強個体の方へ影響を与える方が、より大きいエネルギーを使うと言われても驚かない。
結果として、最古の四竜が除外される結果となった可能性もある。
「願いの規模も大きい……百体までは変化させても、それ以降は息切れで打ち止め……。そういう事もあるかもしれない」
「そうね。だから、まず確認を済ませないと。それにはまず、あの三体が邪魔なのよね。……奥に行けば会えるのかしら? どうなの、僕ちゃん達?」
ユミルが気さくに話し掛けて、三体のドラゴンは互いに目を合わせた。
アキラなどは今更ながらに感動から現実に帰って来て、眼の前の状況にどう対処すべきなのか、思い悩む顔をしている。
あのドラゴンが若い個体であるかどうか、それはミレイユにも分からないが、やるべき事は決まっていた。
ミレイユは腕を組んで、指先をアキラに向けながらドラゴンへ顔を向ける。
「アキラ、とりあえずお前は前に出ろ」
「えっ……!? あの三体、僕が相手するんですか!?」
「倒して来いと言いたいんじゃない。避けられない戦闘なら、お前の使い勝手を見ておく機会かと思っただけだ。雪トロールでは、お前の『盾』として能力を見られなかったし、巨人には逃げの一手だったからな」
「えぇ……、はい、なるほど……。じゃあ、無理して倒さなくても問題ないと……?」
ミレイユはうっそりと頷いて、アキラに向けていた指先をドラゴンへ向けた。
「お前がどれほど使えるのか分からなければ、運用方法にも障りが出る。盾としての本分を見せてみろ」
「わ、分かりました……! ドラゴンにだって、僕の刻印は通用するって所、見ていてください!」
アキラが一度大きく息を吸って気合を込めると、脂汗を浮かせながらも決意した表情で前へ出て行く。
ユミルが激励する様に背中を叩き、アヴェリンは道を譲って睨み付ける。
不甲斐ない真似を見せるな、と言外に語っている様に見え、アキラは生唾を飲み込んだ。
アキラに任せると言ったとはいえ、ミレイユ達が細い道の中で隠れる様に見守るのは情けない。
アヴェリンが先導してアキラの背に付いていき、入り口付近で待機する事にした。
そこで改めて周囲を見てみると、中は円形に広がった岩場のようだった。
草や木が生えている訳でもなく、苔らしきものが端々に見えるが、それ以外は岩と壁しか見られない。
寝床のような場所なのか、それとも広場として用意されたものなのか、あるいは正面入口となるこの場を、守る為に用意されたものなのか……。
どれもが当て嵌まりそうであり、そして、その何れもが正解の様な気もする。
アキラが一人進み出ると、三体の内の一体、中央のドラゴンが物珍しそうに顔を近付け、しげしげと眺めている。
敵に向けた目つき、というより、珍しい動物を見るような仕草だった。
そして、そのドラゴン達が、口を開いては好き勝手に物を言い始める。
「何だ、コイツ……。初めて見るな」
「それがアレじゃない? 来るかもって言ってた、神とかセンペーとかって奴だよ」
「コイツがか? この弱っちそうなのが?」
「じゃなかったら、ニンゲンって奴とか? ニンゲンってのは、小さくて弱いらしいけど、よく似た別物もいるらしいぞ」
「じゃ、あっちがセンペーって奴か?」
ドラゴンが三体、口々に言い合って、アキラからミレイユ達に目を向ける。
その目は明らかに威嚇している様であり、同時に警戒心が色濃く表れている。
その対応を見る限り、実力差を見抜く力量はあるらしい。
ミレイユは場にそぐわない、緊張感のない声で呟く。
「というか、喋れるんだな……」
「頭は悪そうだけどね。かつては知恵を奪われた上でも、強力な個体は人間並みの知恵は残ってたとか言うし……。それが今や、弱個体でも喋るっていうんだから、奥にいる奴らは期待できそうよね」
「いる上で、『遺物』が適用されていたら、の話ですよね」
ルチアが補足する様に言い差すと、ご明察、とでも言うようにユミルは笑みを深くする。
ドラゴンは、ミレイユ達が何を言っているか理解できていない様子だが、馬鹿にされているとだけは理解できたようだ。
中央の一体が喉奥で唸ると、口内を明るく照らしたと同時に火が漏れ出る。
鼻息を荒く吐き出すと、そこからも火炎放射の様に火が吹き出す。
ミレイユはそれに頓着せず、指先でコメカミ辺りを掻いた。
その歯牙にも掛けない仕草が気に食わなかったのか、ドラゴン達はアキラを気にせず襲い掛かろうとした。
「――邪魔だ、ニンゲンっ!」
その長い尻尾を一振りして、アキラを弾き飛ばそうとしたが、そのアキラは両手を交差させて踏ん張る。
呆気なく吹っ飛ぶかと思っていただろうに、踏み留まったアキラを見て、鼻面に皺を寄せた。
「なんだぁ……?」
あっさりと受け止められた事を受け入れられず、今度は腕を振り上げ、ハエでも叩き潰すかの様に振り下ろす。
硬質な音と共にアキラが叩き潰され、地面がクモの巣状に割れた。
ドラゴンは満足げに鼻を鳴らして腕を上げたが、そこには果たして、腕を交差したまま立つアキラがいて、ドラゴンのみならずミレイユもまた眉を上げる。
「何だ、以外に頑丈じゃないか」
「最初の尻尾にしても、以前ならダメージを防げても吹き飛ばされていた筈。あれも刻印を使いこなす様になったからこそ、出来る様になった事やもしれません」
アヴェリンは我が事の様に褒める口調で分析し、状況を見つめて頷いている。
あれで何層の年輪が削れたかでも評価は変わるが、そうとはいえ、現状でも十分頑丈だと評価できる出来栄えだ。
あまり大きく期待できないと思っていただけに、これは素直に嬉しい誤算だった。
ドラゴンは埒が明かないと思ったのか、大きく息を吸い込み胸を膨らませる。
それを見れば、次に何をするつもりかなど一目瞭然だった。
アキラが再び腕を交差し直し、アヴェリンも念の為ミレイユの前に出て盾を構える。
次の瞬間、岩の広場を明るく照らす程の盛大な炎が巻き起こった。
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