竜の谷 その5
アヴェリンの腰から手を離したアキラが、顔面を蒼白にしながら、詰め掛けるように手を伸ばす。
その手はわなわなと震え、眦には涙が浮いていた。
「み、ミレイユ様、ご無事で何よりでした! 落ちる瞬間を見た時、もうどうしたら良いかと!」
「あぁ、我ながらまさか、と思ったが……。アヴェリン、大儀だった」
「ハッ、勿体ないお言葉……! しかし、あの風はご不運でした」
アヴェリンが一礼したのち、手に掴んだままだったユミルの足を離す。
ユミルは片手一本で凍った岩場に手を着くと、足を伸ばした綺麗な倒立をしながら立ち上がった。
その目には若干の不満が浮かんでおり、そしてそれは、アヴェリンのぞんざいな態度だけでなく、ミレイユにも向けられているようだ。
何か言いたげな瞳を向けるだけで、何かを口にする気配がない。
ミレイユからの言葉を待っていると分かって、少し考え込んだ後に声をかける。
「ユミルも、良くやってくれた。咄嗟の動きは流石だったな」
「そうよね? まず真っ先に、アタシにお礼言うべきでしょ」
「言いたい気持ちは分かりますけど……。でもミレイさんなら、きっと独力でどうにかしてましたよね」
ルチアが茶化す様に言って、地面を凍らせた魔術を解除する。
ミレイユは敢えて何も言う気はなかったが、ルチアの言う事も正鵠を得ていた。
初級魔術しか使えない、という条件が課せられているので、使える手札は非常に少ない。
しかし、どうしようもない、為す術もない、という状況でもなかった。
落ちたとしても、時間は掛かるが戻ってくる事は出来ただろう。
だが、それで時間が浪費された事は間違いなく、また戻るまでに莫大な時間が掛かった可能性は否めない。
それを防げただけでも、素直に礼を言う価値はあった。
だが、誰もが尽力したという意味では同じだし、ユミル一人を特別褒める訳にはいかない。
ルチアの機転がなければ、アヴェリンは踏ん張る事も出来ず共倒れの可能性もあった。
「ルチアも、良くやってくれた。一見地味だが、痒い所に手が届く、良いフォローだったな」
「いえいえ。縁の下の力持ちとしての役割が、私に求められているものだと分かってますので」
ルチアはにこやかに笑って、手に持った杖を仕舞う。
その返答を聞いたアキラは何とも言えない顔で、まごつくように顔を逸した。
確かにアキラは目立った手助けが出来ていない。
アヴェリンの腰を掴んでいたものの、それが有効に働いていたかと思うと疑問だった。
座して見ていた訳でもないし、何とかしようという気概だけは伝わっていたが、結局ほかの者ほど意味ある行動だったかと考えると疑問が残る。
当然、ミレイユはそれを責めようと思わないが、アキラは自分自身、不甲斐なく思っているのが伝わって来た。
「あぁ、まぁ……アキラも……」
「いえ、大丈夫です。無理にお言葉を頂かなくても……。下手をすると、師匠の邪魔しかしてませんでしたし……」
「そう卑下する事もないだろう。このチームには、これまで培って来た阿吽の呼吸がある。何を言わずとも、それぞれに適した動きや役割を瞬時に悟って動く。お前の入り込む余地が、初めから無かったとも言えるから……」
まさしく年季が違う、というやつだ。
立ち位置によっては、ユミルの代わりにアキラが身を投げ出していた可能性もある……が、もしもを考えても仕方ない。
ユミルもそれはよく理解しているらしく、アキラの頭を気軽な仕草で叩きながら言った。
「アンタの役割は、小器用に振る舞うコトじゃなくて、もっと無骨に盾になるコトよ。この子の為に、命投げ出しても盾になりたいんでしょ? だったら、そういう状況になったら躊躇わず動きなさい。それが役目ってもんよ」
「ですね……」アキラは気を取り直して頷く。「そうします」
「全く世話の焼けるコト……」
ユミルがこちらを振り返って曖昧に笑い、ミレイユも苦笑を返して道なき道の先を見る。
一つ山場を超えても、続く先は未だ険しく尾根が連なっていた。
それも、雲海から尾根の頭を僅かに出している程度のものだから、まるで剣山の上を歩いて行くかのように錯覚してしまう。
本当に地面がないのか、それとも単に隠れているだけなのか分からないので、それぞれ針の頭に足を乗せるかのいように、移動する必要がある。
暗い視界のせいで状況が分かり辛かったが、アキラもようやく事態を飲み込めてきて顔を青くさせている。
「ここ……ここ、行くんですか……」
「他にないからな。童心に帰って、ケン、ケン、パッと行けば大丈夫だろう」
「童心に帰って、やる事が命がけの遊びですか……」
アキラは相変わらずの青い顔を、左右に振って抗議して来たが、何しろ他に道がないなら、行くしかないのだ。
そんな事を言っている間にも、アヴェリンは早々に先導役として剣山を次々と渡っていく。
気軽な調子でホイホイと渡って行くが、脆い石質なので、それだけで崩れる場所もある。
その後にルチアやユミルも付いて行った事で、二人目が通った時点で大きく崩れ、雲海の中に頭を隠す場所も出てきた。
あまり悠長にしていては、取れる選択肢が狭まっていってしまうようだ。
場合によっては一息で飛び越せない足場も出て来て、待つ毎に難易度が上がっていく事になってしまう。
「ほら、行け。今更、命を惜しんだりしないんだろう?」
「惜しまないにも、状況ってものがあるでしょう? ミレイユ様の為ならまだしも、足を滑らせて失う命なら、惜しんで当然じゃないですか……!」
その理屈もよく分かるが、進まないというなら、結局同じ事だ。
さっさと進め、と面倒そうに顎先を突き出すと、アキラは意を決して足を踏み出す。
一度跳べば、不安定な足場に長く留まってる事は出来ない。
バランスを崩す事にもなるし、次々と移った方が、むしろ安全だ。
だが、それが分かっていても、崩れた足場がある以上、下手な所で孤立しないように先読みして動く必要もあった。
こうなる事が分かっていれば、一番にいアキラを先行させていたのだが、と悔やむも気持ちも沸いて来る。
だが、道の先を行く者には、露払いの役も兼ねている。
進んだ先に何が待ち構えているか不明、という状況で、先に到着した者は危険があれば安全を確保しなくてはならない。
だから、それはそれで危険である事は変わりない。
先行した者は単独で戦わなくてはならないし、その間にやられてしまっては元も子もない。
実力者しか先行できない事実を考えれば、アキラを先に任せる事は、やはり出来なかったろう。
となると、アキラには後発で苦労して貰うしかなかったのだ。
ミレイユはその様に締めくくって、アキラの後ろ姿をぼんやりと眺めつつ、その後に続いてを移動を始めた。
そのアキラは魔力制御が乱れている所為で、足裏へ上手く魔力を集中させられていない様だ。
その所為もあっての事だろう。
アヴェリン達三人が通った後と比較して、足場の崩れ方に明らかな違いがあった。
あの異常な脆さは、魔力の反発を受けて生じていたとしたら……。
この辺りの岩は、特別魔力に弱い石質を持っているのかもしれない。
それが念動力で掴んだ際にも、影響を及ぼす事になっていたのだろう。
そう考えると、意外なほど脆い石質にも納得できる。
ミレイユは試しに、足裏へ伝える魔力を極力少なくして足場を蹴ってみると、脆いとばかり感じていた足場は、しっかりと反発を返して跳ばせてくれる。
豆腐の上で跳ねる様な、繊細で気を使う制御をしなくても良くなり、気楽な気持ちで足場を移れる様になった。
アキラは相変わらず危なっかしい跳び方をしているが、体幹はよく鍛えられているからか、その都度なんとか持ち直す事に成功している。
今のアキラに、後ろから魔力制御の助言をしても、あまり良い結果を生みそうになかった。
返って混乱してドツボに嵌りそうなので、横目でその姿を見守る事にした。
選んだ足場の都合で、今や後ろではなく離れた右側へ――並走するように移動する事になり、そうしながらミレイユも次々と足場を移っていく。
他の三人はどうだろうと、視線を移せば、題なく進んでいるのが見えた。
アヴェリンに至っては既に剣山地帯を終え、広場の様になった足場で待っているようだし、他の二人も程なく行き着く事になりそうだ。
「あっ、あっ……!」
腕を大きく振ってバランスを整えようとしているが、あの様子では遅からず落ちる。
ミレイユが念動力で補助してやろうと制御を始めたが、そのとき突風が吹いて、アキラは至極アッサリとを足場から落ちてしまった。
「あぁぁぁ……!」
「ば……かっ!」
呻くような声が、ミレイユの口から漏れる。
アキラの姿は一瞬で消え去り、魔術を行使するより早く、雲海の下へと消えてしまった。
顔を顰めて歯の隙間から息を吐き出し、とにかくアキラが消えた足場まで移動しようとした時、雲海の中から手が生えてきた。
「……ぁぁぁっ……あれ? ……全然、低い。これ、足着きますよ」
「なんだよ……!」
ミレイユは盛大に息を吐きながら肩を落とした。
身体を固くしていた緊張が、それで一気に抜けていく。
今もアキラは手を上に挙げて振っていて、自分の無事をアピールしている。
とにかく、何事もなく無事だったのは喜ばしい事だ。
とはいえ、注意しなければならない事もある。
雲海の下で起き上がり、そのまま雲海の中を進もうとしているアキラには、少し諌めてやらねばならななかった。
「アキラ、そのまま進むのは止めろ。上に登れ」
「……どうしてです? このまま師匠の所まで行こうかと……」
「その雲海のどこかで、大きく口を開けた崖が待っているかもしれないからだ。その上で生還する自信がないなら、素直に上がって足場を移って移動しろ」
「あっ、は、はい! 了解です!」
アキラの足場周辺が安全だからといって、他に危険はないと思い至らなかったらしい。
素直に手近な足場へよじ登ると、再び同じ要領で飛び跳ねて移動していく。
しかし、先程までの身体中に力が入った固さはなく、気軽な調子で移動していた。
落ちた所で死なない、と分かったからの大胆さだが、アヴェリン達が待つゴール付近は、地上まで真っ逆さまに落ちる崖になっている可能性だってあるのだ。
その可能性を示唆した筈なのだが、至って気楽な調子のままアヴェリンの傍へ辿り着き、そして到着した途端、アヴェリンに頭を叩かれていた。
ユミルも同じ様に頭を叩いているところを見ると、心配させるな、とでも小言をぶつけているらしい。
アキラに遅れる事しばし、ミレイユも問題なく踏破して、改めて振り返り剣山アスレチックを眺めた。
これが夜でなければ、そして雲がなければ、変な苦労をしない場所だったのかもしれない。
皮肉げな視線を剣山に向けてから、ミレイユは改めて尾根の移動を再開した。
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