竜の谷 その4

 竜の谷の道行きは厳しい。

 そもそも、人が歩けそうな道、というものが存在していなかった。

 稜線の上を歩く事が前提みたいなもので、しかも途中で明確な行き止まりがあり、断崖絶壁を飛び越えなくてはならない場所も多い。


 ルヴァイル達の、見つからない場所に陣を敷かなくては意味がない、という考えは分かる。

 だが、目的地までの行程を考えると、嫌がらせの為にあの場所を選んだのではないか、と邪推したくなった。


 ミレイユは改めて崖の先に立って、谷と谷の間を見た。

 高さは計るまでもなく、雲が下にある時点で落ちれば命がない。そして次の谷まで、優に三十メートルは超えている。


 周囲を見渡しても迂回して行ける道もなく、山頂から山頂へ飛び移る様なものだった。

 今は無風に近いほど風は柔らかだが、またいつ風が吹き荒れるか分からない。

 それに――。


 既に空は藍色へ染まり、日が落ちようとしていた。

 暗くなってからの移動は自殺行為だが、同時に留まって休息するには、絶望的に向いていない場所しか周囲にはない。

 一度下に降りて、どこか平地を探す方が賢明だろうか。


 崖越えのリスクも、それなりにある。

 降りること自体もリスクだが、崖下までどれほど距離があるか分からないのも、またリスクだった。

 降るというなら、次は隣の崖まで移動し、そして今度はまた登らねばならない。


 雲海より下に竜の巣があるなら、そちらを転移先として選ぶだろう。

 そうでない、という事は、尾根を伝った先にこそ、目的地があると考えるべきだった。

 ――あるいは、そもそも道を間違えたか。


 その可能性を、考えない訳にはいかない。

 遺跡への道もまた、道なき道を行くに等しかったから違和感もなかったが、道が途切れている時点で、違う道を進んでいたと気付くべきだったろうか。

 ミレイユが崖下を見つめながら思い悩んでいると、後ろからユミルが声を掛けてきた。


「何かおかしな事でもあった? ドラゴンでも襲って来そう?」

「いや、そういう事じゃない」


 実際、当初雲海の中に見えていた影も、今ではすっかり姿を消した。

 気配も感じ取れないので、どこか別の場所へ移動したと見るべきだろう。


「単に、この道が正解なのかと疑い始めただけだ。この崖を越えて行くのが正解と考えるより、来た道を引き返した方がマシに思える」

「それはまぁ、確かに思って当然だけど……」

「険しい道とも聞いていたし、人が歩ける様な場所じゃない、とも言ってた気はするが……これは普通、死ぬ道だろう」


 ミレイユは崖下を見つめながら、腕を組んでムッツリと口を閉じた。

 眼下に広がる、どこまでも続くかに見える雲海と、所々山頂が突き出して見える光景は、掛け値なしに美しい。

 藍色と茜色のコントラストが雲に描く光のグラデーションは、いつまでも見ていたいと思えるものだ。


 しかし、だからこそ崖下がどうなっているかが分からない。

 実は雲海の下に、すぐ歩ける開けた道などがあるかもしれず、それを考えるならこの道で問題はない。

 そして、雲のない日ならば、迷う事もなく道を見つけられたかもしれない。


 そう考えてしまうと、一概にルヴァイルを責める事ばかりも出来なかった。

 雲がない日を前提として考えていたのだとしても不思議ではないし、そして無理ならば、一度引き換えして晴れを待つだろう、という常識的な考えでいたとして不思議ではない。


 だが、そうしたミレイユの予想を投げ捨てる意見を、ユミルはあっけらかんと笑いながら言った。


「いやアンタ、そうは言うけど、こんな事で死ぬなんて、割と想像できないわよ。崖から足を滑らせたとしても、どうせ何とか対処するでしょ?」

「それは……、そうだが。こんな事で死んでやるつもりないしな」

「多分だけど、それってルヴァイル側としても共通認識だと思うのよね。そもそも頑丈だし、あの手この手で生き残る。この程度なら、人にとっての登山道ぐらいにしか見てないんじゃないかしら?」

「それはそれで忌々しいな。……納得出来ないが、理解はした。じゃあユミルは、このまま進むべきだと思うか? 一応、雲海の下には歩き易い道があるかもしれない、という可能性も残されてる訳だが」


 ユミルもまた、崖下を見つめながら、悩ましげに息を吐いた。


「……難しいところね。尾根伝いで行ける様にはなってるとは思うけど、賭けになるのは間違いないし。ちょっと見てくる、が出来る状況でもないしね。暗くて見えないっていうのもあるし、それなら一度引き返して、邸宅で夜が明けるのを待った方が良さそうよ?」

「……ルチアは、どう思う?」


 後ろで感知を使って警戒していたルチアは、問われて首を傾げ、顎先を掴む。


「危険だ、という意味では間違いなくそう思うんですけど……。でも、『遺物』の起動を察知されていたら、時間的余裕がどれ程あるのか予測つきませんし……。オズロワーナを使った陽動も、どれほど有効に働いているか、予想付かない状況です。足踏みしている暇はない気がしますね」

「結局、そこなんだよな。私の姿を今なお探している最中なら、尚のこと悠長にしてられない。ドラゴンの異変も早晩知れる。そこに注目すれば、私の存在にも気付くと見るべきだ」

「……では、やはり強行しますか?」


 そもそも、明かり欲しさに一夜明かすのも、雲が消えるのを待つのも、選べる選択肢ではなかった。

 安全を考えるなら、と思うが、安全を考えていられる余裕はない。

 ミレイユは、目線を崖下からルチアに戻して問う。


「ドラゴン達の気配は何処にある? この先にいるのは間違いないか?」

「ちょっと待ってくださいね」


 そう言って、ルチアは杖を両手に持って集中を始めた。

 初級魔術という縛りがなければ、ルチアの感知から逃れられる者は早々いない。


 広範囲に感知の波を撒き散らすゴリ押しでも、同じ事が言えるだろう。

 しかし、初級魔術での感知となれば、細く脆い糸を伸ばす様にしなくてはならない。


 一定方向しか向けられず、伸ばすにしても時間が掛かった。

 ルチアの腕前は信頼していても、使用する術によって効率はどうしても落ちるのだ。

 だから、ただ辛抱強く結果を待っていると、やがてルチアが目を開いて断言した。


「居ます。この先で複数のドラゴンを確認しました。更に奥にいるかまでは分からなかったですし、巣があるかどうかも分かりません」

「それだけ分かれば十分だ。今のドラゴンは、若い個体であっても話が通じると思うしな。獣の様に、考えなしに突っ込む事だけはしないだろう」

「……ですかね」


 その獣の知能と変わりないドラゴンばかり見てきたルチアからすると、素直に頷けないところらしい。

 それも理解できるが、仮に話が通じなくとも、他にもドラゴンはいるだろう。

 最古の四竜へ案内して貰えたら、それが最も簡単で有り難いが、きっとそうはならないとも理解している。


「そういう訳だ。強行するぞ」


 ミレイユがアヴェリンとアキラにも目配せすると、両者から首肯が返って来る。

 正面に向き直ろうと顔を動かした時、視線の先で陽の光が雲海の中へ沈んでいくのが見えた。

 夜の帳は完全に降りつつあり、崖の先も視認が難しくなる。


 渡るというなら、完全に陽が落ちるより早く渡り切ってしまいたかった。

 ミレイユが顎先を突き出す様に崖を示すと、まずアヴェリンが走り出し、数歩遅れてアキラも走る。十分な助走を付けて跳躍し、遥か先の崖へ身体を投げ出した。


 空中にいて、かつ距離があるとなれば、少しの風で着地点がずれる。

 ミレイユはそれを補助修正する為に念動力を駆使し、目標どおりの場所へと着地させてやる。

 二人が成功させたとなれば、向こう側の安全は確保された様なものだ。


 ルチアとユミルもそれに続き、ミレイユもまた、自らを支援魔術を使い、補強した上で跳躍した。

 二人の後ろを一拍遅れて付いていく形になり、風で逸れる事があれば修正しようと思っていたのだが、彼女たちは問題なく着地する。


 ユミルが横に動いて着地点を空けてくれて待ち構え、ミレイユもそこへ着地しようとしたのだが――その瞬間、強い風が吹いて、ミレイユの勢いを止めてしまった。


「……おっ、と……?」


 咄嗟に念動力を駆使し、崖の先端を掴んで自らを引き上げようとしたのだが、石質は脆く、引っ張る力に耐えられず崩れてしまった。

 あとたった数歩の距離が足りず、目の前で壁が降ろされたかのように落下方向が変わる。


 ――どうする。

 咄嗟に視線を巡らせて利用できるもの、掴めるものはないかと探したが、雲海の上には突き出た岩以外なにもない。どこを掴もうと先程の二の舞いだろうから、今更打てる手もなかった。


 せめて復帰し易い場所に落ちられれば良いのだが、と諦めの境地に至った瞬間、ユミルが身体を投げ出しながら手を伸ばしてきた。

 咄嗟にその手を掴むと、今度はユミルの足をアヴェリンが掴む。


「――はぁい、よっと! 掴まえた」

「あ……っ。あぁ、助かった」

「でしょ、これっきりよ?」


 ユミルが悪戯好きそうな笑みを浮かべ、ウィンクをして笑う。

 アヴェリンは足を踏ん張ろうと力を入れていたが、その踏ん張る力が原因で、先からヒビ割れが生じ、崖先そのものが落ちようとしている。


 アキラもアヴェリンの腰を掴んで、綱引きの要領で引き留めようとしたが、石質の都合で崩れそうになっている足場はどうしようもない。


 それをルチアが咄嗟に魔術を行使して、アヴェリンの足ごと周囲の岩場を凍結させる。

 足の周りだけでなく、広範囲を巻き込む事で安定化させ、アヴェリンも足元を気にする必要がなくなった。

 大胆に力を振るい、腕を振り上げユミルを一本釣りの要領で引き寄せる。


 それにつられてミレイユも浮き上がり、動きに逆らう事なく、持ち上げられるままに身を任せた。

 丁度よい高さまで帰って来たところで手を離すと、慣性の動きを利用し、軽やかな身のこなしで着地を果たす。

 それから一拍の間を置いて、ちゃっかり退避していたホワソウが、再びミレイユの肩へと降り立った。

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