竜の谷 その3

 浮遊感は一秒にも満たなかったが、その感覚が消えても視界は依然、暗いままだった。

 しかし、付近にアヴェリン達がいる事は気配で分かる。


 陣に乗ったままの配置で彼女らがいる事は分かるから、どうやら単に光が一切差さない場所にいるだけのようだ。

 何かの偶然で陣が発見されないよう、手を打った結果だろう。


 とはいえ、あまりに何も見えないのなら、この場所は完全に密閉された空間という事になる。空気の淀みも心配になるところだった。

 ――罠だったか?


 一瞬、その様な考えも浮かぶが、謀殺したいだけなら、もっと別の機会もあったろうし、何より迂遠だ。

 自らを危険に晒し、壮大な嘘をぶち撒けて、更にドラゴンを味方に付けるよう助言した上で、陣に乗せる必要はない。


 ミレイユが冷静になろうと努めている間にも、ユミルは既に動いていたらしい。

 何やら衣擦れの音が聞こえたかと思うと、しばらくしてコンコンと何かを叩く音がする。

 拳を軽く握って壁を叩いている様でもあり、そして、その音から材質が石である事も分かった。


「あの……?」

「いいから、今は黙ってろ」


 アキラから周囲を伺う声がしたが、有無を言わさず黙らせる。

 何度となく、コンコンと叩く音が続いていたが、ある地点でその音が変わる。

 今までとは少し甲高いものに代わり、そしてペチペチと手の平で叩く音が響いた。


「アヴェリン、ここよ。ここ、叩いて。でも加減してね、外がどうなっているかまでは分からないから。まずは小さな穴でも開けて、様子見て」

「いいだろう」


 直前まで諍いがあったとはいえ、ここでそれを持ち出す程、互いに狭量ではない。

 アヴェリンは素直に応じて動き、自分でも改めて場所を確認しようと岩壁を叩く。

 ユミルの時より幾らか重い音が響いたと思うと、次にはドゴン、という破壊音が響いた。


 パラパラと細かな石が落ちる音と共に、壁の一部がヒビ割れ、一条の光が差す。

 夕方から宵闇が降りようとしている橙色の光が洞窟内に入った事で、ミレイユ達がどこにいるかを教えてくれた。


 そこは自然窟を利用した一室のようだった。

 周囲は五メートル四方と狭いもので、床に敷かれた陣以外、他に見るべきものはない。

 室内には埃も溜まっていて、長い間だれも入っていない事が分かり、そして出入り口は後から魔術的に塞いだ事も分かった。


 土や石を寄せ集め、それらを固めた上で、入り口に蓋をしたものらしい。

 周囲の岩と色の違いがあったからこそ分かった事だが、その差異も僅かなもので、遠目からでは何かが塞がれているとまで気付けないだろう。


 アヴェリンが更に拳を打ち付けると、更に穴が拡がっていく。

 最終的には、釘でも打ち付けるかのような気楽さで、ひと一人が十分通れる大きさまでに拡がった。

 最後まで見届け、さて出ようと思ったところで、ユミルから呆れた声が漏れる。


「せめて武器使いなさいよ、武器を。なんで素手なのよ」

「繊細な力加減で穴を開けるなら、素手の方が良いからだ。なにか文句でもあるのか」

「いえ、別に……」


 何とも言えない表情で顔を逸し、それから思い付いたかのようにアキラへ顔を向け、今しがた作られた出口へ指を向ける。


「アンタも、もうあれ出来るの?」

「無理に決まってるじゃないですか……」


 いつか聞いた様なやり取りを聞き流しながら、ミレイユは二人の間を縫って外に出る。

 そうして、まず正面に見えたのは、どこまでも広がる様に見える雲海だった。

 雲がうねる様に左から右へと流れ、厚い雲が折り重なる様は、まるで絹のようにも見える。


 そこに茜色の空が柔らかい光を当てていて、見事なグラデーションを描いていた。

 思わず魅入って、少しでも前で見られないかと歩を進めれば、地面に幾らも余裕がない事に気付く。


 足元は、人間が二人なんとか並んで歩けるだけのスペースしかなく、それが左右へ続いている。

 数歩、前に進んだだけで崖になり、当然落下予防の柵などない。


 髪と帽子を大きくなぶる風は、時として勢いを増して吹き荒び、直立しているだけでも苦労がある。

 いつまでも入り口を塞いでいる訳にもいかず、ミレイユは横へ逸れてアヴェリン達を待った。


 既に幾つもの冒険を共に潜り抜けてきた者達だから、出てきた所で感嘆めいた息を吐くものの、場を弁えて直ぐに脇へどいて行く。


 最後に出てきたアキラは、流石にその境地に達していないらしく、呆然と雲海を見つめていた。

 言葉にならない感動が巡っている様で、うっすらと涙さえ浮かんでいる。


 実際にミレイユも、この光景を見た瞬間、一瞬我を忘れるところだった。

 それほどの絶景だから、楽しませてやりたい気持ちは山々だが、時間は待ってくれない。


 ミレイユが何か言い掛けようとした瞬間、突風が吹き荒れ身体を傾けた事で、アキラは我に返った。

 思わずたたらを踏み、そして自分がどういう場所に立っているかも認識し始めた。

 感動に身を震わせていた時とは打って変わって、青い顔で壁際に背中を張り付く。


「こ、こんな場所に繋がってたんですか……!」

「そうだな。だからこそ、陣を隠して置けると思ったんだろうが……。それにしても、よくよく山に縁がある」

「雪がないだけ、まだましかもね。足を取られる心配もないし」


 ユミルがあっけらかんと笑って、周囲を見渡した。

 ここがどこかは分からないが、遺跡のあった山より、もっとずっと南の方、というのは間違いないだろう。


 ミレイユも竜の谷について詳しく知らないが、北にトラゥズムと呼ばれる峻峰があったように、南にはドラゴンの巣窟である、ソモジューナという険山がある事だけは知っている。


 時折、野にドラゴンが現れるのは、その多くが竜の谷から漏れ出るからだ、と聞いた事があった。

 中にはそのまま別の山に居着いたりと、別の生態系へ組み込まれる事があり、討伐依頼が出されるのも、そういったドラゴンが多い。


 竜の谷へ進んで入る者はいない。

 それは自殺と何ら変わらない行為で、ドラゴンスレイを夢見ても、竜の谷へ討伐に赴く事だけはしないものだ。

 その末路が、いつの世も凄惨な結果である事は、誰もが知っている。


 この山では、小物の魔獣代わりにドラゴンと遭遇するのだから、十分な腕前がある、というだけでは到底足りないのだ。

 当然、一級冒険者というだけでも全く足りない。


 アキラも当然、そのくらいの伝聞は聞いているだろう。

 ひとたび冒険者としてギルドに身を置けば、気にするつもりがなくとも、その手の情報は入って来るものだ。


 アキラの方を見てみると、ブルブルと震えていた。

 風は強く、幾らでも体温を奪っていきそうだが、そればかりが原因でもないだろう。

 ミレイユは挑むような目付きで尋ねる。


「……怖いか?」

「怖いです! でも、逃げたい怖さじゃありません! 遂に来たのか、っていう気がします!」

「ふぅん……?」


 口にした事は曖昧だが、怖さを自覚できているなら、危ういという訳でもないだろう。

 冒険者は勇猛で、時に蛮勇も振るうが、恐怖を感じなくなったものから死んでいく。


 危機意識というものは、その土台に恐怖なくして有り得ない。

 それを麻痺させるという事は、挑むべき敵と、挑める敵との境を曖昧にさせる。


 だが、今のアキラなら大丈夫そうだった。

 その目には緊張も見えるが、自棄は見えない。やる気は見えても、及び腰ではない。


 この様な状況にあって余裕を見せられるのは、一級を超えた逸脱者以外許されないものだが、アヴェリン達でさえ、緊張感と警戒心を解いていない。


 心の片隅に恐怖を残し、それを制御しているから危機感と余裕を両立させる事が出来ている。

 彼女たちは恐怖を感じていないのではなく、それを御する力と見せない努力が身に付いているだけなのだ。


「……まぁ、いいだろう」


 ミレイユが頷くと、ユミルが好意的な笑みを浮かべてアキラの肩を叩く。

 それでバランスを崩して恨めしそうな目を向けたが、ユミルとしては、むしろその態度を好ましく思っているようだった。


 ミレイユはどちらに進んだものか、迷いながら顔を左右へ向け、左側の雲の中で何かが動くのを見つけた。

 更によくよく注視してみると、雲海の中で何かが泳いでいる。


 距離の都合と影しか分からない事もあって正確ではないが、巨大であるという事だけは推測できた。

 ただ影の大きさや動きが不規則に乱れるので、泳ぐというより溺れているようにも見える。

 アヴェリンも目敏くそれを見つけて、目を鋭く細めた。


「雲海の中を泳ぐ生物など、聞いた事がありませんが……。魔獣、魔物の類と考えるのも、どうにも……」

「そうだな。あれほど巨大な鳥がいると聞いた事もないし、とすれば……」


 ミレイユが知る鳥の大きさは鷹程度のものだ。

 未だ大人しく肩の上に乗るホワソウとて、大きい鳥に分類される。

 目測で家屋より大きそうな鳥というのは、観測史上存在しないと考えて良い。


「あれはドラゴンと見て良いのかな……」

「かつての姿を取り戻したドラゴンですか……。それにしては、動きが妙なのは何なのでしょう」

「……つまり、今まで空など飛んだ事がなかった訳だ。普通は幼体の状態で親から習ったりするものだろうが、教える親すら知らないのだから、手探りで飛んでいる状態……と考えれば、しっくり来そうなものだが」

「なるほど。そう考えて見てみると、あの溺れているかに見える様子も、納得できそうなものです」


 アヴェリンの納得と同時に、ルチアも首を傾げながら雲海の奥を見つめる。


「外を悠々と飛び回らないのは、神の目を意識していると考えて良いんでしょうか。つまり、どういう意図で姿が戻ったにしろ、リスクを考えて未だ隠れる事を選んでいる、と……」

「長く生きたドラゴンは、人間並の知能を持っていると言うじゃないか。そうであればこそ、リスクを天秤に掛けて考えられるのかもしれない。意味不明な状況では、慎重にもなるだろうさ」


 それもあるけど、とユミルも雲海の奥と、その動きを見つめながら言った。


「まず前提として、姿を元に戻したのは、神の仕業だと考えるんじゃないかしらね。単純に、そんなこと出来そうな存在って他にいないし。かつてはその提案を脅しにも使われてる。だから、神々からの接触があれば対応できる様、待ち構えているんじゃないかしら」

「……そう考えていても可笑しくないな。翼という武器を取り戻して、それで何の備えもしないとは考えられない。攻め込む事だって視野に入れてる、強硬派もいそうだしな」

「そうよね。……つまり、アレって現在、練習中って見て良いのかも」


 ユミルが指差した向こうでは、一つの影しか見えないが、進むに連れてもっと姿を確認できるようになるのかもしれない。

 そして、堂々と爪を研いでいる所を見せず、雲海の中で隠れるように磨いているのは、敵愾心を表に出さない計算高さがある故か。


「人間並に考えられるドラゴンが、かつての知恵を取り戻したのなら、人間以上にものを考えてもおかしくない。どこまで考え、何を考えているかも不明だが、何しろ今はまだ、姿を取り戻して間もない状況……。混乱も大きい筈だ」

「そうね……。最古の四竜が、どう出るつもりかも不明なワケだし……。交渉は想像以上に、厄介なものになりそうね」

「あぁ、力付くで言うこと聞かせるなんていうのは、最悪の選択だろうしな……」


 何より神の居場所へ辿り着くには、その背と翼を借りるしかない以上、敵対するような態度は取れなかった。

 下手に出る必要はあるだろうが、下に見られるのも駄目だ。

 難しい綱渡りをする必要があるだろう。


 ミレイユは雲海の上を一通り見渡してから、右側に雲海の中を泳ぐ影がない事に気が付いた。

 もしかすると、左の方にこそドラゴンが集中しているかもしれず、ならばきっと古参のドラゴンもその奥地にいる。


 偶然かもしれないが、今は手掛かりも他にない以上、踏み出す切っ掛けとしては十分だった。

 ミレイユが腕を振ってアヴェリンを先行させると、それに続いて歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る