虎穴に入らずんば その8
ナトリアの顔が青い事からも分かるとおり、その笑顔が虚勢だとは直ぐに分かった。
何しろ、その足が僅かに震えている。着ている服からも分かり難いが、ミレイユの観察眼を誤魔化せる程、虚勢が得意という訳ではないようだ。
とはいえ、今まで見せていた平静が、あくまで演技だと分かって安堵した。五割で失う命と知りながら話し合いを続け、続ける程に高まるリスクを負うのは、喉元に刃を突き付けられる以上の緊張だろう。
ナトリアが神を盲目的に信じているかは知らないが、狂信者の類であるのは間違いない。
彼女は細い綱渡りを成功させた様なものだが、安全を保障された訳ではなかった。
むしろ、その逆だ。
結界という物理的に身を守るものから解放されれば、殺されないまでも、攻撃を受ける可能性は強まる。
特にユミルが見せた敵意を知っていればこそ、手足一本程度の損失は考慮せざるを得ないだろう。そう思えば、彼女の顔色の悪さも納得がいった。
このパターンで結界を解除された時、攻撃を受ける可能性はどれほど高いのだろうか。
何が起こるか不明よりも、知っているからこそ恐ろしい――そういう事も有るかもしれない。
ミレイユはそれぞれに目配せさせて、手出し無用と伝える。
未だ気を許したつもりもないし、互いの勝利条件を確認し合わなければ信用も出来ないが、そのつもりがある、と示唆するぐらいは見せておかなければならない。
裏切るつもりがあるのは、お互い様だ。
現状がルヴァイルにとって都合が良い展開だとしても、ミレイユにとってループを抜け出す手段として、気に食わなければ反故にする。
ルヴァイルが何としてもループに落とすつもりでいるというなら、ミレイユも何としても脱却するよう動くだけだ。オミカゲ様が見えていなかった事も、今のミレイユには見えている。
――可能性の話はしたくないが……。
成功の公算は低いにしろ、やってみる他なかった。
ミレイユはナトリアに向けていた視線を切って、代わりにルチアへと向ける。
ナトリアが何を察したものか、その肩をびくりと震わせた。
「ルチア、茶を用意してくれ。先程ヴァレネオ達と使ったテーブルで、少し話す」
「大丈夫なんですか、そんな事して?」
「良いかどうかも含めて、そこで考える。いい加減、立っているのも見張っているのも疲れてしまった。……そういう訳だから、ナトリアも付いて来い」
「あ……、う……」
そこで初めてナトリアが動揺を見せた。
逡巡するのも初めての事で、どうすれば良いのか分からない様に見える。ミレイユが歩き出しても動こうとしないナトリアを見て、ユミルが乱暴にその背中を小突いた。
「早く行けっての。アンタに断る選択肢なんてあると思う? ……あぁ、勿論拒否してくれても良いわよ。アタシはアンタを攻撃できる、大義名分ってやつを常に求めてるから」
「そう脅かしてやるな。何もしやしない。お前が何もしない限り、そしてお前の仲間が襲撃に来ない限りは」
「は、は……ぃ」
か細く返事をして、今度こそ大人しくミレイユの後を付いてくる。ミレイユとの間にアヴェリンが素早く身を滑り込ませ、ナトリアの後ろをユミルが刺さるような視線を向けつつ追った。
上座となる席にミレイユが座ると、その両端にアヴェリンとユミルが座る。
最も遠い、そしてミレイユの正面となる席にナトリアが、おずおずとした仕草で腰を下ろした。その姿を見ていると、これまでの平然とした姿が全くの虚像だと思えて来る。
これは果たして、これから攻撃される事を確信しているから見せる姿なのだろうか。
ユミルを激昂させる何かを言わなければならない、そういう事なら納得だ。ミレイユに攻撃する意志も今のところはないが、何を言われたところで我慢できると保障できない。
その様子をつぶさに確認しつつ、ミレイユはルチアのお茶を待つ。
沈黙が続く中、それほど時間が掛からず持って来て、それぞれの前に茶器を置いてから、ルチアはユミルの隣に腰掛けた。
それぞれがお茶に口を付けて、ホッと息を吐いたが、ナトリアは青い顔のまま手を付けない。
不審にしか思えない行動だが、既に平静を取り繕う努力も放棄しているように見える。何を言うつもりか、何をするつもりか、その一挙手一投足を見逃さぬつもりで声を掛けた。
「……さて、私は最低限の配慮を示したつもりだ。ルヴァイルと対面するには、お前を帰す必要があるというなら、そうさせるさ。待っているのは罠かもしれない、それも含めて飲み込んでやる。結局のところ、私達が選べる行動も多くない」
「は……、それについては……」
「毒など入れてない、一口飲めば落ち着くんじゃないか? そんな事で正しく判断を下せるのか?」
「は……、えぇ……そうですね」
ナトリアはカップに手を伸ばし、取っ手を掴むとカチャカチャと耳障りな音を立てた。
青い顔を大仰に顰め、悔いた表情を見せる。
ユミルが小馬鹿にした様に鼻を鳴らすと、ナトリアの表情は更に暗くなった。
それでようやく理解した。緊張している事、動揺が大きい事、それを少しでも見せたくなかったのか。確かに弱い姿を見せたくない気持ちは分かるが、緊張している事など既に知れている。
隠せているつもりだったなら、余りにミレイユを甘く見過ぎだった。
ナトリアは一口だけ口に含むと、やはり耳障りな音を立ててカップを置いた。
ミレイユは思わず、目を鋭く細める。
何をそこまで彼女を緊張させるのか。五割の死すら飲み込んで、ミレイユの交渉役として臨んだ彼女だ。拷問が恐ろしくない人間などいないだろうし、これまでの虚勢も大したものだったが、ここに来て完全に化けの皮が剥がれるというのも、意外に思えた。
確約された痛みが恐ろしいのか、と思っていたいたが、むしろこれは逆かもしれない。
全く、何も予定になかったから恐ろしいのか。こうなる予想が一つとして立っていなかったから、一切の見通しが立たないから恐ろしいのかもしれない。
つまり、彼女は今、神の権能の庇護から外れているのだ。
神さえ見通していない例外が、今まさに起こっている。それが恐ろしいのかもしれなかった。
ミレイユは紅茶で口を湿らせて、視線を合わせまいと、やや下を向いているナトリアに声を掛ける。
「こんな事態は予測すらされていなかったか? 未知が恐ろしいか」
「――はっ、あ、いえ……」
「お前にとっては、己の死よりも、確約された拷問よりも、神が見てない未来の方が恐ろしいんだな」
「それは……ッ! ……いえ、仰るとおりです」
ナトリアは弁明しようと口を開いたものの、直ぐに肩を落として首肯した。
「随分、素直でしおらしいコト……」
「今まで一度も茶を振る舞う世界など無かったのか、あったが極小確率だから教えていなかったのか、それで話は変わって来そうだが……」
「今更、確率の大小を言っても仕方ないじゃないの。アタシたちにはその数字が正しいかなんて、理解できないんだし」
「それもそうだな」
ミレイユは謝意を示すような頷きを見せて、ナトリアへ向き直る。
「どちらにしろ、私にとってはこの道一本しか見えていない。他に有ろうが無かろうが、関係ない事だった。だが、アイツにとっては違うようだな」
「ナトリア、というより……ルヴァイルにとって、と言う方が正解な気がしますけどね。――ともかくも、帰す事は決定なんですよね?」
ルチアが小首を傾げて尋ねて来て、ミレイユはカップを口に運びながら頷く。
「……そうだ。懸念があるなら聞くぞ」
「懸念と言う程では。これが罠であれ、他の大神の思惑を躱し切れないのであれ、ミレイさんに付いて行く事には変わりないですから。それ以前の問題でして……。ここで一緒に、お茶を飲む必要ありました? あそこで帰参させれば良かったのでは?」
「最もだが、コイツの様子が気になった。危害を加えられると怯えていたのか、仲間が来る事で逆上して殺されると思っていたのか、それとも他に理由があるのか。それを探りたいと思ったが……。どうやら、どれでも無いようだしな」
ミレイユの答えに納得して、ルチアもナトリアへ顔を向けて頷く。
「一応、今のところ……上辺だけとはいえ、協力関係を築く姿勢を見せなければなりませんものね? 簡単な饗し位は、してやらねばなりませんか」
「そうだな。……あぁ、そうだ。一つ……、いや二つ、聞いておかねばならない事が残っていた」
ミレイユが言うと、ピクリと肩を動かして、ナトリアが顔を上げた。
強い警戒心を伺えるが、むしろそれを持ちたいのはこちらの方だ。
「我々を森へ追い込んだ理由は何だった? これは別に、カリューシーが指定した事じゃないんだろ? 大元ではアイツも、ルヴァイルの指示で動いていた筈だ。罠以外で、敢えてここを指定した理由を知りたい」
聞いた内容は、ナトリアにとって既知のものだったらしい。
瞳を
「はい、それはスルーズの死体を確実に処理する為、そして私に偽装殺人を施す為です。交渉が失敗したと思わせる必要があり、本当に失敗したなら、実際死体は捨てられ燃やされます。成功したなら、スルーズに私と同じ服を着せ、それを捨てて燃やし予定でした。それで幾らか目を誤魔化す事も出来ますので……、その一石二鳥を狙った、というところで……」
「この森に追い込んで、やる必要があったか……?」
「秘密裏の密会をするには、都合が良かったんでしょ。外敵が忍んで接近するには難しい状況だし、直に確認する事は難しい。でも空から注目されてるんだろうから、交渉結果がどうであれ、失敗したと思わせる必要がある」
ユミルが解説してくれて、あぁ、とミレイユは納得した声を出した。そして、その言葉を引き継いで続ける。
「ルヴァイルは課せられた仕事を果たそうとした、そう見せたかったんだな。実際カリューシーを殺し、その上でスルーズも回収しようとする。だが失敗した、と見せたい訳だ。そして覗き屋連中には、ルヴァイルは未だ、共通目的の為に邁進している味方だと錯覚させたい、と……」
「では現在、ルヴァイルは神々の中で疑われている状況なんでしょうかね。だから、今回の働きと偽装で、裏切りはないと確信に近いものを得られると。それがつまり、スルーズの死体の始末と、貴女を殺して燃やす事と繋がる訳ですか」
ルチアも納得しながら頷いて、ミレイユはあぁ、と小さく声を上げて手を振る。
「聞きたいことの二つ目は、それで解決した。スルーズの死体はどうするのか、どう処分したいのか、だったんだが……この外で燃やすのが良いのか。……しかし、首なしの死体では誤魔化し切れないんじゃないか?」
「いいえ、そこまで気にする御歴々ではありません。私が捕らえられ、拷問の果てに首を切られ捨てられた、と誤認します」
「そうなると、お前はもう外を歩けなくなる訳だが?」
「私個人の顔を認識している方々ではありませから。ルヴァイル様の神使が一人、拷問の結果捨てられた、その部分だけ理解されるでしょう」
薄情な様だが、その部分については納得できる。
そもそも、神々からすれば他の大神の神使、その顔まで覚えている方が異常だ。よほど付き合いの深い大神同士でもない限り、付き人の如き神使の顔を覚えるものではないのだろう。
だが、それならそれで別の問題が出て来る筈だ。
ミレイユはそれを訊いてみた。
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