一方的な闘争 その9
モデスカルに限った話ではなく、この戦場は誰にとっても悪夢に違いなかった。
混乱ばかりで前にも後ろにも進めない状況で、敵が追撃の手を緩めないなど、分かり切った事だ。魔族は基本、森の中に引き籠もっているものだが、これまで進軍中に攻撃を加えてきた事も皆無ではない。
その時の為の対策もあった筈だが、魔術を主体に戦うエルフ族は森から出てこないので、ここまで大規模な魔術の攻撃は想定していなかったのだ。
奇襲の多くは狩猟を得意とする獣人が矢を射掛けてきたり、血気盛んな鬼族が武器を振り回してくるような、対処も容易い攻撃が多かった。
当然、それらは姿を隠していたとしても、攻撃の際には姿が見える。
そもそも刻印からして、その対策を施したものを用意してあった。行軍の外周に位置する兵達は、いずれもその防護を期待して配置されている。
万が一を考えての魔術防壁も展開できるので、これは森攻めの時も、そして接近する場合も役に立つと期待されていた。
だが、今回初手で行われた攻撃は、直接魔術をぶつけて来るものではなかった。それが混乱を招く、第一矢となった。
気付けば足元に霜が覆っており、冷気が足元から登ってくる。
指先が凍えるような感覚を覚えれば、背筋まで一気に凍りつくようになるまでは一瞬だった。ろくに足踏みも出来ないような密集した状況では、何かを仕掛けて来たと理解したところで逃げる事も出来ない。
モデスカルはとにかく逃げたい一心で身を捩ったが、腕一本動かせる隙間が出来たくらいで、やはり自由に動くことは出来なかった。
前方から続く悲鳴は、だんだんと近付いて来ている。
雷が鉄を撃ち抜く破裂音と、そこから逃げたい者達との怒号が合わさり、阿鼻叫喚の様相が出現していた。
「何をしている! 敵はどこだ! 見つけ出して始末しろ!」
「既にやらせています!」
前列の先端が倒れ、それで続く後列の身動きが止まったとはいえ、全ての部隊が身動き出来なくなった訳ではない。道は一直線にしか通っていないが、左右は隔てるもののない草原だ。
そちらへと逸れた者も多く、隊列を乱したまま、扇状に広がるような形になっている。
その中から反撃する部隊を抽出したのだろうが、未だに敵発見の報すら届いていない。
冷気は未だに足元を覆っており、それが容赦なく体温と体力を奪っていく。立ち止まる、という選択は、このまま氷漬けにされてしまう危険を孕んでおり、だからとにかく移動したかった。
「今は早く予定どおり野営地まで目指せ! 反撃部隊にはこのまま捜索させて、敵の足止めも兼ねさせればいい! 安全な場所まで行くのが先決だ!」
「見捨てる者も出てきますが……!?」
「助けるにしろ、こうもバラバラで混乱もしてる中、軍を立て直しながら出来るのか!? 出来るというなら、お前が今すぐやってみせろ!」
「は、申し訳ありません……!」
モデスカルの発言は居丈高で自分本位に聞こえたが、しかしこの場に留まる事を選ぶのが悪手なのは、誰の目にも明らかだった。
既に後列の部隊が被害に遭っている中、前列すら見捨てる様では、最早与えられた作戦の遂行すら難しくなるだろう。
それが分かっていても、この場で何もかも上手く好転させる手段が無い以上、徒に被害を増やさない運用をするのは、決して間違いでもなかった。
モデスカルの指示で、横合いの草原を突っ切り、大きく迂回しながら野営地を目指して進む。
鎧が凍り付き、下履きすら固くなって足を動かすのが辛い。
進軍速度が鈍いのは、疲れからではなく、身動きすら難しいのが原因だった。その遅い動きでは敵の魔手から逃げ切るのも難しい。
蛇のような長列で草原を進む中でも、背後から悲鳴が上がっていて、兵員を削り取られていくのが分かる。モデスカルの周囲では相変わらず屈強な騎士が刻印を光らせて警戒しているし、優秀な兵の多かった中列では、同じ様に刻印で防護している者は多かったが、それ以外の攻撃的な刻印しか持たない兵は成す術なく討ち取られていく。
――何故、どうしてこんな事に……!
胸中で悪態と呪詛を撒き散らしながら、とにかく前にいる兵の背中を睨みつけては腕を振り上げ、地面を足で蹴った。
重い鎧は邪魔でしかなく、せめて兜を脱ぎ捨て少しでも身軽になろうとする。
将の兜は軍の象徴とも言え、時に兜持ちという専門職すら設ける程に大事な物だ。捨て去る事は軍を投げ捨てるに等しい行為だが、モデスカルに軍を預かる矜持など無い。
責任よりも命を優先するのは、今のモデスカルにとって当然の事だった。
早くこの地獄から逃げ出したい、敵の攻撃が届かぬ場所まで逃げ出したい、そればかりが頭を巡っていたところに、背後からより大きな悲鳴が上がった。
それは悲鳴というには余りに恐ろしい、慟哭や悲嘆が含まれた声だった。
「な、何があった!?」
単に攻撃されただけでは、あの様な声は上がるまい。
隣人や友の死は堪える。それは分かるが、ならば後列が攻撃を受けた時、前列が崩れた時とて、同じ悲鳴が上がった筈だ。
明らかに毛色の違う声音は、確かめずにはいられない衝動を孕んでいる。
誰もが上げる恐怖の声を背にしたまま、逃げ続ける勇気など持っていない。それで振り向いて見た先には、亡霊とも幽霊ともつかない、恐ろしい風貌をした魔物が兵を襲っていた。
特別な暴力を振るう訳ではない。魔術を放つような事もなく、ただ両手を広げ兵たちに触れていく。それだけで兵たちは崩れ落ち、身動ぎ一つしなくなる。
糸を切られた人形のように、あるいは命の灯火を消されたかのように、唐突に体の力が抜けて倒れ伏していく。
「何だ! 何なんだ、あれは!?」
「亡霊系の魔物です! 何故こんなところに!? 死体のある場所に生まれる魔物だとしても、あまりに早すぎる!」
「あれほど悍ましいものを見るのは初めてです! ただの亡霊じゃありません! もっと恐ろしい何かです!」
口々に兵が叫んでは、顔を引き攣らせた。
遺棄されて放置された死体から生まれるのが、亡霊と呼ばれる魔物という事は知っている。
死体ならば幾らでもあるとしても、戦中の只中で生まれるなどという話は聞いた事がない。誰かが意図的に生み出したと言われた方が納得できるが、そんな魔術の存在など聞いた事もなかった。
だが、そんな事は、今はどうでも良い。
応戦しようと、あるいは近づけさせまいと魔術を放つ兵は多くいたが、その多くが効果を為していない。直撃して怯む様子はあっても消える気配はなく、むしろそちらへ標的を変えて意気揚々と襲い掛かる。
それが分かると誰もが攻撃しなくなり、とにかく逃げ続ける事に専念した。
長列の後ろから徐々に削られるものだから、同じ場所にはいられないと、兵隊は散り散りになって逃げて行く。
既に軍としての規律も規模も、その
あの様な亡霊に付き纏われるなら、どこへ逃げようと安全ではないだろう。少しでも注意を引かないよう、目立つ集団の後ろに付くより、誰とも重ならない方向へ逃げ出す方が、生存率は高い気がした。
叶うならば、モデスカルも他を振り切って別方向へ逃げ出したかった。
だが、鈍重な身の上では騎士たちを振り切れないし、集団の内側にいる自分なら見逃されるかもしれない、という打算的思いで留まる。
モデスカルは自分が何処を走っていて、何処へ向かっているかなど、まったく分かっていなかった。野営地がある場所など知らないし、どれだけ走れば辿り着くかも知らない。
だが、足を止めれば、あの亡霊に捕まってしまう。
捕まれば死ぬだけだ。
だから、とにかく逃げ切れる事を祈って、走り続けるしかなかった。
「ひぃ……っ、はひっ、ヒィ……!」
息は切れ、喉は痛み、そしてそれ以上に脇腹が痛かった。
足も痛ければ何処もかしこも痛み、頭が眩んでくる。それでも足を止める事は出来ない。この苦しみに耐えていれば、いずれ救われ、終わりもある筈だと、その願いに縋るしかないからだった。
そして、終わりは唐突に訪れる。
背後からの悲鳴はとうに消えていた。逃げ切れたのだ。
神に感謝していると、モデスカルを取り囲んでいた騎士達が、その動きを止めた。
とうとう辿り着けたのか、と救われた思いで顔を上げ、前方を確認として愕然とした。周りの誰もが、辿り着いたから立ち止まったのではない。
眼の前の光景が信じられなくて足を止めたのだ、とは一瞬あとに理解した。
それでも、いつまでも呆然としておられず、ノロノロとした足取りで近付いてく。
「……何なのだ、これは」
モデスカルの零した言葉に、返答する者はいない。
答えたくないのか、答えられないのか。……むしろ、その両方だろう。
モデスカルの目に映ったのは、野営地が全て打ち壊され、足の踏み場もないほど粉砕された木材が散乱している姿だった。
テントの類いも引き裂かれ、到底休める場所は確保できそうもない。物資も水も、本来ならそこに用意されている筈だった。
それらも全て、無くなってしまっている。
取り壊され、潰れたテントの中に、何かが残っているようには見えない。本来なら、兵を二万養うのに十分な物資が山と積まれていた筈なのだ。
だが同時に、一箇所に集中させる危険を考え、他の野営地にも細分化させて配置させていた、とも聞いた覚えがある。
その事を思い出し、先任将校へと唾を飛ばす勢いで尋ねようとしたが、枯れた喉では声も薄く、力無く尋ねる形になってしまった。
「他の野営地は……どうなってる」
「分かりません……、確認させます……」
愕然とした思いなのは、モデスカルだけではない、というのは救いに感じた。自分より頼りになる筈の将校でさえこうなら、自分はもっと情けなくても問題ない筈だ、という免罪符を得た気持ちになる。
「なぁ……、これは魔族の仕業か? 無人にしてた筈がないだろ? 冒険者を使っていた、という話じゃなかったか?」
「分かりません……」
同じ言葉しか返さない将校に、苛立ちが募る。
分からないという返答だけで済むのが、軍隊である筈がない。口汚く罵ろうとして、端材ばかりが転がる所に、複数の冒険者が同じように転がっているのが見えた。
体中が痛む事など忘れて駆け寄り、未だ意識のない冒険者を乱暴に蹴りつける。
「――おい! これはどうなってる! お前たち、見張りの役目も満足に出来ないのか!!」
意識のない冒険者に、返答など出来る筈もない。
だが怒りの矛先として分かり易い相手を見つければ、そこに暴力を振るわない、などという選択は生まれなかった。
「何の為の冒険者だ! この役立たずめ! 誰のせいで、こんな目に遭ってると思ってるんだ!!」
それは完全な八つ当たりに過ぎなかった。しかし咎める者もおらず、これまでの鬱憤を晴らせるとなれば、蹴りつける足にも力が入る。
何度蹴りつけようと冒険者からの反応は皆無だったが、蹴りつける事にも疲れてくると冷静になってくる。
「はぁ、はぁ、はぁ……! くそったれめ……!」
荒い息を整えながら背後を窺い、そしてあまりにも少なすぎる兵を見て血の気が引いた。
そこには総勢千人程度の兵しか居ない。
その彼らが、汚物を見るような目でモデスカルを無言で見つめていた。
「……なんだ、これはどうなってるんだ……。兵たちはどうした……」
「貴方が置いて来たんですよ。そう、仰りましたね」
「だが……だが、もっと居た筈ではないか! 進軍した時は二万を優に超える数が――」
「えぇ、ですから、それだけの数を置いて来たのだと言っているのです。今から部隊を整え、救援に向かいます。そういう指示でしたね」
先任将校の目に力がない。
建前で言っているのは明らかだった。軍の九割を喪い、それで現場に戻って何が出来るというのだろう。あの亡霊が待ち構えていたら、それこそ誰も生きて帰れない。
「……だが、だが、他に生き残りが野営地目指して来る筈ではないか? 必死で逃げ延びてきた同胞を、迎えてやる準備もせねば……!」
「その物資がどこにあります? 火を焚く薪はゴマンとあっても、水も、食料も、何もかも無いのですよ。ここまで徹底的に破壊した敵が、他の野営地を見逃しているとは思えません。状況は絶望的です」
「なら、なら帰ろう! もうこんな状況では、作戦を遂行しろとは誰も言わないだろう! もっと兵を補充して……そう、もっと有能な将を用意して貰えばいいんだ! 適任を使わないのが悪い、そうとも、素人を使おうというのがそもそも――」
モデスカルが弁明とも説明ともつかない言葉を並び立て、捲し立てる。
その言葉を真剣に聞き取ろうとする者はいない。ただ、この惨状をどうするのか、これからどうするつもりなのか、それを暗澹たる様で見つめていた。
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