異世界デイアート その1

 当初は危惧されていたアキラの言語学習だったが、一度説明以外で日本語禁止にしてみたところ、目に見えて習熟速度が上がった。

 発音自体は聞けたものではないが、物を受け取る際には必ずその名前を聞いてみたり、言われた事に対し聞こえた単語を、とりあえず発音してみたりする事が常習化した事で劇的な効果を上げた。


 あれは何だ、これは何だ、と拙い発音で聞いてくるので、それに返す度理解を深めて、繰り返し発音を練習する。

 最初は単語レベルでしか発音は難しかったが、今は常套句程度なら発言する事が出来ている。ただし自分で考えた文章は発音できず、あくまで型に嵌まった例文をやり取りするに留まる。


 だが、たった一日で大した進歩だった。

 アキラの努力が目に見えて理解できるので、ユミルもつい楽しくなってしまったらしい。発音は置いておいて、何くれと単語を教えるのに熱中している。


 書き取りする為の紙やペンがあれば便利だろうと思ったのだが、生憎とそのように上等な物品はなかった。そこでルチアが粘土板を作って、文字を書き残す手段を用意してくれた。

 アキラが書くのはカタカナの単語と、それに対応したこの世界の文字、そしてそれを訳した日本語という形で記される。


 覚えたものは次々に消されていくという記憶法だから、その習得度は高いのだが、音を覚えられても文字までは覚えられない。この世界でも文盲は珍しくないので後回しで良いという判断から、あくまでオマケ程度の要素として加えられていた。


 粘土板は嵩張り、持って移動するには適さない。それに一度に書き込める単語数もノートよりも少なくなりがちだ。複数用意してくれたものの、やはりそれには限界があり、覚えたものから消していかねば新たに書き込めない、というジレンマもあった。


 その背水の陣のような練習法が、追い詰められると光るアキラと上手く噛み合い、意外な程の習熟速度を生んだ。

 ミレイユの変容がすっかり終わった四日目の朝には、ごく簡単な挨拶や日用品の名称、物やお金の数え方は習得してしまっていた。


 数字に関しても覚え方はローマ数字に近い為、そちらは問題なく読めるようだ。ただ、桁が増えると怪しい。とはいえ大規模な数字のやり取りなど、普通に暮らしていれば必要ないから、覚える必要がないと言えばそれまでだった。


 そうしてこの短い森の生活の中で、五歳児程度の知識は詰め込まれたアキラは、いつもどおり焚き火を囲む中、目の下に隈を作りながらも意気揚々と頷く。


「なんだか、やっていけるかも、という気がしてきました……!」

『まぁ、そうかもね。数日でこれなら、見込みあるわよ、アンタ』


 アキラの日本語に対し、ユミルがこちらの言語――アール語で話す。意味を完全に理解していないアキラも、その幾つか理解できる単語から、褒められたのだと推察したようだ。

 はにかむような笑みを浮かべた。


「精進します」

「この分なら、ひと月後には相当マシになっているかも、と期待できるな。自ら話せなくても、聞き取りだけは出来る。身振り手振りでも意思疎通は可能だし……まぁ、吹っ掛けられる可能性は高まるが」


 複雑な話をするので、ここでは日本語に戻して話した。

 ミレイユがそう説明すると、アキラは情けなく眉を八の字に曲げた。


「うぅ~ん……。やっぱり話すっていうのは難しいですよ。ちょっとした言い間違いで真逆の意味になったりするのは、どの言語でも良くある事じゃないですか」

「そうだな、だがその日のパンを買えるようになれば……そして隣人の理解と手助けを得られるようになれば、話は変わってくるだろうし」


 ミレイユがそう言うと、アキラは納得行かないような、不満とは別の表情をさせて首を傾げる。


「そういうのって期待して良いものなんですか? 話を聞くだに弱者は奪われるだけ、って感じなんですけど……」

「無論、お前が受け取るだけで何も与えないでは成り立たない。だが、お前は最低限の腕っぷしがあるだろう」

「でも、それだって誰もが魔力を持ってるんですよね? 僕程度で役に立つんですか?」

「誰しも得意不得意があるものだ。魔術に対しても同様で、魔力があるから習熟する、とならないのが世の常だ」


 そう言ってもアキラは納得しない。

 やはり首を傾げたまま、難しく眉根を寄せて考え込んでしまった。


「スポーツや武術と同じと思えばいい。誰にだって、その門戸は開かれている。サッカーなんてボール一つで遊べるものじゃないか。じゃあ誰もがサッカーをしていたか? 答えはノーだ」

「それはそうですけど……、スポーツは娯楽の側面もありますし、同じ様には考えられませんよ。それに、魔物っていう分かり易い脅威がいるじゃないですか。そして弱者は奪われるだけ、っていう不文律みたいなものまであります。……それでも?」

「それでもだ。だから冒険者ギルドなんてものがあって、荒事専門の戦士が重宝される。争い事に向いていない者というのはいるものだし、誰だって痛いもの恐ろしいものから目を逸らしたくなるものだ」


 その言葉にはアキラも理解を示した。

 幾度か頷いて緊張を解く。眼の前に脅威があると知って、なお武器を取れる者は多くない。アヴェリンが育った部族のように、生活の根底に武力が根付いている場所ならともかく、都会暮らしで同じ事にはならない。


 荒事を嫌う者、どうしても性に合わない者は必ずいる。魔力があれば鍛える、と思える人間ばかりではないのだ。それを聞いたアキラは、それでようやく若干の期待も浮き上がってきたようだ。


「じゃあ、その荒事で助ける代わりに生活の知恵を借りる、というような関係が出来たら最高ですね」

「あぁ、私の知る限りでは……お前はこちらの世界でも、そこそこやれる筈だしな。ギルドの加入も認められるだろう。ヒヨッコだと追い返される事はない、そこは保障してやれる」

「それを聞いて安心しました」


 アキラは心からの笑みを浮かべる。

 目の下に浮いた隈は睡眠を惜しんで学んだ証だ。しかし実際は、不安で眠れないから学習に充てるしかなかったのだろう。話を聞き取れないと、話せるようにならないと生活が出来ない、その不安を打ち消すか、あるいは逃避するには学習するしか道がなかった。


 そして今、ミレイユからの言質を得られて生活の糧を得られる道も示され、少しだけ気が安らいだのだろう。僅か三日の詰め込み教育とはいえ、知識だけなら五歳児並になれた。

 これからの移動時間にも学習は続く予定で、小休憩や夜営の度にその時間は設けるつもりだ。街へ到着する頃には、更にマシになっているだろう事を思えば、生活していくのも不可能ではない。


 そして、その街へ行くにはどうするか、と言うところなのだが、それについてアヴェリンに森での狩りをさせるついでに調べさせていた。

 そちらに顔を向けて聞いてみると、アヴェリンは自身に満ちた顔つきで頷く。


「到着した直後、我らの背後には、遠く峻峰な山々の連なりが見えました。そして周囲は草原で、前方二時方向には大規模な森が広がっていました。この森の主な原生樹木は黒ツマ赤ツマ、イコヒン、イグスです。鹿の数も多く、狩りの獲物に困りません。となれば、この森はグラキスンド東に位置するウォンポダン森林である可能性が高いと思われます。このまま西進すれば、グラキスンドに出られましょうし、北東へ進めばオズロワーナ都市が見えてくるでしょう」

「よく見てくれた」

「恐れ入ります」


 ミレイユが大義そうに頷けば、アヴェリンは誇らしさを満面に浮かべて恭しく礼をする。

 主従に置いて、臣下の手柄は主の手柄だ。アヴェリン程の忠臣となれば、手柄を献上出来る事こそを喜びとする。素直な称賛が返って来れば、それに勝る喜びはないという考えだから、ミレイユも率直な物言いで笑みを向けた。


 アキラはアヴェリンから具体的な――ある種、具体的過ぎる分析に舌を巻いているようだった。

 だが、本来アヴェリンの部族は狩猟を生業とする。一箇所に定住しているから他の土地に詳しい訳ではないが、これは長く共に旅した事から得た、アヴェリンの知見だ。


 純然たる個の能力として、アヴェリンの頭の中には測量道具一式が詰まっている。

 周囲の環境を調べれば、自分のいる場所など凡そ導き出すなど造作もないだろうし、実際に現在地を確固としているなら、どちらに進めば、どの程度の時間で到着するか等も導きだしてくれる。


 アヴェリンたち部族の狩猟では、時に武器も防具も身に着けず、身体一つで獲物を追い仕留める事すらやってのける。三日三晩と追い回す事もあると聞いた気もするので、それぐらいの能力がなければ生きて帰って来れないのだろう。


 この計四日となる森の中での生活でも、肉の調達はアヴェリンの仕事だった。その際にも血抜き用のナイフはあっても仕留める時は素手だったと言う。

 本来なら俊敏性において追いつけない獣の足でも、アヴェリン程にもなると木の幹も反動に利用して接近していたようだ。そして生きたまま捕らえて気絶させ、血抜きした新鮮で臭みの少ない肉を途切れる事なく供してくれた。


 それはまさしくアヴェリンが望む役割で、だからここ数日のアヴェリンは実に機嫌が良いものだった。

 そして、そのお陰で移動中の保存食として干し肉も多く備蓄できたし、最悪一週間なんの獲物が見つからなくても食料に困らなくもなった。移動を開始する前に出来た、嬉しい誤算といえる。


 後方から来ると予想していた追手も結局姿を見せず、結果として旅の行先に抱える不安を少なくする事が出来た。

 ミレイユがこれまでの三日を頭の中で回想していると、ルチアの方から声が掛かる。


「それで、ミレイさん。どこへ向かうんですか? もう決めてあるんですよね?」

「そうだな。距離的に近いのはグラキスンドだろうし、そちらも大きい町ではあるが……」

「何かマズいんですか?」


 アキラが尋ねると、ミレイユは首を横に振る。


「別に拙いという事はない。森林資源が豊富だから林業が盛んで、木材の輸出で経済が成り立っているような土地柄だ。森に獣も魔獣も多いから、狩りも同じ様に盛んだしな。住みづらいという事もないと思うが……」

「しかし余所者を嫌う風潮がある。過去の事件から、悪いものは全て外からやって来る、と思っているような節があるんだ。新参が暮らしやすい土地ではないだろう」


 アヴェリンが補足するように言うと、アキラは納得して頷いた。

 ミレイユが言い淀んだのも正にそれが理由で、受け入れられれば田舎暮らしと都会暮らしの中間くらいの、程良い刺激の中で暮らしていけると思われたが、言葉すら危うい人物となれば排斥される可能性は高い。


 それならば、少しの変人くらい埋もれてしまうような都会へ行った方が良く思えた。

 そしてそれこそ、アヴェリンがもう一つ名前を挙げた、オズロワーナという名前の都市だった。

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