行動方針 その8

 それから翌日、話し合いの結果、一つの案が決定した。

 三日の間、ミレイユが復調するまで――正しく言うなら変容が完了するまで、この場で待機しているのが良いだろう、という結論だ。


 最初は少しでも移動して、人のいる村なりを見つけ出すべき、という意見もあったのだが、結局ミレイユが倒れるリスクを天秤に掛けて、留まる事に決まったのだ。


 一応、追われる身でもあるので細々とした移動は繰り返すべきだ、という意見もあったのだが、森の中の移動は簡単ではない。特に体調をいつ崩すとも知れないミレイユを帯同させるのは、アヴェリンが最も激しく抵抗した。


 彼女なら苦もなく、背負うなり腕に抱くなりと移動できる。そして、それは実際やって見せたが、やはり実際に身の危険が起きた時、咄嗟の対処が難しいという事が難色の理由だった。

 森の中とはいえ、追跡に長けた者なら発見は容易い。


 それならば罠を張って待ち構えた方が対処し易いだろう、という意見を採用する事になった。

 上手く魔法陣を隠せば、一方的優位で対処できるし、それぐらいならミレイユも問題なく行使できるので、動かないままでいる案が採用するに至った。


 それに、留まるメリットはミレイユの身体を慮る以外にも理由がある。

 この時間を使って、アキラにこの世界の常識や言語を教えられる事だ。翻訳魔術などという都合の良いものは、こちらの世界では開発されていないので、自力で覚えてもらう必要がある。


 外国語教育を受けていたという、他言語を習得する下地はあるものの、一般的な学生の一般的な教養しか持たないアキラに、これは相当な苦労が付き纏うものだった。


「だぁから、違うってば。……『ルァ』、アンタのは『ラ』、全然違うでしょ?」

「分かりますけど、日本人は苦手なんですよ、その発音……」


 アキラは弱り切った顔で項垂れた。

 中学高校で習う英語など、大抵は読み書きが主軸で、発音もまた教わりはするが、喋られるようにはならないものが多い。アキラもやはりその部類で、英語の成績は悪くなかったそうだが、発音に対する理解も相応のものだ。


 しかし、こちらの世界は統一言語が使用されているので、幾らかの訛は存在していても、片言レベルで話せない者というのは存在しない。

 習得して貰わねば、生活すら危ぶまれるだろう。

 他と違うから、という理由だけで排斥されるのは、どこの世界でも同じなのだ。ただそれが強さというベクトルになれば話も違ってくるのだが、それをアキラに求めるのは更に酷だ。


「しっかりなさいな。そんなんじゃ、パン一つだって買うコト出来ないわよ。野生の中、狩り一つで生きていくつもり?」

「いえ、そんなつもり、全然ないですけど……。でも、いきなりは無理ですよ。日本人だって英語が喋れるようになるのに、何年も掛けて習得するんですから」

「でもアンタ、そんなコト言ってる暇ないでしょ。アタシ達にアンタの通訳として生きていけないのよ? 本来なら放り出されていても仕方ないって、ホントに理解してるんでしょうね?」

「いや、それは勿論理解してますし、感謝もしてますけど……!」

「だったらもっと本気になりなさい。あの子が教えろって言うから教えてやってるんじゃないの。挨拶や身の回りに関するコトだけでも覚えないと、生きるに生きていけないじゃないわよ」


 ミレイユは二人のやり取りを焚火の隙間から伺いながら、ちらりと笑みを浮かべた。

 いつでも体調を崩す訳ではないので、平常時はこうして焚火の火に当たりに来るのだが、そうしてやって来てみれば、語学講座が開かれていて、思わず聞き入ってしまう。


 当初は警戒していた追手も全く姿を見せないし、手早く警戒陣を張ってしまえば、影のように隠れていたとしても見つけ出せる。そして陣は複数に渡って網のように敷かれているので、掻い潜って接近するのも不可能であり、そのお陰でいつまでも外に意識を割かなくて良くなった。


 気を緩めてはいけないと分かっていても、常に気を張る事も無理なもので、そうして二人のやり取りを見ているのは、ちょっとした娯楽になっていた。


「デュレン・ラーヴァ」

「デュレン・ラーバ」

「……うん。次、デュレン・ルァール」

「デぅレン・らール」

「違うってんでしょ!」


 今までは口頭で注意していたのが、ついに手が出てアキラの頭をはたき落とす。

 ルチアはお腹を抱えて笑っているし、ミレイユも頬の緩みが抑えられない。アヴェリンでさえ腕を組む素振りで顔を隠し、アキラ達から背けて肩を震わせていた。


 この二つの単語は出会い頭の挨拶と別れを示す、所謂『ごきげんよう』と『さようなら』を意味する言葉なのだが、これが基礎の基礎と言って良い会話なので、ここで躓いているようでは後が怖い。


 聞き慣れない、そして滑稽に聞こえる単語にルチアは笑ってばかりだし、ユミルの怒りによる制裁が、まるで漫才のように見えて笑えてしまう。

 お陰で退屈しない時間を過ごせているが、当のユミルは怒り心頭でそれどころではない。

 とうとう、そのお鉢がミレイユの方に向いて、怒りの感情そのままに言葉をぶつけてきた。


「ちょっと、どうなってんのよアレ。初めからアレで、どうやって言語を習得させろって言うのよ?」

「……苦労をかけるが、やって貰うしかない。言葉も通じないまま放り出すのでは、街まで案内して職を探してやっても意味がないだろう。生活の基盤を整えてやるというなら、そこから自立できるだけの援助も与えてやらねば」

「だったら笑ってないで、アンタも手伝いなさいよ。何か知ってるんじゃないの、同じ国の出身として」


 そうは言っても、とミレイユは腕を組んで首を傾げた。

 視線を向ければ、アキラの申し訳無さそうな顔が見えている。ミレイユ自身が言語に不自由していなかったのは、一重に素体という予め用意された知識を持っていたからであって、努力して身に付けたからではない。


 語学に堪能だった過去もないし、やはり学校の授業でも英語は話せなかった。

 何か効率の良い学習法など、知っていたら最初から教えている。努力しろ、という身も蓋もない助言以外、してやれる事はなかった。


「……まぁ、聞いたことのある一般論として、その言語しか通じない状況に置かれれば自然と話せるようになる、という話だ。つまり習うより慣れろ、という事なのだが……」

「あらあら、身も蓋もないコト言うわね」

「だが実際のところ、本人のやる気次第だ。話せなくては生きていけない、というのなら、アキラとて話せるようになる。初日から上手くやれるようなお前達とは、根本的に違う。そういう小器用さとは無縁の奴だしな」

「それもそうねぇ……」


 ユミルは息を吐いてアキラを見る。

 落胆の溜め息という訳ではなかった。単に急ぎすぎた事に対する自責の念が、そうさせたのだろう。最低限、生活の面倒を見るという話だから、街に送り届けて職を探して終わり、という訳にはいかなくなった。


 最低限、これで大丈夫という安心と納得がなければ、街を離れる訳にはいかない。

 ミレイユがした提案というのは、そういうものだ。ならば街へ拘束される時間も生まれるという事で、アキラが独り立ち出来なければいつまで経っても移動出来ない。


 無論、成長を感じさせない不甲斐なさを見せれば、即座に足切りしてしまうつもりでもあるが、アキラの勤勉さは良く理解しているから、そこは別に心配していない。


 ただ、本人の努力以上に時間が掛かってしまうようなら、足止めの長期化も避けられないから、それを危惧して焦りを生み、それが急かす結果となった。

 ユミルとミレイユの二人から視線を向けられ、アキラは恐縮し切った顔で頭を下げる。


「申し訳ありません……。言い訳するつもりはありませんが、どうも耳馴染みのない単語っていうだけで、耳が滑ってしまって……」

「してるじゃないのよ、言い訳」

「いいから、ユミル。話が進まん」


 少しばかり棘のある言い方をしてしまったユミルに、咎めるような視線を向けて手を振る。


「……アキラの言い分も良く分かる。だから、これから耳に馴染ませる事から始めよう。ここからは基本的に日本語を禁止にする」

「日本語……使えないなら、僕は何を喋れば……」

「ああ、勿論お前は例外だ。分からなければ――今はまだ全く分からないだろうが、聞き返したりするのに日本語を使えばいい。だから今は、拾える単語をオウム返しに発音するだけでも良いだろう。未知の言語は雑音にしか聞こえないだろうが、知る単語が増えるに従って、理解できる単語も増える筈。まずは、その慣らしだ」


 へぇ、とユミルは感心した表情でミレイユを見た。

 気づけば笑いを止めたルチアまで、似たような表情で見返してくる。


「随分と具体的なアドバイスするので驚きました。私達は最初から聞こえる言語は理解できてましたから、その習得も早く楽でしたけど、そういうのが一切ないと、確かに今言った事は理に適っている気がします」

「そうね、耳馴染みがないというなら、まず耳に馴染ませろっていうのは良い案だと思うわ。出来ない子向けのやり方ね。そういう事を知ってるなら、最初から助言貰ってたのに……」

「私のは一般論だ。これがアキラにも上手く行くかは……」

「その一般論ってのが、アタシにはなかったからね」


 確かに、言語の壁がない世界である以上、他言語習得のノウハウなどある筈もない。

 ミレイユにしても、どこかで耳を齧って知ったぐらいのもので、確かな背景を持って発言した訳ではなかった。だがアキラの暗雲が晴れたかのような表情を見るに、とりあえずの慰めにはなったらしい。


 そこから本当に習得できるかは、アキラ自身の努力に掛かっている。

 苦労しない訳もないが、そこのところは勤勉さに期待するしかない。


 ミレイユの変容が終われば移動を再開する。街までの距離は、この深い森の中にあっては測定も不可能で、もっと言うなら現在地も不明だった。

 街まで何日で到達出来るか分からないが、それまでに簡単な挨拶程度は出来ていなくては困る。


 ミレイユの指示で言語を切り替え、あからさまに狼狽し始めたアキラを尻目に、ミレイユは今後の具体的な方針について話し始めた。

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