孔を抜けた先は その2
着いた先は森の入り口だった。
入り口というより外縁というべきで、人が通るような道が続いている訳ではない。
迷うことなく一直線に向かっていたので、こちらへやって来た明確な理由があるのだろうと思うが、人の手の入っていない森は危険が多い。
野生動物がいるのか、あるいは魔物がいるのか、それさえも分からないが、森の外縁部分に立っていても、虫や鳥など様々な音や鳴き声が聞こえてくる。
足で踏み慣らした跡などもないので、ただの草生えから深い森へと代わる境目へと踏み込んでいく。そして森の中を数歩進んだ時、明確な敵意のようなものが身体を貫く錯覚を覚えた。
アヴェリンはミレイユの身体を大事そうに、そして丁寧に飛び出した枝などから守りながら、自然な足取りで踏み入っていく。
ルチアも華奢な身体に見合わぬ軽快さでそれに付いていき、アキラは歩き慣れない凹凸の激しい森の地面を、苦戦しながら追っていった。
森の土は柔らかく、踏めばそれだけ沈み込んで行くような不確かさがある。
だと言うのに木の枝や倒木はそこかしこにあって、コンクリートの上を歩くようには進めない。湿気のある森の空気は息切れしやすく、また多くの葉が茂っているだけに陽射しも悪く見通しも悪い。
その上、敵意は常に身体を取り囲み、アキラが感知できない遠くから、魔物か何かが様子を伺っているのを感じていた。隙を見せれば襲い掛かって来そうで、常に気が休まらない。
幸い、武器も防具も身に着けているから簡単にはやられないと思いたいが、あの激戦で防具は殆ど役に立たないまでに損壊している。
果たしてどの程度、敵の攻撃を受けて保ってくれるものだか……。
アキラの不安は増すばかり、しかし一同に会話はなく、さりとてアキラから話し掛ける事も出来ず、ただただ森の中を進んでいく。
そうしていると、いつしかルチアが木の枝を拾いながら歩いているのに気が付いた。子供じみた真似だと思って見ていたのだが、足元に手を伸ばすでもなく『念動力』を使って拾うものだから、何か手持ち無沙汰に魔力を運用しているのだろうか、と思ってしまう。
手に取った枝は直ぐに個人空間に仕舞っている為、その手や腕に抱えて運ぶという事もしていない。何に使うつもりかと怪訝に思っていると、ユミルが横顔を向けて言ってきた。
「アンタも拾っておきなさい。ただ歩くんじゃなく、やる事があるなら気も紛れるでしょ。でも枯れ枝だけにしてよね、太さは気にしなくていいから」
「あの……、それは良いんですけど。敵が周りにいるのに、屈んだりして隙を見せるの拙くありません?」
「別に襲って来やしないからいいのよ」
「……来ませんかね?」
アキラが胡乱げな声で窺うように問うても、ユミルは気にした風もなく事も無げに頷いた。
「周囲にいるのは魔獣ばかりだからね、そんなに危険はないわ。縄張りを犯しているのはこちら、だから威嚇しているけど、荒らすような真似さえしなければ襲って来ないわよ」
「……縄張りって言うのは何となく分かりますけど」
森の中に関わらず、野生で生きる動物には全て縄張りがあり、その範囲で生活している。それは食料を確保するに必要な範囲であり、群れを養うのに必要な面積を意味する。動物にとって自分の群れを生存させ、維持するのは重要な事で、その為に必要な縄張りを非常に大事にする。
だから木の枝くらいならまだしも、果実や動物、食料になりそうなものを勝手に取る事が、宣戦布告を意味するというのも理解できる話だ。
本来ならこちらもまた食料のように見られていそうだが、襲ってこないと断言するからには、そこまで気性の荒い動物ではないのだろうか。
アキラは一応、見えないと分かっていても木々の間から森の奥を見る。
敵意は渦巻くように取り囲んでいても、その姿は見えない。気配だけは分かっているのに、その影すら目視する事が出来なかった。薄暗い森の中である事を考慮しても、あまりに姿が見えなさ過ぎる。
敵意の強さから警戒していない筈はないのに、襲ってこないと断言する理由が見えなかった。
そこまで考えて、ふと首を傾げる。
アキラは狼などの動物を思い浮かべていたが、ユミルは魔獣と口にしていた。言い方の違いで同じような意味だと思ってしまったが、もしかしたら違うものを指していたのだろうか。
アキラは既に視線を前方に向けていたユミルへ、その背中に声を掛けた。
「さっきは魔獣って言ってましたけど、魔物とは違うものなんですか?」
「さぁて……、どうかしら」
ユミルはアキラへ振り返らなかったが、僅かに顔を横に向けながら答える。
「自分で言っておいてアレだけど、定義が曖昧なのよね。でも一般に魔力制御を上手く出来る獣を魔獣と言うし、制御できるだけでなく、それで害を為すものを魔物と大別したりするわね」
「人を襲う魔獣を、魔物と呼ぶ訳ですか?」
「そもそもの習性として、人を襲わない獣なんていないわよ。人に関わらず、縄張りを犯せば襲うものだし。でも積極的に襲ってくるか、あるいは獣に見えない異形の存在に対しては、問答無用で魔物扱いね」
ユミル自身も考えあぐねるように、首をひねりながら答えてくれる。
彼女が迷うというのなら、その口から出たように定義が曖昧なのだろう。細分化すると魔物に見えても魔獣だし、その逆も然りというよう状態になっているのかもしれない。
「……まぁ、でも二足歩行してるヤツは問答無用で魔物かもね。そういうのは大抵知恵を持つし、人間並みでなくとも小賢しいことは考えるものだし」
「ゴブリンとかトロールとか、ミノタウロスとかですか?」
「そうね、トロールはともかくミノタウロスは獣的要素は大きいし、その思考傾向も獣に近いのよ。武器を持っていても技術はないから、力任せに振るしか脳がない。でも、こいつを魔獣とは言わないのよね」
「なるほど……」
見た目で選ぶのでもなく、習性で選ぶのでもない。
それを考えれば、定義が曖昧と言うユミルの言い分も理解出来た。
「それにホラ、奥宮で出てきたバカでかいヘラジカがいたでしょ? あれは獣の外見でありながら、高度な魔術まで使用する。こいつは何になると思う?」
「魔獣、のように見えますけど、やっぱり違うんですかね。凄く強大な力を持っていて、でも見た目は獣の姿をしてましたけど……。凄い巨大だという点を除いても、魔獣と呼ぶには抵抗があります」
その時の記憶は未だに色褪せていないし、これからも褪せる事はないだろうと思わされる光景だった。アキラに関わらず、御由緒家の全戦力を集結させたところで勝てる相手ではなかった。
それほど強力な獣だから、魔力制御に長けているという点だけ見て魔獣とは呼べまい。その強大な魔術は間違いなく人にとって害となるだろうから、魔物という区分の方が相応しい気がした。
「だから……、まぁ魔物なんじゃないかと思いますね。魔術を向けられたら、凄い被害出そうじゃないですか」
「そうね、アンタの推論は的を得ていると思うわ。でもあれは、災害と呼ぶのよね」
「災害……」
人にとっては自然の猛威同然、そのような存在だと言われたら納得するのと同時に、それを討ち倒したミレイユ達を、改めて驚嘆してしまう。
「エルクセスって呼ばれてるけど、別に人を襲わない、気性の大人しい……魔獣って事になるんだけど、移動するだけで被害が出るからね」
「あー……」
あれだけの巨体だ、その蹄も相応の大きさだろう。移動する場所はきっと山や森だろうが、近くに寄って来られたら為す術もないのも理解できる。
「本来、討伐するんじゃなくて、移動する方向を逸らすとか、そういう方向に努力を向ける相手でもあるのよ。人間だって森の開通に、樹木が憎くて切り倒す訳じゃないのと同じで、エルクセスも通りたいから通るだけであって……」
「なるほど、被害は出るけど悪意はないから災害だと……」
「別の地方じゃ聖獣と扱われていたりもするわ。魔獣も同じで、別地方じゃ魔物扱いだったりするし、魔物だってその程度じゃ魔獣止まりだと言うヤツもいるわね」
「定義が定まっていないんですか」
そこは学者であったり、国の偉い人だったりが一応決めていそうなものだ。
やはり暫定的にしろ、定義はないと不便するものだろう。
「一応、学者が定めた定義はあるわよ。でもやっぱり国によって変わるから、全てに共通する、というのは難しいのかもね。冒険者から言わせれば、学者の言う事は当てにならん、っていうのが通説だし」
「冒険者……!」
アキラの声が一段高くなって、思わず喜色を帯びたものになる。
それに面白そうに口の端を曲げて、ユミルが顔を向けてきた。
「アンタ、そういう話が好きだったわね、そういえば。……だから、付いてきたの?」
「いえ、決して! そういう浮ついた気持ちではなく!」
こればかりは決して誤解されたくない部分だった。
アキラも年頃の男子として、ファンタジーを代表とする魔法の活躍する物語が大好きだ。そういうものには冒険者が付き物で、大抵華々しい活躍を見せてくれる。
それについて憧れにも似た感情を持っているものの、それを求めて付いてきたと思われるのは心外だった。
「……ま、いいけどね。とにかく、周辺にいるのはアタシ達の定義に則って魔獣と呼ぶような奴らがいるんだ、と思っておけば良いわ」
「えーと……、冒険者定義って事ですか?」
「そうね、そう思ってくれて良いわ。……で、この気配の感じ方から、アタシ達を包囲しているのが何なのかもまた、察しが付くワケ」
「……それは因みに、どの様な?」
ユミルは一瞬、言葉を止めた。
答えを渋る訳ではなく、どう言えば伝わるか考えているように見えた。
「……アンタの感覚からすれば、分かり易いのは狼だと思う。言っとくけど、神宮にいたのとはまた違うからね?」
「ええ、はい。野生の狼については理解してます。特に海外のシンリンオオカミとか、そういう類のと、ニホンオオカミは別物だと言う事も」
「……そう。まぁ、それを凶暴にして、身体能力を魔力で底上げしているものだと考えてくれれば、概ね間違いないと思うわ」
さらりと言ったが、実はそれは、とんでもない事ではないだろうか。
主に狼は群れで狩りをする生態で、また一撃で仕留めるのではなく、小さく傷を幾度も付けて獲物を仕留める戦法を取る。仲間意識も強く、連携も巧みで、一度狙われたら相当厄介だという話も聞いた事があった。
しかもそれが、こちらでは魔力を使った――内向術士の様に魔力を練って襲ってくる事を考えれば、決して呑気に構えて良い相手ではないように思える。
今のアキラは
敵意を巡らせているのは、何も威嚇の為だけではあるまい。
そう考えると、いつ襲われるのか気が気でない。何故、縄張りを侵すと理解して入り込んだのか、理解不能で混乱した。
だが、勝手に付いてきたのはアキラの方なので、そこに文句を付けるのは筋違いだった。
「大丈夫なんですか? 襲い掛かって来るんじゃ……?」
「魔獣ってのはね、そこまで馬鹿じゃないの。少なくとも、アンタと同程度にはね」
「僕程度、ですか……」
魔獣と同じレベルに置かれて、何とも言えない表情をすると、ユミルは皮肉げな笑みを向けてくる。
「アンタ、今の力量ならアタシ達の実力も、それとなく測れるんじゃない?」
「いや、ちょっと……相変わらず下手でして。ただ自分より遥かに上というぐらいしか……」
「それだけ分かれば十分よ。周囲にいるのも、それぐらいは分かってるから」
そう言われて、ふと不意に落ちた。
仮にアキラが食うに困って誰かを襲おうとしたとして、ユミル達を見つけたからと獲物に定めるだろうか。あれは相手にしちゃいけない、というその判断だけは下す確信がある。
幾ら力量を読むのが下手なアキラでも、このレベルを相手にしてどうなるかを想像できないボンクラではない。
むしろ最後尾という重要な位置に、明らかに他と違う低レベルの者がいたら逆に怪しむ。敢えて襲いやすい位置に置いて罠に嵌める気ではないか、と疑心に陥るだろう。
「あぁ、なるほど……。だから威嚇はしても近付いて来ないっていうのは、本当に警戒しているだけって事なんですか」
「そういう事ね。賢いからこそ、襲った後のリターンが見合わないって、ちゃんと理解してるわ。だから、少なくとも森を抜けるまでは安全ね。逆にアイツらが、他の魔獣が近付くのを防いでくれる」
「……あれより強い魔物とか出てきた場合は?」
「相手にすれば良いだけの話でしょ」
これにも事も無げに言い切って、ユミルは小馬鹿にしたように笑った。
――そうだった。
彼女らはそもそも、そういう手合なのだ。基本的に我が道を行くタイプだから、邪魔する者がいれば押し通るのが彼女らの流儀だ。
仮に包囲しているのが襲ってくるタイプだと言うのなら、やはり事も無く薙ぎ倒して前に進んでいただろう。
アキラが一人納得していると、前方にいたアヴェリンが立ち止まり、こちらに顔を向けていた。
「随分楽しそうにお喋りもしていたが、今日の所はここで休む。すぐに準備しろ」
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