幕間 その1

 京の院咲桜さくらは、御子神様の居室――未だ立場が不鮮明な為、神処とは呼ばれない――傍の控室にて、掃除の準備を進めていた。

 その日の御子神様は朝から気分も良く、時折笑顔も見せていた。何事にも厳格で規律を重んじられるオミカゲ様と違い、御子神様は大変おおらかで何かを注意するような事もない。


 それが決して良いとばかり言えないのも、神へ奉仕するという事なのかもしれないが、多くの緊張を強いられるオミカゲ様と違い、多少気を抜いて接する事の出来る存在だった。

 給仕するくらいで一々礼はしてこないが、しかしこちらが些事と思うような事でも感謝をしてくれるのは素直に喜びへ繋がる。


 信仰心は変わらずオミカゲ様へと向いているが、支持する様な立場を取る女官もいる。本来謝意を示す方が神としては不適切なのだが、オミカゲ様も御子神様の立ち振舞を聞いても口を挟まないので、いち女官の咲桜が何かを言える筈もない。


 それでなし崩し的に気安い立場を見せる神、として認知が広がり、誰もが御子神様と関わりたくて仕方がない、という雰囲気が出来上がっている。

 浮ついた雰囲気とも言えるが、御子神様は静謐と緊張を見せるより、そちらの方が好みの様で、女官たちへの指導も控えめになった。戒めは必要だし、過度な気安さや接触は厳禁だが、咲桜もまたそれを許してくれる御子神様を好ましく思っていた。


 そして、今日――。

 朝から御子神様の姿が見えなかった。


 最近はとみにこういった事が多く、女官の目を盗んで外出する事が多い。気安い雰囲気が生んだ、御子神様の気安い外出と見てしまえば、これは今一度規律の見直しが必要な気がした。

 咲桜は手近にいた女官の一人を捕まえて声を掛ける。


「誰か御子神様が、どちらへいらっしゃったか聞いた者は?」

「いえ、聞いた方はおられないかと。咲桜様が知らないなら、他の誰も知らないと思います」

「そう……。ならば、行き先はきっと大社だと思うから、そちらに使いをお願いします」


 御子神様が外出する際は、その多くが大社で、かつ伝言すらも無い場合は殆どが大社へと赴いている。日が暮れるよりも前に帰って来るのは間違いないので、他の女官もすっかりそれに慣れてしまっていた。


 最近は大社とは別に、神として外出する回数が多く、それは公務による為で、オミカゲ様の命により隊士達へ稽古を付けているのだと聞いている。


 昨今の隊士達、その不甲斐なさに嘆いたからだと咲桜は思っているが、さもありなんという気もした。咲桜は結界の中で鬼と戦った経験も、これから戦う経験もないだろうが、鬼が強化傾向の一途を辿っているという話だけは聞いている。


 御子神様が直接お出ましになって解決を図る事もあり、それは大いなる不敬だと考えていた。人が神に縋るのは真理かもしれないが、頼りにするのと頼みにするのは全く別だ。

 人は己が足で歩かねばならず、神を杖代わりに歩くなどあってはならない。

 杖なしでは歩けないと嘆くのではなく、杖なしでも歩けるよう努力する義務がある。


 頼りにする事が当然となると、もう杖なしで歩く事など考えられず、それ以上の努力を怠る。神とは決して、人にとって都合の良い道具などではない。

 鬼に立ち向かうのも同様、人のみで解決せねばならない問題なのだ。


 御子神様がそれを正す為、隊士達にそれを理解させる為、教育するのは素晴らしい事だ。

 ただ、それを直接神が行うという部分には首を傾げてしまうが、神の口から直接下される薫陶は彼らの身になるに違いない。今だけの事だと自分に言い聞かせ、隊士たちへの不敬を胸中でなじる。


 そうしながら、掃除の準備を再開した。

 御殿の中にいないというなら、機会がなくて出来なかった掃除も今の内にしてしまおう、と奥の部屋へと移動する。

 今日も変わらぬ平穏な一日、それが当然これからも続くと疑わずに――。

 その日が大変な災厄に見舞われるなど露ほど思わず、咲桜は掃除道具を片手に歩き出した。


 ―――


 咲桜は今、奥御殿の中を忙しなく駆け抜けていた。

 普段なら音を立てて廊下を走るなど有り得ない事だ。叱責だけでは済まされず、謹慎処分さえ考えられる行為だが、今はそれが許される状況だった。


 ――鬼が、奥宮に現れた。

 その事実は宮中を驚愕で包みこんだ。

 何かの間違いではと混乱する者、オミカゲ様を連れ出し逃げるべきと言う者、事態の対処に指示を乞う者と、その反応は様々だった。そして咲桜もまた、間違いではないかと疑った者の一人だ。


 奥宮は霊地であり、神の加護を存分に受ける場であり、同時に鬼から避けられる場所。

 結界が張られるような事態になった事も、そして鬼の侵入を許した事もなかった。それはオミカゲ様の加護であるという話もあるし、同時に孔の出現をさせない誘導を施しているのだ、という話もある。


 咲桜にとって、それにどれ程の違いがあるのかも、それらが事実であるかも知らなかった。だが、出現したことがないという一つの事実を持って、それがオミカゲ様の加護のお陰だと信じていた。

 だが、結界が張られた事が分かると、間違いでも勘違いでもないと理解せざるを得ない。


 オミカゲ様の加護を破り、侵入した鬼がいるのだ。

 神と御殿の守護を司る由井園が既に動いており、常に警備として配備されている衛兵もまた、その対処に動いたと聞いている。

 だがそれだけでは不足と、オミカゲ様の号令の元、女官もまたその戦いに関わるよう指示が下された。


 奥御殿に務める事を許された巫女や女官だから、当然その御身を御守りする為の技能は修めている。多くの場合それは護身術で、賊が侵入した場合、それを取り押さえる事が出来るだけの力量は鍛えられていた。


 それも単に武術を修めているというだけでなく、理力も持っている者が選ばれるから、当然単なる賊など相手にならない。赤子の手を捻るが如きで対処できる、という自負もあった。

 だが、鬼との実戦は皆無だ。


 いきなり戦えと言われても無理と考えるのが普通で、どの女官も浮足立っていたが、しかしそのような者たちにまで、酷な命令を下すオミカゲ様ではなかった。


 女官長が音頭を取って、今は結界補助をする為に奔走している。

 巫女の場合、最初から結界術に秀でた者が配置されていたし、それは万が一鬼が侵入した場合、結界内へ閉じ込める役割を求められてもいる。


 女官の場合は防御術や支援術に秀でた者が多く、実際直接戦闘出来る理術を習得している者は皆無に等しい。

 それは何にもまして、その結界術を補助する事を目的とされる為で、支援理術を習得している者は、既に巫女達を補助するべく動いている。


 そして咲桜のように防御術に秀でている者は、現在適した役目を果たせない為、オミカゲ様が秘蔵していたという、箱詰めにした理力を運ぶ役目を仰せつかっていた。

 理力を修めた者として、長距離を走るだけならば何て事はない。


 ただ、直接お役に立てる機会が欲しいと思ってしまっていた。

 華やかな戦闘をしたいとまでは思わないし、自身の習得した理術から言っても壁を築く位しか出来ないが、だが御身を護る壁として傍に置いてくだされば、と思ってしまうのだ。


 その表情が顔に出ていたのだろう、女官長をしている母から叱責が飛んだ。

 ――事このような状況にあって、無駄なお役目など一つもない。

 咲桜は己を恥じて、今はその箱詰め理力を丁寧な手付きで運んでいる。

 普段はご禁制として近付く事も許されない部屋から、山のように積まれた青白く光る箱を丁寧に取り出し、それを巫女達へ届けるのが咲桜の負った役目だ。


 結界術について多くを知らない咲桜だが、それが非常に負担の掛かる理術だという事は知っている。その制御も維持にも多大な理力を消費するものだ。

 大宮司様が核として行使されていた時は、その膨大な理力と確かな制御力で補助があったが故に、現実的な使用が出来ていたとも聞いている。


 だが、その大宮司様も年齢と理術の衰えを理由に役を退いてしまった。

 その御年は百歳を超えると言われているから、退役するのは当然としか言えないが、このような状況にあっては大宮司様の助力を願ってしまう。


 ――お年を召したからには、簡単とはいかないでしょうけど。

 百を超えても奉公を続けて来たという事実には、畏敬の念を覚えずにはいられないが、奥宮へ鬼の侵入という大事件だ。

 より優れた術士を頼りたくもなってしまう。


 そのような願いを抱いていたからだろうか。

 結界神殿へと辿り着いた時に、大宮司とオミカゲ様が共に立っているのを見て、安堵の息を吐いてしまった。


 ――願いが通じた。

 オミカゲ様がその御手を広げ、万事全てを執り成そうとしているのだ。ならば咲桜は何も心配する事はない。オミカゲ様の命に従い、その通り動けてさえいれば、何事もなく終わる。

 確信を抱いて、咲桜は箱詰め理力を巫女達へと手渡していく。


 だが彼女らは受け取る余裕もないようで、険しい顔をして部屋の中心へと手を掲げていた。

 神殿内は、注連縄とそれに繋がれた朱色の御影柱で四角形をしていて、その更に中心部分には結界補助をする為の高台がある。


 大社にも同様のものがあるらしく、その中央で制御をすると術が増強されるような仕組みらしい。その中央の台座に座る術士へ、周りにいる術士が補助をしてより強固な結界を作ったり、遠く離れた場所にまで結界を張ったり出来ると聞く。

 その補助要員ですら、台座をぐるりと囲んで二十人以上が理力を送っていた。


 今は奥宮で一番と聞く結界術士がその台座で術を行使しているが、こちらもまた険しい表情で固く目を瞑って維持している。額に浮いた汗は既に流れるほど大量で、肩で息もしている。

 まだ結界を張って三十分と経っていない筈だが、それだけ結界術の行使と維持が過酷であると物語っていた。


「それでは、済まぬがそなたに結界を任せる。……もう結界には携わらなくて良いと言った手前、このような事を頼むのは心苦しいが……」

「滅相もありません、オミカゲ様。むしろ部屋でそのまま休んでいろと言われた方が、よほど酷というもの。これを最後の御奉公と思い、全力で取り組ませて頂きます」

「うむ、終わった後で、共に茶を楽しもう。……これで最後だ、それは約束する」


 オミカゲ様が切ない表情で大宮司の頭を撫で、そして手の甲で頬をひと撫でしていく。

 皺だらけの老婆である大宮司も、その時ばかりはまるで少女のような笑みを浮かべた。

 咲桜はそれを羨ましくも、同時に切ない気持ちで見つめていると、唐突にオミカゲ様が声を張った。


「これよりは、我もまた結界の補助を行う」

「――オミカゲ様!? まさか、その様な事、お任せさせる訳には……!」


 大宮司が慌てたように手を伸ばしたが、オミカゲ様はそれをやんわりと受け止め、戻してしまう。


「結界に封じ込め、それを隊士達に任せるだけでは足りぬ。結界内の様子は分からぬ者も多かろうが、鬼の数は多い。この場にいる全員の両手を借りても数えられぬ程だ」

「まさか……」


 誰かが息を呑む音が聞こえ、そして事態は想像以上に深刻だと知った。


「こちらの結界の強化と維持が一段落したら、我もまた直接戦場へと出向くつもりだ。――これは総力戦である、皆の者、一層気を引き締め事へ当たれ!」

「ハハッ!」


 オミカゲ様が一括するように言って、咲桜も身体の向きを変えて姿勢正しく頭を下げる。

 総力戦、オミカゲ様はそう仰った。御自らが戦場に出向くのだと。

 事態は深刻な事など理解していた。だが、まさかこれ程までに深刻などとは埒外の事だった。果たして本当に大丈夫なのか、まさかの事態を考えて戦慄する。


 だが同時にオミカゲ様の横顔を見て、その凛々しくも決然とした表情を見れば、何事も問題ないと思えた。オミカゲ様を信じて、その指示に従って動く。

 咲桜に出来るのはそれだけだったし、それさえしていれば大丈夫なのだと、その横顔を見つめながら感じていた。

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