反撃開始 その8

 ユミルが両手の五指を胸の前で合わせるように持ち上げると、淡い紫の光が両手から漏れた。制御の開始と同時にエルゲルンの攻撃も始まる。

 あれだけの啖呵を切った相手とはいえ、馬鹿正直に付き合うつもりはないらしい。今やこの空間はエルゲルンの支配下と言って良い。


 全てが不規則に動く万華鏡の世界は、あらゆるモノが武器となる。それはアヴェリンやユミルと言った姿を象る鏡像だけでなく、空も地面も樹木までも対象としていた。

 不規則な動きと不規則な形で作られる樹木は、無限に形を増やして二人を挟み込むように襲い掛かる。


 アヴェリンがそれを振り払おうとする動きすら敵の攻撃として作用し、雪崩のように襲い掛かる。そして、それを防ごうとする動きも阻害するように、盾が何重にも増えて打ち付ける。


 それを見て、アキラは敵が本気ではないと言った意味を、ここに来て本当の意味で理解した。今となっては指先一つ動かす事が怖い。

 何か一つ動きを見せれば、それが敵意あるものと認識されるか否かに関わらず襲いかかってきそうだった。ミレイユは相変わらず動きを見せないが、それが果たして動かないのか、それとも動けないのか、それすら定かではない。


 エルゲルンの扱う幻術は、それ程までに恐ろしく感じた。

 ユミルの制御もまた、その無限に増え続ける鏡像に阻まれようとしていた。本を開くかのように地面が隆起し、そして飲み込もうと畳んでは閉じていく。

 結局ユミルは何も出来ないまま地面へ飲み込まれ、そしてその後にも鏡写しで作られた地面が、動きをなぞるように積み重なっていった。


「何だ何だ、ご立派なのは口だけか。知らなかったようだが、この術の前には何人なんぴとたりとも自由にはならない。全てはこちらの意のままさ」


 言ってる合間にも万華鏡の世界は目まぐるしく変わっていく。

 アヴェリンも上手く防ごうとしているが、その尽くが裏目に出るような、阻害と攻撃を同時に受けて何も出来ないでいる。まるで蜘蛛の巣に引っ掛かって藻掻こうとして、更に絡め取られているかのようだ。


 ルチアもミレイユ同様、何の動きも見せていないので、攻撃らしい攻撃は受けていない。だが、それもユミルがやられ、アヴェリンも落ちた後なら、次の標的となるだろう。

 それが分かっていて尚、動き出す気配はない。ただ杖の両手で握り、胸の前で抱くように構えているだけだ。


「……ま、見せ場を与えられなくて悪かったな。お前らはさ、馬鹿みたいに話してる間に、最初で最後のチャンスを逃したんだ」


 それは事実だと思うので、アキラは歯噛みする気持ちでアヴェリンを見る。

 明らかに戦闘は優位に進んでいたのに、いつもの悪い癖が全てを台無しにした。その実力差から勝ちを確信しての事だったかもしれないが、幻術士が油断ならない事は、ミレイユの発言からも理解していた筈なのだ。


 それが一手で覆されて、情けないやら悔しいやらと、胸の内に不快などろどろとした感情が沸き立つ。そしてアヴェリンもまた、鏡合わせに飲み込まれようとした瞬間、その一切が停止した。


「……なんだ?」


 それはエルゲルンから出た言葉だが、同時にその場にいた誰もが同じ感想を抱いただろう。

 アキラもその突然の停止に困惑を隠せない。アヴェリンへの攻撃だけでなく、それまで忙しなく風景を変えていた万華鏡も、その動きを止めている。


 すると今度は、ユミルが飲み込まれた部分が逆再生するように動いていく。何重にも積み重なった地面が、ページを捲るように開いていき、そして次第にユミルが姿を現した。


 腕を一振りすれば、自分の周囲のみならず、世界そのものが逆再生を始める。アヴェリンを囲むように襲っていたものも振り払われ、そして元の変哲もない風景が帰ってきた。

 ユミルが頭の横でくるくると腕を回しながら、ニタニタと嫌らしい笑みを浮かべる。


「見せ場を用意して貰って申し訳ないわね。……けれど、これで分かったでしょ? 幻術は同じ内容で上書きされたら、もう何も出来ないのよ。つまり、上書き出来るだけの力量差があれば、ってコトだけど」

「何を、そんな馬鹿な! この術は、そんな生易しいモンじゃ……ッ!!」


 エルゲルンが腕を振るい、そして何も起こらない事に顔を歪ませて、そして新たな術を制御し始める。両手に制御の完了を示す光が灯ると同時に広げるが、どの様な反応も起こらなかった。

 ユミルがつまらなそうに手を振れば、その身体が正四角形の細切れになり、かと思えばルービックキューブのように向きを変え、次々と形を変えては不揃いの人形のようにしてしまう。


 そうなれば、最早エルゲルンも身動きが取れないようだった。

 正確には、動こうとしてはいるものの、その動きが正常に伝わっていない感じがする。手を動かそうとして足が動いているような、意志とは別に、複雑に捻じ曲げられて伝えられているように思える。


「ば、馬鹿な……! 俺が本気を出せば、こんなもの……!!」

「だったら最初から本気出してなさいな、お馬鹿さん。アタシだって、遊ぶのなら相手を選ぶわよ。……お分かり? だからアンタは最初から、本気を出すに値しないって言いたかったんだけど」

「ぐ、ぎ、ぐぎ……!」


 エルゲルンは怒りと憎しみで顔を真赤に染め、憎悪の込められた視線でユミルを睨み付けた。

 そこに軽い足取りで近付くと、頬を指先で突付いて嗤う。


「悔しい? 恨むのなら、自分の無力を嘆きなさいな。敗者の生殺与奪の権利は、こちらが握っていると理解しておいた方が身の為よ?」

「ふざけやがって……ッ! 殺してやる! 腸引き裂き、無惨な死体を晒してやるぞ!!」

「んー、そうなのね。そんな強気な言葉、この状態で吐かれてもね。……まぁ負け犬の遠吠えってのは、大体いつもこんな感じだけど」


 ユミルが指を動かせば、それに応じて幾つにも分割された身体のパーツが、くるくると回転して更に可笑しな恰好を作っていく。頭もそれに応じて後ろを向いて、その顔も見えなくなった。

 その時になって、ようやくユミルがミレイユの方へ顔を向けた。


 ミレイユはそれで腕組を解いて歩き出す。

 アキラもそれに付いていこうとして腰を上げたが、すぐに膝が笑って動けなくなってしまった。素直に治癒陣の方へ向かった方が良さそうだ、と逆方向に歩き出す。

 敵については、自分たちの出る幕はない。全て任せた方が問題はないと思うから、素直にそうした。


 その戦闘を見ていた隊士達は、自分たちとは異次元の戦いに呆然としていた。

 神が動くような事態となれば、敵の能力もそれ相応。端から自分達の敵う相手ではなかったのだ。


 失望はある。

 だがそれは、自分あるいは自分達に向けられたものであって、神に対してではない。不甲斐ない自分が許せない、神を動かして申し訳ない、それが大多数に占められた素直な感情だった。


 アキラは陣の中に足を踏み入れながら、今も治療中である筈の漣を探した。きっと凱人も近くにいるだろうと思って顔を動かすと……大きな体はよく目立つ、すぐに見つけて傍に寄った。

 凱人の影に隠れて見えなかったが、そこには七生もいる。同じく治癒中の姉に付き添っているようだった。


「……皆、無事で良かった」

「あぁ、命はないものと覚悟して戦っていた。実際、命を拾えたのは運のようなものだ。アイツが遊んでいた所為でもあるがな」

「だね……」

「そして、そんな相手でさえ、御子神様の神使は遊びの余裕があって勝ててしまうんだな……」


 凱人は複雑そうな表情で、ユミル達を見ていた。

 エルゲルンが使った大魔術を見れば、今まで自分たちがどれほど遊ばれていたのか分かろうというものだ。もしも初手で使われていれば、まさに成す術もなくやられていただろう。


 今この場に五体満足でいられるのは、実際には運の要素が強い。

 彼我の実力差を感じ取った時点で、遊ぶことは決定済みだったろう。そして実際、それを許すだけの差があった。


 この数ヶ月、死物狂いで訓練を重ねてきた。

 実際にそれに見合うだけの飛躍的な実力向上も見受けられた。しかし、今回新たに現れた鬼には、遊ばれる程度の実力しか身に付かなかった。


 そして、これが今後の当たり前となるのだとしたら、あの孔の向こうからやって来る鬼は――強い鬼とはどれ程の数がいるものなのか。

 それを考えずにはいられなかった。エルゲルンが普遍的で平均的だとは思えない。間違いなく強者の一角なのだろうが、ならば他には一体どれほどの数がいるのだろう。


 そしてそれは、これからも孔を越えてやって来るのだろうか。

 その時アキラ達は、それらに相対できるだけの許可を得られるのだろうか。

 かつてアキラがトロール相手に戦力外通告を受けた時のように、お前たちでは無力だからと遠ざけられるのだとしたら、それはあまりに悔しい事だ。


 退魔鎮守という理念。鬼からこの国を護る、という事。

 オミカゲ様の護るこの国と、そしてオミカゲ様自身を護る。

 オミカゲ様に代わる矛と盾として、この身を犠牲にしてでも戦うと誓った。その誓約に偽りはない。だが、厳然たる事実がその前に立ち塞がる。

 ――全くの無力で、果たしてその任を果たせるのか。


 羨望の眼差しを向けるように、アキラはアヴェリン達を見つめる。

 その表情から感情を読まれたのだろうか、凱人が同じ先を見つめながら言ってきた。


「……折れたか?」

「え?」

「決して敵わぬと分かってしまった。敵は強大で、我らは弱小だ。届いたつもりが、薄皮一枚斬り付けるだけのものでしかなかった。……だから、もう戦えないか?」


 凱人の言葉は気遣うような調子だったが、アキラは断固として否定した。


「そんな筈ない。僕らはオミカゲ様の矛だった。それは間違いない。でも、勝てない傷つけられないというのなら、盾ぐらいにはなれる。弾除けの数は、多くて困る事はない筈だ」

「ハッ……、そうだよな。神のお出ましを許す事態だ、人の出る幕じゃないのかもしれん。だが盾にはなれるよな」


 そう言って凱人は笑い、アキラの肩を叩いた。

 友情を示す気軽な調子で叩いているつもりなのだろうが、凱人の力でやられると普通に痛い。


「……いや、正直なところ、俺の方が折れそうだった。鬼を退けられない御由緒家に何の意味があると。だが、そうだな。それが容易く貫通する盾であろうと、三枚重ねれば捨てたモンじゃないかもしれん」

「そうさ、弱小だっていうなら、弱小なりの戦い方がある。それを鬼に教えてやろう」


 アキラがヤケクソ気味に笑みを向ければ、凱人も大いに笑って頷いた。

 視線の向こう、ミレイユ達はエルゲルンへ尋問めいたものを始めようとしている。


 今日を堺に鬼の強さは格段に上がった。最早、御由緒家でさえ通用しない世界、何れ来ると予想していた世界が遂にやって来たのだ。

 行先を指し示して欲しいと思う。どうすれば良い、と縋りたかった。


 だが唯一変わらない事は、神を護るという使命だ。

 その為に戦えというなら戦える。それだけは間違いない決意だった。

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