嵐の前の その2

 御影昇日大社に転移が完了して、舞殿へと移動している最中、思わぬ寒さで身を震わせた。あちらの世界で活動していた地域は冬の寒さが厳しく、その為寒さには慣れたものだと思っていたが、神宮内の快適な室温に慣れてしまうと、それもあっさりと覆されてしまうものらしい。


 室内に入れば風は凌げるが、暖房が効いていたりはしていないようだ。

 ここでの生活が、まるで修行者のように思えてきて、暖かな室内で過ごしているのが申し訳なく思えてくる。だが、最奥の部屋まで案内されると、それも杞憂と分かった。


「ハァッ、ハァッ、ハッ……ハッ……!」


 ルチアが額から汗を流して結界に向き合っている。

 いつもの様に、部屋の中心にある三段に積み上げられた畳の上で、巫女服に身を包み、正座をしながら結界術を行使していた。

 以前のように倒れ込むような事は無くなってきたと聞いているし、事実ミレイユは倒れた姿を見た覚えはないが、それでも額に汗して制御に集中する様は、鬼気迫るものがあった。


 ミレイユが入室したというのに、ルチアは見向きもしない。

 目を固く閉じて、時折口の中で何かを呟くように唇を動かすだけだ。そのルチアを指導している一千華は、流石にミレイユの入室に気付いて、ルチアの集中を妨害しないよう、ごく軽く頭を傾けて礼をした。


 ミレイユもそれに頷く事で返礼とし、今も続くルチアの制御を見続ける。

 ミレイユの両脇に位置するように直立するアヴェリンとユミルも、邪魔しないよう極力気配を消して、音の一つも立てなかった。


 どれ程の時間そうしていたのか、遂に呼吸も乱れに乱れ、柳眉の間に深い皺が刻まれるようになると、一千華から止めるように指示が飛ぶ。


「――そこまで。もう、結構です」

「ハァッ、ハァッ……。はい……」

「休憩した方が宜しいでしょう。続きはまた後で。……お客様もいらしておりますしね」


 その言葉を聞いて、ようやくルチアはミレイユ達の存在に気付いたようだった。

 ミレイユの顔を見るなり顔を綻ばせ、そしてすぐに表情が萎む。肩を落とし、まるで自分が不甲斐ないとでも思っているような雰囲気を纏わせた。


 ミレイユはそこへ歩み寄り、盛り積んだ畳の縁に手を掛ける。

 身を屈めて膝を折り、汗で張り付いた前髪を払い、撫で付けてやる。その間もルチアはミレイユへ顔を向ける事はなかった。気恥ずかしい思いでいるなら微笑ましいばかりだが、罪悪感から来ている事は理解していた。


 やってみせるという様な啖呵を切った手前、というものもあるだろう。

 自分ならばやれる、という自負もあったに違いない。

 しかし、実際の進捗具合は芳しくなく、更に言うなら進展なしと言って良い有様だった。


 合わせる顔がない、と思っても仕方なのない状況ではある。

 ミレイユは、そんなルチアの肩へ手を置き、それから胸の奥へ仕舞い込むように抱き込んだ。


「ちょ、ちょっとミレイさん……!?」

「責任感が強いのは良いがな、そう思い詰めるな……。誰もお前を咎めやしない。お前の努力を知ってなお、謗るような奴はいないんだ」

「はい……」


 しおらしく返事して、ルチアは抱かれるままにコクンと小さく頷いた。

 ミレイユはその華奢な背をしばらく撫でる。熱で火照って熱い身体は、それだけ辛い制御を続けて来た証明だ。一体何時間そうしていたのかは分からないが、相当な無茶をしている事だけは分かった。


 それを身体中で感じて、最後にその背をひと撫でしてから身を離す。

 ルチアは名残惜しそうに見つめて来たが、それを笑みで返して一千華へ向き直った。


「……それで、どうなんだ? やはり……」

「はい、お察しのとおりです。当初想定されていた段階より、遥かに凌駕している事は認めます。わたくしの補助があったとはいえ、その鬼気迫る努力は限界を越えた先へ辿り着いたと言って過言ではありません。ですが……」

「一千華に迫る程のものではなかった、と……」


 本人が言い辛い事をミレイユが代わりに言って、それで一千華の緊張した表情が僅かに緩む。

 最初からルチアに対して苦言を呈していた身とはいえ、その事を口にするには抵抗があったのだろう。

 ミレイユは続ける。


「このまま続けさせる意味はあるか?」

「ないとは申せません。今までの成長と適応は、わたくしの想定を上回るものです。あるいは、と思わせるものもございます。とはいえ……」

「時間は今となっては資源だ、かつてそう言った事もあった」


 言いながら、ミレイユは視線を一千華から切り、ルチアへと向ける。


「最初からボーダーラインは三ヶ月と考えてもいたろう。そこで実用範囲まで力を付けられなければ、早くて半年で破綻する結界までには間に合わないと。……この辺で見切りを付けるべきだと言う声もある」

「言ったのは、どうせユミルさんでしょ」


 ルチアはミレイユが壁になって見えない背後へ、ひょいと顔を動かしてはユミルを睨め付ける。当のユミルは顔を外に向けたまま、肩を竦めて言った。


「誰かが口にしなくちゃいけないコトでしょ。この子にしろアヴェリンにしろ、アンタの努力を知ってるから、おいそれと口に出来ないってだけだし」

「でも、成果は出てるんです……!」

「そのようね。でも、その成果が実る保障の方が、少ないのもまた事実なワケでしょ? アタシは別にイジワル言いたいワケじゃないのよ。失敗しました、間に合いませんでした……そんな詫び一つで済まされないって、アンタも分かってるでしょ?」


 ルチアは悔しげに唇の端を噛んで俯く。

 仲間思いであればこそ言えない事だった。その貧乏くじを自ら引いてくれたユミルには感謝したいが、しかし同時に現実を突き付けられたルチアを哀れに思う。


 元より苦手な結界術だ。

 長年の研鑽の果て、一千華はそれを克服し昇華するに至ったが、同じ道程みちのりを幾らか短縮して進めるとはいえ、それは決して簡単に縮められる時間ではない。


 分かっていても諦められない、という事はある。

 元より負け試合に挑むようなものだった。順当な結果といえば、順当な結果に終わった。予想以上の努力を見せてくれたが、常に実る訳ではないのも、また努力だ。


「鬼の強化傾向は、結界に触ってるアンタが一番良く知ってるでしょ? 御由緒家であっても、手の付けられない相手が出てくる日は近いわよ。いっそ現場に出てきてくれた方が助かるんじゃない?」


 御由緒家の出動は、今でも日常的に行われている事だ。

 それは学生達にとっても同様で、強個体の鬼が相手と分かれば動員されていた。未だミレイユへ救援要請が来るまでには至っていないが、それも時間の問題だろうというのが大抵の予想だった。


 ミレイユはルチアに寄り添って、その手を取っては甲を撫でる。


「お前は今まで良くやって来た。どうせ無理だと言われていたものに抗い、そして一千華を驚嘆させる程の成長を見せた。だから今は少し休め」

「そんな暇なんて……! 休めって……、もしかしてもう外されるのは決定なんですか?」


 ルチアがその手を握り返して、縋るように見返してくる。

 互いの額が触れるかのような近さで、ルチアは真摯に目を見つめてくる。その目は、まだやれる、まだ諦めないと言っていた。


 しかしミレイユは、損切りも必要だと思っている。

 これまでの努力が無に帰すようで申し訳なく思うが、しかし同時に無理だと思えば諦める、という条件でもあった筈だ。


 それをこの場で口にするには勇気がいる。

 だからミレイユは、とりあえずの避難先として別の話題へ話を逸らす事にした。


「……なぁ、今はとにかく、休息する時間があっても良くないか。これまでの三ヶ月、ろくな休みも取ってないだろう?」

「時間も資源と言ったのはミレイさんです。休んでる暇なんて……!」

「だが、下手をすると、このまま現世を離れる事もあるかもしれない。……いつだったか、もう一度遊びに連れて行くと約束したろう。その約束を、私に果たす機会をくれないか」

「それは……」


 今となっては、それも遠い思い出になってしまった。

 あの時は自分たちを監視する目があっても脅威とは思わず、そして監視者に魔力があろうと、どうとでも対処できると予想していた。

 警戒を怠るような愚は犯していなかったが、同時に楽観もしていた。結界も魔物も、そしてオミカゲ様の事も知らず、安穏としていたものだった。


 気紛れにアキラを拾って、そして気付いた範囲で結界内の鬼を倒して回っていた。

 その一種、平和とも思える日々が、ひどく懐かしい。こんな事になると知っていたら、もっと早くに遊びへ連れて行ってやれたものを。


 ルチアは言葉に窮し、顔をうつむけて答えない。


「難しく考える必要はない。休息する事で見えてくるものもある、それはルチアも知っているだろう。急ぎで余裕がないからと言って、休息を取る事が必ずしも悪とはならない」

「そうですけど……」

「ねぇ、ルチア。気分転換すれば、また違った発見があるかもしれないじゃない。一日ぐらい付き合いなさいな」


 ユミルが口を挟んで、ルチアはムッと眉を寄せた。

 それから不承不承という体で小さく頷くと、ミレイユは一千華へと顔を向ける。


「そういう訳だから……明日一日、ルチアを借り受けるが、構わないか」

「ええ、どうぞ連れて行って下さいな。休めと言っても休まない娘ですから、強引なぐらいで丁度よろしいでしょう」


 我が事のように見透かした物言いに、ルチアは大いに顔を顰めたが、結局何も言わないで遊びに行くことを了承した。

 実際に自分の事、勝手知ったる事なのだ。何を言っても無駄だと理解している顔つきだった。

 ミレイユも小さく顔を綻ばせ、明日朝の一番で迎えに来る、と言い残して大社を去った。


 明日一日くらいは、何も考えずに過ごせるようにしてやりたい、と心から思う。

 それ程の努力を、ルチアはこれまで続けて来た。

 とはいえ、急な事でどこに向かうかも決めていない。ミレイユが外出するとなれば――それが大社などの御影関連じゃないとなれば、何事にも大事にしたがるのが奥宮の連中だ。


 それを上手いこと回避しながら、外へ遊びに行くにはどうしたら良いものか――。

 転移術を使いながら、ミレイユは頭を悩ませ始めた。

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