御子神の一日 その7

 ミレイユは速歩はやあしのままアヴェリンと並走しながら、その横顔をちらりと眺めた。

 やはりミレイユと一緒にいるせいか、素直に乗馬だけを楽しむ訳にはいかないようで、周囲の警戒を怠るような真似はしていない。


 それでも頬が緩むのを抑えきれないようだ。久々に楽しげで、心地よさそうな顔をしていた。

 左手に手綱を握り、右手をぶらりと垂らして馬の足並みに身体を預けている。カッポカッポと蹄が鳴らす音にさえ、身を預けるような軽快さで揺れていた。


 アヴェリンもまたミレイユとの並走を維持しようとしていたが、馬は飛び出して走りたくて仕方ないようだ。チッチッと舌を叩いて歩速を維持するようたしなめているが、慣れた相手でもない者の言う事は素直に聞いてくれない。

 馬首を巡らせて、うずうずと催促してくる始末だった。


「こいつも最早、我慢できないそうです。少し走らせてやりますか?」

「ああ、好きにさせてやれ。私も傍にくっついて走らせる」

「畏まりました。では失礼して……ハイッ!」


 掛け声と共に腹を蹴り、手綱を両手で握って走らせる。それで一気に速度を増して、一馬身ほど距離を離す。ミレイユもその動きに合わせるように馬の腹を蹴り、両手で手綱を握った。

 手綱を上手く操り方向を微調整させてやりながら、アヴェリンの駆る馬の背を追った。


 パカラッパカラッという、軽快な駈歩かけあしの音が辺りに響く。

 風に当たる強さも増し、頬をなぶって髪も乱れた。しかし二人ともそんな事は気にしない。再び並走できる距離まで縮まる頃には、遠く前方に柵が見えてきた。


 アヴェリンが一度手を上げ左前方を示す。それで左に大きく湾曲するよう走らせ始めると、ミレイユもそれに合わせて走り方を変える。


 馬場は広いが馬を走らせるとなると、やはり少々手狭に感じた。

 どこまでも広く自由だったあちらと違い、どうしても制限がある。だがそれも、安全と引き換えと思えば悪いものではない。あちらでは、いつ横合いから人か魔物が襲ってくるか分からない緊張が常にあった。


 馬とは本来、幾度となく休憩を挟ませながら走らせなければならない。乗り物であると同時に生物なので、水も飼葉もなしに走り続ける事は難しい。

 無理をさせれば、すぐにへばる。


 そういう認識であったのは現世の話で、あちらの馬は事情が異なる。

 基本的に今の駈歩程度なら七日続けて走り続ける事ができる、とされている。実際に走らせた事はないが、事実だろうと思っていた。脚力も持久力も桁違いなのがその理由で、競馬で良く見る全速力が千メートル越えてもヨレなかったのを実際体験したからだ。


 疲れ知らずとはいかないが、そもそもの地力が違う。それも現世と違い、マナを有する生物だからだろう。人間や他の知恵ある種族ほど上手く運用できる訳ではないが、それでも走る事に関しては、大概の生物より上手く制御する。


 だから瞬発力は元より、襲歩で全速力を出させても、失ったスタミナは常歩させるだけで回復してしまう。外敵に襲われやすく、その牙と爪に対抗しようと思えば、その逃げ足を活かす事しかない。それ故の走力特化の運用法なのだろう、とミレイユは考えていた。


 そのような馬に乗り慣れていたアヴェリンからすると、現世の馬は少々物足りないだろう。

 体躯は立派に見えても、実際は仔馬に乗っているように感じてしまうかもしれない。

 ミレイユは馬を並走させながら、風と蹄が邪魔するなか、声を張り上げて聞いてみた。


「お前には少し物足りないんじゃないか」

「いいえ、その様な事はありません。こうして低速で走るというのも、それはそれで良いものです」

「それについては同意するがな」


 空遠くに見える雲を見ながら答える。

 穏やかな気候と冷たすぎない風、それと蹄の音だけが響く馬場が今二人しかいない世界だと錯覚させる。そこを馬に走らせるだけで得も言われぬ高揚感が沸き起こった。


 何もかも捨てて逃げ出したい、そういう気持ちが沸き上がって来る。

 もしもこのまま、馬を駆って逃げ出したら――。

 そのように夢想して、同時にそれは出来ないと自省もした。逃げてどうなるものでもない。それに、やるしかないのだと心に決着をつけたのも確かなのだ。


 ミレイユとアヴェリンは悠々と馬を走らせる。

 時に緩急を変え、駈歩から速歩、速歩から駈歩と、馬が走りたいようにさせた。ミレイユはその上で風を感じながら身を任せるだけで良かった。


 ミレイユとアヴェリンの間に会話は多くない。

 話題がないというより、単に馬に身を任せて並走しているだけで満足だった。お互いの機微はお互いに良く分かっている。なので、必要がなければ口を開かない。


 馬場は広く、最初は物珍しさも手伝って、いくら見ていても飽きないくらいだったが、一時間も走らせれば流石に見慣れた景色になる。特に変化がある訳でもないので、見渡す限りの草原はそれだけ飽きが来るのも早い。


 そこから更に一時間走らせて、馬の息遣いも粗くなって来た頃だった。

 よく運動できたと見えて、その首周りに汗を掻いているのも見える。そろそろ頃合いかと思って、隣のアヴェリンへと顔を向けた。


「一周りしたら馬を休ませよう。こいつらも十分走ったろう」

「そうですね。まだ走り足りないようなら、その時は付き合ってやりましょう」


 お互いに頷き合って、馬を走らせる。

 そうしながら前傾姿勢になって馬の首を三回叩いた。それでミレイユの気持ちを理解した訳でもないだろうが、その歩速をゆっくりと落としていく。

 隣り合う栗毛の馬も、同じく速度を落とした。


 駈歩から速歩へと速度を変え、再びカッポカッポと蹄の音を変える。

 最初の時より速めではあるものの、宿舎が見えてきた辺りで、その歩速も緩やかになった。到着すると、残っていた馬丁が丁寧に礼をして迎えて来る。


 ゆっくりと速度を落として停止させると、アヴェリンが素早く降りてミレイユに手を差し伸べてきた。そのような介添えがなくとも降りられるが、最近のアヴェリンはとにかく主従としての関係を強めたがる。

 ミレイユの周りに傍付きが多くいるせいだろう。今までの多くの仕事は取られてしまった形なので、出来る事があれば自ら動きたいという欲求が強まるようだ。


 ミレイユは素直にその手を借りて馬から降りる。

 目線だけで礼を言って、次いで馬の首を数回叩いて、そして撫でた。心地よい嘶きを聞かせ、馬も顔を寄せてくる。その鼻面を優しく撫でて、その滑らかな感触を存分に堪能してから離れた。


 馬も今日は十分に走ったと見え、アヴェリンが騎乗していた栗毛の馬などは、既に水飲み場へ鼻を突っ込ませて水を飲んでいる。

 黒毛もまた、馬丁に引きつられて宿舎へと戻っていった。その際も、馬丁は丁寧に礼をしていくのを忘れない。手綱を握ったまま一度膝を折って頭を垂れ、そうして立ち上がっては去っていく。


 馬を見送りミレイユ達の後を付いて来ていた馬丁も、馬を降りると近くの同僚に馬を預ける。そして本人は宿舎とは別の方へと走って行った。

 何とも慌ただしいと思っていると、幾らもせずに今度は侑茉を引き連れて帰って来る。


 侑茉はミレイユの近くまでやって来ると、丁寧に頭を下げてから口を開いた。


「勝手に場を離れて申し訳ございません。拙いものですが、僅かばかりの心尽くしとして、お食事の準備をしております。よろしければ、拙宅で疲れを癒やして頂ければ幸いです」

「そうだな、疲れてはいないが……」


 ミレイユはアヴェリンの顔を窺うようにして見てから、空へと視線を移す。

 まだ夕食には早い時間だが、軽く摘むぐらいはしても良い。喉が小さく乾きを覚えているのも手伝って、その申し出を受ける事にした。

 侑茉はその返事を受けると、あからさまに顔を綻ばせ、ホッと安堵の息を吐く。


「それではご案内致します。こちらへどうぞ」




 付いて行った先は宿舎の隣にあった、立派な邸宅だった。

 馬の世話を任されているとはいえ、まさかここが本邸ではないだろうが、そうと見紛う程に優美な作りだった。調度品なども馬に関する物が多いようで、蹄や蹄鉄を模したものが見える。


 トロフィーなども飾ってあったので、もしかしたら競走馬などの飼育をしているのかもしれない。興味を持って聞いてみると、侑茉は滑らかに説明してくれた。


「そちらは競馬ではなく、馬術競技のトロフィーで御座います。馬術は武芸十八般にも数えられているとおり、武芸の重要な科目ですから。由井園の馬は、そういった方面で特に名を残しました」

「なるほど、この厩舎は名馬揃いという事か」

「名馬と呼べるのは一握りだけですが……オミカゲ様からご満足頂ける馬を維持する事は、由井園の使命と心得ております」


 侑茉は強張った顔で一礼し、深く頭を下げる。

 誇りを持って行う仕事ではあるのだろうが、馬の必要性が薄れた現代では、乗馬は貴族の道楽だろう。その第一人者がオミカゲ様なら、まだ肩身が狭いという事もなさそうだが、侑茉には不満そうだった。


 鬼退治の御由緒家としても外に置かれている状況で、馬が移動手段として優れていた時代ならともかく、現在では移動するなら車を使う。それで歯痒い思いをしていそうな雰囲気を、侑茉から感じた。


 トロフィールームは別にあるそうだが、廊下の両端や壁にもトロフィーや賞状が飾ってある。栄光の歴史というやつだろう。長い廊下を歩くなら、その間に楽しんでもらおうという配慮なのかもしれない。


 案内された先は食堂のような作りだった。迎賓館も兼ねているのか、飾られた装飾も見事なものだった。そこに当主の志満とその夫君、そして使用人一同が頭を下げて待っていた。

 そのような態度をされても疲れるだけだと思っても、ミレイユも既に染まり始めており、今となっては無感動にそれを受け入れるまでになっている。


 顔を上げた志満が笑顔のままに口を開く。


「ようこそ御出くださいました、どうぞごゆるりとお寛ぎ下さいませ」

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