御子神の一日 その6
競技をする訳でもなく、単に乗馬を楽しみたいというのなら、女性の場合横向きに騎乗する事もある。本日ミレイユが着用している服のように、オミカゲ様の代名詞ともいえる神御衣は、足を広げて跨るには向いていない。
だから横乗りするには専用の鞍が必要で、馬と乗り手の双方に合った物をしつらえなくてはならない。由井園ほどの馬舎を擁する家となれば、乗馬の道具に事欠かないものだが、用途が限定される物については、その限りではなかった。
オミカゲ様から品種と血統管理を任されているだけあって、鞍もその種類も豊富にある。
しかしそれは、あくまで一般的な乗馬道具に限った話であって、横乗りする女性の乗馬道具にまで多種多様に用意されている訳ではなかった。
そもそも横乗りは優美に見えるが安定性に難があり、跨るよりも技量を要する。歩行と共に揺れる馬上は、安定した姿勢を取ろうとしても上手くいかない。素人が手を出すには向いてない座り方なのだ。
だから鞍も、自身に合った物を選ばないとずり落ちる危険が増す。
オミカゲ様と同じ物を用意すれば良いという話を聞いてはいたが、本来ならその身体にあった道具を誂えてやらねばならないのだ。靴のように大きさが同じだからと使う訳にはいかない。
顔も体格も良く似ているオミカゲ様と御子神様だが、全くの同一という訳にはいかない筈だ。しかし問題ないと強弁されてしまえば、由井園としては突っぱねる事も出来なかった。
案内を自ら仰せ付かった侑茉は、今更ながらに緊張で心臓が飛び出そうとしていた。
厩舎の近くにある馬場まで案内したが、形が悪い、尻の座りが悪いと叱責されたらどうしようと、そればかり考えている。
それに気づいたらしい御子神様が、怪訝そうに首を傾げた。
「どうした、酷い緊張ぶりだが……」
「い、いえ、お気になさらず……! 御子神様を案内できる栄誉に昂ぶっているだけです」
「乗馬に来ただけだ。迷惑を掛けるような事はしない」
気遣ってくれる姿勢は嬉しいし、噂で聞くより余程優しい一柱のようだが、それとこれとは話が別だ。そう言われて緊張せずにいられれば苦労はない。
侑茉は二人を宿舎から少し離れた場所まで案内すると、前方からやってくる二匹と二人の影を認めて足を止める。
見てみれば、馬の調教を請け負う馬丁たちが、二匹の馬を引き連れてやってきた。
初めて乗るなら、
オミカゲ様は、古くは御自ら馬を駆って戦場を渡り、鬼を退治して来た御方なので、気性の激しい
実際、乗馬に慣れた者にそういう気持ちを強く持つ者は多い。
或いは母神を真似て、という事なのかもしれないが、決して初心者に乗せてよい馬ではなかった。
落馬したところで命に関わるとは思わないが、それでも初めてと知りながら、もっと乗りやすい馬を勧めなかった事に非がある、と責められやしないかと不安になる。
高天ヶ原に馬がいるかは知らないが、乗馬した経験がある事を祈る他なかった。
常に御子神様の傍らに立つ、長身の女性が朗らかに空を見上げる。
豊な金髪が自然と波打つ姿は美しく、その日に焼けた美貌もまた類を見ない程に美しかった。御子神様の傍に侍る事が許されるだけあって、外国人のようなのに、その美貌も実力も桁外れだ。
その彼女が草原しかない周囲を見渡して言った。
「絶好の乗馬日和で、なによりでしたね」
「そうだな。日差しはあるが、風は冷たく心地よい。汗もかかなくて済みそうだ」
護衛の者だと思うのに、気安い態度に咎める様子もない。二人の間には単に主従というだけでなく、特別な関係が築かれているように見える。
オミカゲ様は外国人と親しくした話は聞いた事がなかったので、少し疑問に思ったが、その間にも二人の前へ馬が運ばれてきた。
御子神様の分はともかく、そのお付きの人の分までとなると、その鞍は用意されていない。格好事態は足を広げるのに問題なさそうだったので、近いと思われる鞍を複数持って選んでもらうようだ。今まで何通りもの鞍を手配していた馬丁からすれば、遠目であってもある程度適した物を用意できる。
あとは本人に座り心地を確かめてもらって選ぶだけだ。
その選んでいる傍ら、御子神様が一頭の馬の前に立つ。
用意されたのは名馬揃いの由井園の厩舎から選ばれた、一・二を争う優れた馬だった。オミカゲ様からもお褒めを賜った名馬で、侑茉の目から見ても誇れる見事な馬だ。
均整の取れた体躯はすらりとして逞しく、また力強さに溢れている。美しい黒毛の馬体は完璧に磨き上げられていて、まるで鏡のように光を反射していた。
艷やかな馬体は歩く度にうねる筋肉まで美麗に映し、そのしなやかな美しさを存分に表現している。たてがみも綺麗に編み上げられていて、御子神様が騎乗する馬を、馬丁たちが最新の注意を払って仕上げたのだと分かった。
白と紫はオミカゲ様の色だ。
今回白馬を用意せず、あえて黒毛の馬を選んだのは、その立場を慮ったが故だ。御子であっても同一ではなく、優劣ではなく差はある。
オミカゲ様専用馬である最良馬を提供しなかったのは、その対比として黒毛が適していると思った為だった。その気持ちを詳細に説明する気はないが、同じく敬いながらも別であると表明したも同然だった。
御子神様が馬首の腹を叩くと、あっさりと鐙に足を掛けて騎乗する。乗るだけの事すら手助けが必要だろうと傍で待機していたのだが、あの様子を見る限り何の問題もなさそうだ。
馬上にある姿も堂々としたもので、乗り慣れている事を伺える。
助言も手引きも必要なさそうだった。今も優しげに首を撫でる姿も危なげなく、馬も心地よさそうに嘶いていた。
もう一方はどうかと首を巡らせて見ると、丁度鞍を選び終えたところだった。
馬具を固定させると幾らか揺すって確かめ、馬の方に機嫌を伺い首筋を叩く。何度か呼び掛けつつ撫でる姿は手慣れていて、こちらも何の問題もなさそうだった。
特に無理やり騎乗しようとせず、対話から始めて許可を得ようとしているところは、古式ゆかしい熟練の職人のような貫禄を見せる。
とうとう許可をもぎ取ったらしい彼女は、そのままひらりと、重力を感じさせない動きで騎乗した。その姿の美しい事と言ったらなかった。
馬もご機嫌な様子で、首筋を撫でられるのも嫌がろうとしない。あの馬は気性が荒く、そう簡単に心を開くような性格をしていないのだが。
こちらも御子神様が乗った馬とは引けを取らないほどの見事な栗毛の名馬で、やや大きい馬体が長身の彼女に良く似合っている。
手入れも行き届いていて、既に人馬一体とも見紛う姿は泰然とすらしていた。
二人の姿を見ていると、もはや何の助力も必要ないとは思うが、それでも全くの放置も出来ない。今にも腹を蹴って馬を走らそうとしている二人に、馬丁の一人を付けた。
無論、この場は柵に囲まれ危険もなければ余人も来ないが、万が一という事もある。
馬丁を近くまで呼んで、耳を貸すよう命じる。
馬を近寄らせて体を屈めて来た馬丁へ、十分な配慮をするよう声を掛けた。
「お忍びで、気分転換の気晴らしにと来ていらしているのだから、決して邪魔になるような事はせぬように。遠くから見守るのと同時に、外から誰か来ないかしっかり見張って」
「勿論です、よく分かっております」
「柵の方へはなるべく近づかせない方が良いわね。変に耳の良い輩が来ているとも限らないから」
「はい、その辺に行きそうなら回り込んで、やんわりと方向転換を願うようにいたしますよ」
「ええ、お願いね」
そこまで言うと、遂に二人は馬を走らせた。それに数秒遅れて馬丁も動き出す。
本当なら侑茉が馬を駆って後を追いかけたかった。しかし本日は第一礼装という服装なので、とても乗馬は出来ない。
礼儀として衣服に気を配るか、それとも馬場でも後を付いて回るかを迷って、結局礼儀を重んじる事を選んだ。侑茉は最後まで抵抗したのだが、母による礼儀を失する方がイメージは悪くなるという説得で折れる事になった。
まだ十分な話も出来ていないし、幾らでも話をしたかったのだが、今はその機会がなかった。まずは十分に乗馬を楽しんで頂き、侑茉が話したい事はその後、機会があれば話すで良かった。
この場で話し掛けて不興を買う方が、後々を考えればずっと損をすると分かっている。
今は耐える時なのだ、と自分に言い聞かせ、既に遠く離れたその背を見送った。
その馬術は問題ないどころか優美そのもので、馬上でも安定した姿勢で走っていく。走るといっても最初から飛ばす訳ではなく、
明らかに、馬の扱いになれた者の走らせ方だった。
これならば口出しも心配も無用だと、改めて胸を撫で下ろす。
後は馬丁に任せて、宿舎と併設されている邸宅へと赴く。乗馬が長く続くようなら、終わる頃には夕食が近い時間帯となる。
既に母の志満が赴き、万事取り計らっている筈だが、何か手伝える事があればと思って自らも赴く。とはいえ何かあってお申し付けがあるかもしれないので、一人残しておく必要があるだろう。
宿舎から一人呼んで万全に対応出来るよう言付けると、侑茉はその場を後にした。
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