御子神の一日 その4
神宮前通りで和菓子屋を営む孤狼堂の女将は、店の前を足早に通り過ぎていく人を見て不思議に思った。一人が足早に通り過ぎていく事は珍しくないし、不思議がる事もないが、それに五人、十人と増えていくとなると注目せずにはいられない。
神宮前通りは一等地の商店街だ。格式高い老舗が軒を連ね、熱心に通う客は勿論、参拝者もまたこの道を歩く際の振る舞いを心得ている。
誰もが敬虔な信者という訳ではないが、それでも騒ぎを起こすような不調法は起こさないものだ。神へ通ずる道というのは、それ程までに敬意を持って歩く事を意識させ、周囲の店員も粗雑な振る舞いを許さない。
だというのに、まるで祭りでも始まるかのような浮ついた雰囲気を感じる。
我先に駆け付けようとする者たちを見ると、それもあながち間違っていないように思えた。しかし本日祭りがあるなんて話は聞いていない。
というより、商店街に店を構えているなら組合にも参加しているのが当然で、そういったスケジュールも全て把握している。
誰に言われるまでもなく、本日が特別でないと女将は理解していた。
そこまで考え、脳裏に閃くものがある。
まさか、という思いがドッと胸に去来する。極めて珍しい事だが、ない訳ではない。神宮前通りが一等地なのは、その立地的価値も勿論だが、その恩恵を存分に得られる事にも由来する。
店の前を通り過ぎようとしている者の一人に顔見知りを見つけ、女将は声を掛けて呼び止めた。もう凡そ想像は付いていたが、万が一という事もある。
「弁慶堂さん、どうなさったんです。神宮の方へ向かうという事は、やはり……?」
「ああ、孤狼堂さん。ええ、私も聞いただけですが、どうも本当らしいです。オミカゲ様が奥宮から、お出ましになられたとか……!」
「まぁ、本当に!? こうしてはいられませんわね……!」
女将は丁寧にお礼を言って、店内へと取って返す。
アルバイト店員の一人に店を任せ、店内の奥、和菓子作りの作業場へと一歩だけ踏み入れる。急いではいても、埃を立てたり、奥深くへと踏み入れたりするような振る舞いはしない。
作業場には二名の職人と、その親方となる夫が作業の手を止めて訝しげな視線を向けていた。
作業中の出入り厳禁など、女将に言うような事でもないし、女将自身も良く弁えている。その上での乱入なので、それには何か重大な事があったのだと察したようだ。
何事かと問い質す事なく、女将の発言を待っている。
「神宮よりオミカゲ様がお出ましに……! お店は古賀ちゃんが見てくれますから、お早く――」
「なんだって!?」
女将が全てを言い終わるより前に、親方は元より職人も慌ただしく動き出した。
腰巻エプロンへと手を掛け、作務衣帽子を取り外しながら作業場から出てくる。我先へと飛び出して行くのを女将が壁に背を預ける事で避け、そして自身もまた後を追って小走りに駈けていく。
ほんの僅かな間でしかなかったのに、店の外に出た時には、既に大勢の人が道路の脇を固めていた。神宮の出入り口、大鳥居からすぐ脇が一般駐車場となっている。神宮関係者の専用駐車場は、そこから少し離れたところにあった。
本来なら専門駐車場ともなれば、もっと近辺に作りたかったろう。一般者用の駐車場がより近くにあるというのも不思議に思うが、この近辺は古くから店が周囲を固めていて土地が無く、それで已む無く離れた場所に作ったという経緯がある。
離れたといっても不便に感じるほど遠くはない。
御足労と不便を掛けるべきではない、という声もあった。しかし、今回のように玉体を拝める機会が生まれるので、周囲に住む人々からは有難がられている部分もある。
孤狼堂の人達もその口で、熱心な信者ではあるものの、現在の状態はむしろ歓迎していた。
神宮側にしても、その気になれば土地を買い上げる事は難しい事ではない筈だ。
丁寧に説明すれば、その権威もあって穏便に立ち退きさせる事は出来る。それをしないのは、一重に現状が不利益ばかりではないせいだろう。
信仰を理解できなくても、オミカゲ様へ感謝を捧げる喜びは理解出来るという者は多い。普段から病気や怪我から守られているのだから、それに感謝を返すのは容易い。
短い距離であろうとも、その御姿を御簾越しであろうと拝める事が出来るのなら、何にもまして駆け付けたいと思うのは自然な事だった。
孤狼堂の従業員もそうだし、いま道路を埋め尽くさんばかりの人々もそうなのだろう。
神宮関係者は元より、十分に心得ている人達が、率先して指揮を取り進行の邪魔になる者をどかしたり、空いてる場所に誘導したりしている。
女将達はどういう場所に居れば良いのか知っているので、専用駐車場に程近い場所を選んで到着を待った。終着点近くは騒がしいばかりなのに、神輿の近くは静かで物音一つしない。
オミカゲ様を前に不敬とも不実とも取られかねない行動は慎むよう、誰もが理解しているのだ。
静けさが迫る程に、オミカゲ様の御威光を感じる。
ただ、その場に跪く音、衣擦れの音が聞こえ、話し声などは上がらない。
「あなた、そろそろですよ……!」
「ああ、分かってる。それにしても、このような幸運があるとは……!」
「全く縁起がいいや!」
女将が声を掛ければ、夫の親方も、そして職人も口々に褒めそやす。
誰もがオミカゲ様の御威光に触れる機会を得られて嬉しいのだ。何しろオミカゲ様が表に出る機会は多くないし、公式行事ともなると入念な交通規制が入る事もある。
行事でないなら、その分少ない人員での規制になるので、今回のように一般人がお側に侍る事も出来るようになる。そのような機会は年に一度もない。
つまり大変な幸運に恵まれたという事になる。
視界に映る範囲の人垣が次々と膝を折るのを見て、孤狼堂の人達もまた同様に膝を折る。まるで波に押されるかのように、人垣の高さが小さくなっていくのを見ると、遂に来たのだと否が応でも実感できてしまう。
先頭の護衛兵が伏せた視線の先で見えるようになれば、いよいよオミカゲ様の登場が近い証拠だ。長蛇にも思える護衛の列が続き、少しの間を置いて担ぎ手が見えてきた。
女将は組み合わせた両手を頭上で掲げ、その御神徳、御神慮に感謝を捧げる。これまで守ってきてくれた事、これからも守ってくれる事も含めて祈りを捧げた。
孤狼堂の様な好立地に住んでいる人でも、こうして玉体の間近まで迫れる回数は少ない。だが、その少ない経験でも理解している事がある。
オミカゲ様は、その御威徳とでもいうべき気配をハッキリと持っている。それは人が努力して発する事が出来るような気配ではなく、明らかに人ではないものと肌で理解できるものだ。
それを口で説明するのは難しいが、ただ一つ判っている事は、神だからこそ発する威だという事だった。
温かいようで冷たい、不安になるようで安心する、相反する何かが身体を通り抜ける。
それは錯覚ではなく、オミカゲ様を間近に感じた事のある人達が共通して覚える感覚だった。
その感覚が、今日もまた女将達の身体を通り抜ける。
激しいものではなかった。小川に手を差し伸べたような、柔らかな感触が身を包んでは離れていく。その感覚を覚え、多大に感謝を捧げつつ、身震いするような感動を覚える。
確かな神に感謝を伝えられるという事実、その神に護られているという事実に、誰もが感動せずにはいられない。
神輿が遠く離れ、専用駐車場の中へと消えていく姿を横目で見ても、まだ頭を上げる事ができない。その感動を、感謝を、そう簡単に終わらせたくないと思うからだった。
それはこの場にいる誰もが同じで、しばらく身体が固まったように動かない。
再び動き出すようになるのは、同じように感謝を捧げていた隣人が顔を上げてからだった。顔を見合わせれば、誰もが同じ思いを抱いていたのだと分かる。
付近から雑踏と雑音が戻り、周囲も遠慮をなくして口々に話し合う声が聞こえてくる。
同じ感動を分かち合いたい者たちの話し声だった。
女将が隣の夫に顔を向ければ、目が合って互いが何を言いたいのか理解する。
夫婦の間で、それが分かっていれば十分だった。頷き合って立ち上がる。
「店の方も放り出して来てしまった。早いところ戻らないと、タネも駄目になっちまう」
「そうですね。……それにしても、何て光栄なのかしら。今年はきっと良い年になりますよ」
「勿論だ、そうに違いない」
お互いに笑い合って、来た時同様小走りで店へと帰る。
浮足立つ心はしばらく収まりそうもないが、それはいま無理に抑えつける必要はないだろう。店に訪れる客も知人も、きっと同じ気持ちに違いないのだから。
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