御子神の一日 その3
あれから茶菓子と一杯の茶を楽しんだ後、野点の茶会はお開きとなった。
畳の上の行儀作法など考えなくて良い茶会は、ただ味を楽しむだけで良く、ミレイユとしても十分楽しめ、また貴重な体験となった。
目の前にある難題を無視するような形だが、考えれば妙案が浮かぶという訳でもない。適度に心と体を休めた方が良い場合もある。
さりとてこれから予定もない。明日の学園訪問を控えた身としては、何か準備も必要かと思ったが、聞いた話ではそれも必要ないらしい。
それで自室まで帰ったのだが、しかしそれからこちら、ミレイユは時間を持て余していた。
というより、奥御殿へ居を移してからというもの、持て余していなかった時間などない。オミカゲ様の様に責務を持つ訳でもないから好きにして良いのだが、外出するのも憚られる。
何しろ、身一つで済まないのが煩わしい。
ミレイユがぼんやりと室内の調度品を見て回っていると、そこに咲桜が声を掛けてきた。用事を申しつける時以外、基本的に会話の遣り取りがない咲桜には、大変珍しい事だった。
「御子神様、もし宜しければ乗馬など嗜まれては如何でしょうか」
「乗馬……?」
「はい。先程から、何やら物思いをしておられるご様子。室内で過ごす機会の多い御子神様には、丁度良い気分転換になるのではないかと、ご提案させて頂いた次第です」
「……だが、それはこの中庭で出来る事ではないのだろう?」
広い庭ではあるが、馬を歩かせ、あるいは走らせるのに向いた場所という訳でもない。
そもそも馬房があるという話も聞いた事がなく、もしもあったらそれなりに臭いも漂って来る筈。それがない以上、外へ出て牧場なりへ向かわなくてはならないという事だ。
しかも今は昼になろうとしている時間帯。昼食もこれからなら、随伴する者たちにも準備する時間を与えなければならない。移動の準備となれば、更に時間が掛かるだろう。
日が暮れる前に帰ってこなければならない訳でもないだろうが、スケジュール的に余裕のあるものにはなるまい。
気乗りしないミレイユの心情が伝わったのか、咲桜は一礼して頭を下げた。
「勝手なことを申しました。何卒、お許しください」
「いいや、その気遣い自体は嬉しい。ただ、行くのもそうだが、行くまでの準備も相当なものだろう? だから気軽に行くとも言えない」
「重ねてご容赦を。本日、いつでも出立できるようにと、準備を整えておりました」
「既に? 今からでも行くと言えば行けるのか?」
「はい、準備万端終えております」
ミレイユは、はて、と首を傾げた。
馬に乗りたいと口にした事もないし、そう思わせる素振りを見せた事もなかった筈だ。いつも部屋の中で籠もっている事が不健康と思われたのなら、その息抜きにと気を利かせたのも頷ける気もしたが、何もかもが急だ。
部屋でばかり過ごすミレイユに、そこまで気を揉む様子が現れていたのだろうか。
ミレイユはアヴェリンへと視線を向ける。
時間を持て余しているのは、何もミレイユだけではない。アキラの朝練や夕練があるし、身体を動かしている分幾らかマシとはいえ、彼女もまた暇する時間は多い。
旅をしていた以前と比べれば、随分と物足りなく感じている事だろう。
いつだったか、アヴェリンにも現世で趣味の一つも見つけて欲しいと思った事を思い出す。アキラのアパートを出入りしていた頃ならまだしも、今の御殿暮らしではそれも難しい。
あの時もあの時で、金銭的問題から不自由させていたから、叶えてやれていたか不明だが、自由という意味では以前の方があったように思う。
アヴェリンは馬好きだ。
あちらの世界で過ごしていた時も、アヴェリンはその世話を率先してやっていた。暮らしの一部と言っても良い程だった。
それが近場でさえあれば、アヴェリンも一人で出かけるような事があるかもしれないし、それを思えば出かけるのも良いかもしれない。
そこまで考えてから、視線を咲桜に戻す。
「因みに、行くとしたら何処になるんだ?」
「由井園家が保有する牧場になります。先方にも連絡は済んでおり、もし来て頂けるなら喜んでお迎えすると返事を頂いております」
「……今日行くかどうかなど、私の予定にはなかったろう。断っていたらどうしていたんだ?」
「その時はその時で構いません。こちらで勝手にやった事、御子神様におかれましては好きになさるが宜しいかと。勝手気ままに振る舞うは神の特権、オミカゲ様からもそう申し伝えられておりますれば」
ミレイユは思わず唸って眉を顰めた。
勝手気ままという割に、オミカゲ様は周囲を完全に固められて自由がないように思える。スマホ一台持たせてもらえず、観劇すら満足に見せて貰えないと笑っていた。
内容を多く知る訳ではないが、書類の決裁など多くの仕事も抱えているようだ。それを知る身からすると、オミカゲ様の発言は裏があるように思えてならない。
――いや、とミレイユは思い直す。
そもそもが僅かな現世の時間を楽しんでおけ、というのがオミカゲ様の方針だった。孔の拡大は止められず、破綻するより前に送り返す事でやり直しを決行するつもりだ。
ならば好きに振る舞えという言質を与える事で、ミレイユには本当に好きにさせるつもりなのだろう。方針に若干の修正が入って学園へ教導するような破目にはなったものの、好きに暮らせるように後押しする、という発言に嘘はない訳だ。
「……行くと言うなら、今からでも良いのか? つまり、この瞬間から」
「勿論で御座います」
「昼食については?」
「御車を用意いたしますので、そちらでお召し上がりになられますし、到着した先で用意させる事も出来ます」
「……そうか。では、車に用意しろ」
「畏まりました、仰せのとおりに」
「それとユミルにも声を掛けてみてくれ。着いてくると言ったら、その分の用意もしてやってくれ」
「お任せ下さい」
咲桜は一礼した後、部屋を出ていく。方々へ知らせに走るのだろう。待っていれば、遅からず出発の声掛けがある筈だ。
ミレイユはアヴェリンに身体ごと向け、申し訳無さそうに笑う。
「すまないな、勝手に決めて」
「すまない等と言う必要はありません。ミレイ様の行く所には、どこであろうと着いて行きます」
「……うん。だが、どうだ? 久々に乗馬できるとなると、少しは楽しく思えそうか?」
「私の事をお考えになる必要はありません。ミレイ様の為さりたいように為さって下されば、それが一番よろしいのです」
「ああ、つまり今は、お前を喜ばせる事が私のしたい事だ」
ミレイユはちらりと笑って肩を叩いた。ポンポンと、ごく軽く叩いた手の上にアヴェリンは手を重ねる。花開くかのような輝く笑顔で頷き、深く頭を下げた。
「……乗馬、楽しみだな」
「はい……!」
咲桜が請け負ったとおり、準備は整っていたらしく、すぐに迎えがやって来た。
しかし部屋の中にユミルの姿は無かったという。ミレイユはアヴェリンと互いに顔を見合わせて頷いた。
「まぁ、いつもの事か……」
「ですね。どうせ、どこか適当に徘徊しているのでしょう」
「そういう訳だから、ユミルの事は捜さなくて良い。この二人だけで行く」
「畏まりました」
あちらの世界にあっても、ユミルは時折ふらりと姿を消した。旅の最中、情報収集して来る事もあれば、単に酒を飲み歩いていた事もある。大抵は憂さ晴らしを兼ねたもので、いつも出立前には帰ってきていたので、特に煩く言わなかった。
だがミレイユに断りなく姿を消す行動に、アヴェリンは良く気炎を上げていたものだ。軍隊のような規律を求めている訳ではないものの、家長の言う事は絶対という価値観で育ったアヴェリンとは、対立が絶えなかった。
半年もすれば言っても聞かないと判断し、好きにさせるよう放任する事にもなったものだ。
もし今回の話を何処かで耳にしたのなら、どこかで合流する可能性もある。そうでなくても別に困らない。元よりアヴェリンを労うような意味で出掛けるのだ。
「では、行こうか」
ミレイユの掛け声と共に、アヴェリンを伴い部屋を出る。
御殿を出る頃にはそれなりの随行員がいる事が分かり、咲桜も当然のように同行している。中には鎧と槍を持った者すらいる。護衛には違いないだろうが、同時に示威目的も兼ねているのだろうと思った。
御殿の中に車は乗り入れられないので、神宮から出て外にある専用駐車場まで歩かねばならない。だが当然、そこまでミレイユを歩かせる訳にはいかないと、神輿が用意されていた。
既に四名の担ぎ手が平伏して待ち構えており、乗り込みやすいよう、小型の階段が神輿に続いている。自らの足で歩くと言っても、外には参拝者がいて、それはそれで目立つだろう。
どちらがマシかと考えて、顔が見られないだけ神輿の方が良いかと判断した。
専用駐車場というのも神輿が乗り入れられる程の高さや広さがあるんだろうし、一般客への貸出なんかもしていない筈だ。そこまで行けば見られる事なく車に乗り込めるだろう。
明日の予行練習と思えば、今の内に慣れておくのも良いかもしれない。
ミレイユが乗り込み、御簾が降ろされる。
内側からは外の内容が薄っすらと見えるが、外側からはそのシルエットしか映らない。恥ずかしい姿を激写される事態だけは避けられる。
神輿内は広い空間だが、他に乗り込む者はいなかった。
アヴェリンくらい傍に置いておきたい気持ちはあるが、神輿は名前の通り、神が乗る為の輿で、他の者が乗り込む事は許されない。
ミレイユが座る位置を直そうと尻をもぞもぞさせていると、掛け声が一つあって神輿が持ち上がる。非常に安定した一糸乱れぬ動きで整然としたもので、予想していたよりも乗り心地は悪くなかった。
まるで水面を漂う板に乗っているかのようで、人が運んでいるとは思えない。
中々に楽しい体験をしていると、神輿は神宮の外へ出る。重々しい音と共に扉が開かれ、それを目にしていた参拝者達は、神輿が現れた事に驚愕したようだ。
波が押し寄せるようにざわめきが広がり、同時に誰もが道を開ける。
道の両端に寄った人達は、膝を付いて頭上で指を絡めるように手を組み合わせた。オミカゲ様に対する信仰の現れで、感謝と祈りを捧げる祝詞のようなものが聞こえてくる。
乗っているのはオミカゲ様ではなく御子神なのだが、周りの人にそんな事まで分からない。そもそも一般的には御子神などという存在を知らないのだ。そして神輿に乗った誰かがいるとなれば、何者なのかなど考えるまでもない。
勘違いを訂正する事も出来ず、もどかしい気持ちで早く終る事だけ祈った。
どこから聞き付けたものか、人の波は途切れるどころか更に増した。どこに向かうのかも心得ているようで、両端で膝を突く人々で道が作られていた。
従業員らしき人も店を放り出して、膝を付いては両手を組み合わせる。誰も彼も慌てた様子ではあるものの、騒ぎ立てるような事はしなかった。
もっとワッショイワッショイ言ってくるものかと思ったが、敬虔な信者の如く、その歩みを止める事がないよう見守るような感じだった。
その信仰を捧げる事が出来る喜びを、噛み締めているようですらある。
――慕われてるんだな。
それを改めて実感する。見せ掛けの、あるかないかの奇跡ではなく、事実として民を助ける神となれば、拝まずにもいられないのかもしれない。
それをミレイユに向けられては申し訳ないが……。
オミカゲ様とミレイユは同一人物だが、厳密には違う。千年の時を歩んできた道のりが、その差を歴然のものと知らしめている。
向けられるべきは自分ではないが、せめて駐車場に辿り着くまで無心でいよう、とミレイユは御簾の隙間からゆっくりと流れる景色を目で追った。
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