提案と決断 その2
アキラは邸宅の前で急停止すると、身嗜みを整えてから扉に手をかける。
汗も存分に掻いたので臭くないかと肩口を嗅いでみたが、顔を顰める程でもない。薄っすら感じ取れる程度だが、エチケットとして流しておくべきかもしれないと考え直す。
だが同時に、もう随分待たせてしまっている筈なのだ。
どの程度気絶していたのかも分からないし、どのくらい待たせているのかも分からないが、汗を流すぐらいなら直ぐだ。そうした方がいいかもしれない、と踵を返したところでユミルがもう傍まで来ている事に気が付いた。
「何してんのよ、早く入りなさいな。犬が餌に食らいつくみたいに走りだしたクセして」
「何ですか、その例え。……いや、汗まみれの格好じゃ失礼じゃないかと」
「そんなの今更でしょ。いいから入りなさいよ、あの子だって一々気にしないわ」
そう言って背を押されてしまえば、抗うのは難しい。
扉を開けて中に入ると、懐かしい香りが鼻腔を擽る。室内は木目調の壁から想像できるとおり、木と花を基調とした表現し難い香りに満ちている。
箱庭には毎日来ているが、邸宅へ入るのは久しぶりで、優に二週間以上は経っていた。
奥へ歩を進めれば、そこに以前良く招かれていた朝食のメニューの香りも混ざって来る。思わず腹の音も鳴り始め、気恥ずかしく思いながらダイニングへ向かった。
一番奥の上座には、既にミレイユが座っていて、コーヒーカップから口を離したところだった。
アキラの姿を認めると、軽く頷くような仕草で挨拶してくる。それに心の奥底から湧き上がるものを感じながら、アキラは腰を大きく曲げて頭を下げた。
「お、おはようございます! お招きして貰ったのに長い時間待たせてしまい、申し訳ありません!」
「うん。そう固い挨拶なんてするな、そういうのはもう十分間に合ってるんだ。早く座ってしまえ」
「……はい、失礼します」
顔を上げれば、席についているのは他にアヴェリンしかいない。
それぞれの席の前には、ソーサーの上に置かれたカップがあるぐらいで、食器はなかった。アキラの席には香りどおりのメニューが用意されて湯気を立てているが、他の人の準備はこれからなのだろうか。
ルチアがこの場にいない事を見れば、その可能性は高そうに思われた。
アキラは席に座って行儀正しく背筋を伸ばす。
ユミルも同席するのかと思いきや、その背後を通って邸宅の奥へと消えていった。採取した植物を仕舞いに行ったかしたのかもしれない。
全員揃うのを待っていようと思っていたが、それより前にミレイユが掌を向けてきた。
「我々はもう済ませてしまった。悪いが、食事は一人でやってくれ」
「あ、そうだったんですね」
「思いの外、起きてくるのが遅かったからな」
アヴェリンが憮然として言って、自分のカップを持ち上げる。不本意そうな雰囲気があったが、以前のような刺々しさは大分薄い。少しは認められるようになったのだろうか。
ミレイユの視線に促されるまま、アキラは食事に手を付けた。
食前の挨拶をしてからパンを手に取り、スープに浸して口に運ぶ。
香辛料は僅かにしか入っていないスープで味は薄めだが、アキラからすれば懐かしい味に頬が緩んだ。他には取り合わせとしてチーズや干し肉のスライスなどがあり、それらは噛むほど味が出るので、一緒に食べれば丁度良い塩梅だ。
食事中に余計な会話はなかった。
時折、ミレイユとアヴェリンの間で雑談が交わされる事もあったものの、アキラには良く分からない事だった。その多くは神宮内に関わる内容のようで、だからなるべく食事に集中して会話が耳に入らないよう気をつけた。
食事も終わり満足気に息を吐き出し、ミレイユに向けて頭を下げた。
「ごちそうさまでした!」
「うん……、満足したなら少し話そう。足りないなら追加を持って来させるが」
「いえ、大丈夫です! 十分、頂きました。でもその前に食器を……」
アキラが綺麗になくなった空の皿を示すと、一つ頷きが返ってきたので立ち上がる。先に後片付けをしたいという意図を汲み取ってくれて、お礼の気持ちで食器を洗う。
これまでは大抵ルチアなどが買って出てくれて、アキラがやる機会はなかったのだが、今まで何度となく見てきた光景なので、問題なく終わらせる事が出来た。
席に戻ると、いつの間にやらユミルが着席している。
手にはワインボトルとグラスがあり、丁度栓を開けて注いでいるところだ。朝からお酒か、と思わないでもないが、ミレイユが咎めないならアキラが何かを言う権利もない。
しかし改まって話をしたいと言われると、何やら緊張してしまう。
ここのところ会う機会も減ってしまっていたので尚更だった。そして改めて思う。目の前にいるのは単なる敬愛すべき隣人ではなく、オミカゲ様の御子なのだと。
ミレイユがいつものように振る舞ってきたから、アキラもまたいつもどおりを気に掛けて食事をしていた。彼女が身に着けているのも、よく邸宅で過ごしていた時の衣服で、だから今日はオフ日だと主張しているようですらあった。
頭を下げられる生活を悩んでいるような発言もしていたから、変に畏まった態度は逆に不機嫌にさせてしまうだろう。その事に気を付ければ、そう問題はないかもしれない。
そもそも生活についても不安はなくなったろうから、食事についても邸宅に帰ってくる必要すらない。それでも足を運んで来るということは、息抜きを兼ねているのかもしれなかった。
――それなら神宮内での生活なんかは聞かない方が良いのかも。
アキラはそれを心に留めながら、改めて頭を下げた。これも嫌がられるかもしれないが、癖のようなものだ。道場で受けた礼儀作法が染み付いてしまっているとも言える。
「改めて、お久しぶりです、ミレイユ様。僕が言うのも烏滸がましいとは思いますが、中々お目に掛かれないので心配していました」
「そうだったか……。そうだな、箱庭には何度も帰って来ていたが、時間が合わなかった。こうして顔を合わせるのは久しぶりだったな」
そうだったのか、と少し悔しい気持ちになる。
とはいえアキラも一日の大半を学校で過ごす。行き違いになるのは可笑しな事でもなかった。
「今日は早くから、時間的余裕が出来たから寄ってみた。休日でもあるし、いつもより遅い時間まで続けているのではないかと思ってな」
「それじゃ……もしかして、見てらしたんですか」
これには静かに頷いて肯定された。
では、相当無様な姿を見られたという事だ。いつもは地面に膝を突くこと程度は良くあっても、気絶するところまでいく事は少ない。
いや、とアキラは思い直す。
普段は学校が控えているから抑えられているだけで、休日ならば普段から似たようなものだ。気絶ギリギリか、あるいは時間いっぱい転がされているかのどちらかで、どちらにしても無様な姿を晒す事に、そう大きな違いはない。
「見ない間に、腕を上げたな」
「そう……なんでしょうか」
疑問を口にするが、そこには僅かな喜悦が潜んでいる。素直に褒められる事は珍しく、その喜びは隠しきれるものではなかった。
アキラの口元がだらしなく垂れ下がろうとしたところで、アヴェリンからの鋭い視線で我に返る。言われるまでもなく、それで調子に乗るなんて事はしない。
以前、魔力総量を上げつつ制御力を向上させる、という話が上がって以降、その鍛錬に多くの時間を割いてきた。ここでもやはり、アヴェリンのお眼鏡に叶うものではなく、多くの罵声を浴びつつ続けてきたが、その意味はあったようだ。
実際それは、実に
まだ伸び代があると言われているが、むしろ『ある』と言われて絶望したのは初めての事だ。いっそスッパリとこれ以上やっても無意味だと言われたかった。
アキラは今まで才能がある、と言われた分野は皆無に等しかった。
その才能を見出された部分が、非常に痛みを伴うものでなければ泣いて喜んでいただろう。今も泣かされているが、そんな涙を流すくらいなら、やっぱり才能なしと判断されたいぐらいだ
った。
アキラの顔が曇りだした事で、何かを勘違いしたらしく、労るような声音でミレイユが口を開く。
「最近は……どうだ? いつもあんな感じなのか?」
「ああ、いや、何と申しますか。いつもはあそこまで酷い事もなく、もう少し動けているような……」
必死に今日の失態を取り繕うと言い訳を重ねようとしたが、アヴェリンから鋭い視線を向けられて、すぐにそれも諦めた。
「いえ、まぁ、あのようなもので……。上達もないのか、転がされる回数も同じようなものだ、とは思うんですけど」
「ん……? いや、そっちじゃない。アヴェリンを相手にしていると思えば、まぁそんなものだろう」
「じゃあ、えっと……。他に何かありましたか?」
「お前はよくアヴェリンに怒鳴られていたろう。駄目出しや弱点を指摘されていた。だが、今日は罵声もなく淡々としたものだった」
「そう、ですね……」
いつ頃からだったかイマイチ覚えてないが、もしかしたらそれは、一週間程前からの事だったかもしれない。
制御力の訓練の過程で、一度だけ褒められ、それからは怒鳴りつけるような事は減っていったように思う。殴り付けられるのは同様だが、それは自分のミスを諌めるような指導的なものだ。
致命的な隙やミスを見せると、単に躱せなかっただけと違い、痛烈な衝撃を与えてくる。今日も受けた直線に走る痛みがそれだった。
口で言っても分からないから身体で覚えさせる作戦に切り替えたのだろう、と思って特に気にもしなかった。対応出来る攻撃も増えていったし、実際効果は上がっている。
対応できると分かれば、また別の切り口の攻撃が増えるだけなので、結局腕前の上昇は実感できていないのだが、それもまたいつもの事。
怒鳴られもしないが、褒められもしない。
剣筋を交わして、対話するように指導を受ける。それが最近の鍛錬法だった。
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