幕間 その1
オミカゲ様と呼ばれる神は、普段から威厳に満ちて神々しく、取り乱す事のない完璧な存在だと、国民からは思われている。
その御神徳から国民を遍く護り、病怪我から救い、悪鬼悪霊を滅する雷神として、陰日向なく守護して下さる存在だと信じている。
それは間違いではない。
高みから見守るだけの存在ではなく、確かな存在感を持って地上へ降臨している神の一柱。その神に信仰を捧げる事がに、喜びを感じる者も珍しくない。
海外からも、社を立てて欲しいという声は幾つも聞く。
しかし、元はミレイユが再び現れるまで、戦う者たちを癒す目的で作られたシステムだから、その見返りを求めて信仰を願う者たちに興味も持たないのは当然だった。
――極東には本物の神がいる。
そのように名が知られるに連れ、かつては誹謗中傷も多く挙がったものだった。
奇跡の御業は軽々しく扱われるものではなく、また扱える神はこの世でただ一柱だと妄信する者たちにとって、オミカゲ様の存在は非常に不都合だった。
それ故の迫害だったが、そもそも外へ信仰を広めるつもりのないオミカゲ様にとって、そのような者たちは、端から興味もなければ関係もない。
大事なのは孔を封じ続ける事であって、海外に向けての信仰の押し売りなど最初から考えてすらいなかった。時に悪魔の化身、悪魔の毒婦などと蔑称で呼ばれてきた。
それ以上の特別な対処がなかったのは、ひとえに日本が島国であった事、また当時世界の中心から離れすぎていた事が挙げられる。
とにもかくにも対岸の出来事でしかなく、派兵して宗教を取り潰そうというにも遠すぎた。宗教による侵略もなかったので、世界の片隅で大人しくしているなら放置してやるか、という寛大さを示したという体裁である。
だが現在では掌を返して、その社を建立して欲しいと懇願している。
心が狭いと言われようと、今更遅いという気持ちと、ミレイユ帰還まで最善の形で維持しておきたい、という気持ちが強いので、海外については尚更どうでも良かった。
先日も外交を任せている由衛から、そのような話を聞かされて、オミカゲ様の心中も穏やかではいられなかった。より正確に言えば、遂にミレイユとの面通しが叶うから、穏やかでいられないと言った方が正しい。
これから大事な時なのに、面倒事など運んでくるな、という心境だった。
常に威厳あり、平静な姿を見せるオミカゲ様からは信じられないような落ち着きの無さだった。
とはいえ、オミカゲ様のごく身近に侍る事を許される女官からは、そのように完璧な存在だとは認識されていない。
苛烈な時もあるが、その気質は穏やかで、困る時には困る、人と変わらぬところも多くあると知られている。
長いことオミカゲ様のお付きをしている、女官長を拝命している京の院鶴子は、それを知る数少ない人間の一人だった。
部屋の中を左右へ行ったり来たりするオミカゲ様を見て、鶴子は上品に口元を隠して笑う。
「オミカゲ様のそのような御姿、久々に拝見いたしますね」
「……そのような意地悪申すでない。我は気が気でならんのだ」
オミカゲ様の居室は神の住まう処に相応しく、広く豪奢な造りになっている。基本は神社の建立形式に則った板張りであるものの、オミカゲ様の好みに合わせて部屋の半分に畳を張り、寛ぐにも休むにも適した空間になっている。
それ以外の床は板張りで壁もまた板張りだったが、寒々しさなどはない。数々の調度品や生花で飾られた空間は、見ていて感嘆で息を吐く程だ。
オミカゲ様は不意に立ち止まって額を揉む。
自分のやり方が間違っていたのではないかと、今更ながらに不安が渦巻いてきた。
ミレイユが帰還した当初から、その動向を掴むように指示していた。自分自身の事でもあるし、その思考傾向は理解している。
帰還が叶ったばかりで住む場所も確保出来ているとなれば、しばらく自由に過ごさせてやろうという、ミレイユの事は親心のような気持ちで見守っていた。
だが時が経つに連れ、どうもこちらを良く思っていないというか、勘違いしているような節が見られるようになり、遂には戦力のぶつかり合いが起こった。
ぶつかったというよりは一方的に轢かれたようなものだったが、武力衝突が起きたのは間違いない。
オミカゲ様よりも余程状況を理解していた一千華が動き、その解決を図ろうとしたが逆効果で、とうとう壊滅的な誤解を与えるに至った。
一千華にしても当初あった作戦を取り潰し、変更を余儀なくされた。自分の望みを押し通すよりも、その一挙両得を狙うつもりがあったのだろうが、結果としては散々なものだ。
そもそも、何か言われて大人しくするような者たちではない。
現世を満喫させるつもりもあったが、下手な対立構造を生んで、後の話し合いが拗れるようになれば目も当てられない。話をするテーブルに着かせる事すら不可能になっては、穏便に事を運ぶつもりだった目的が、全て御破算になってしまう。
オミカゲ様の放った勅は役に立った。
元より幾つもヒントを置いてあったオミカゲ様の正体である。その事に食い付かないほど、無能でも狭量でもないと思っていた。
非常に肝は冷やしたが、話し合いの場を設ける前段階まで、無事に持ってこれたのだ。
問題は裁判を利用した、御子神判定を受け入れるかどうかだ。
今後日本で行動するにも、オミカゲ様たる神と会うにも、これが最善の方法だと思っているが、逆上するような事があれば有力家系の者たちに死人が出る。
神の庭、ひいては住処である御殿で人死が出るというのは、非常に厄介な問題となる。体裁だけではなく、多くの首が飛ぶだろう。
そうなればオミカゲ様としてミレイユを罰するしかなくなるし、穏便な話し合いなど露と消える。
――神の御子と認定させる事を、先に了承させておくべきだったか。
だが、それを飲み込ませるには理由も教えなくてはならず、それにはオミカゲ様の正体を明かす必要も出てくる。どのように対面するかという問題にも繋がり、まさかこれだけの大事を手紙だけで済ませる訳にもいかない。
どうにも歯痒く、痒いところに手が届かない。
上手い方法が思い付かず、苦悶の声を上げる。
そうすると、控えていた鶴子がとうとう声を上げて笑った。
「そのように思い悩みますな。ご安心なさいませ、全て滞りなく事が運びましょう」
「勿論……そう願うし、信じておるが……」
「オミカゲ様の御子の事でございます。必ずや上手くいきますよ」
オミカゲ様は額から手を離し、縋るように顔を上げた。
鶴子には掻い摘んで説明したが、そもそも認識している前提が間違っている。最終的に自身の子であると説明しなくてはならない、という話は説明した。
だから、これから会うのはオミカゲ様の実子だという話に誤解されている。
最終的には全員に御子であると認識して貰わねばならないが、しかしそれは、謂わば詐称と言って良い。その御子とはミレイユの事であり、そしてそれは自分自身でもある。
現世の身分を与えるに当たって、その方が都合がいいから、という理由で、実子である事を証明するに過ぎない。
曲解させるのが目的とはいえ、実際の問題点に対する齟齬がある。
その事は説明できないから、鶴子の優しい表情が心に痛かった。
「神様の常識は存じませんけど、親に想われて厭う子などおりませんよ」
「そうであろうか……。あちらは親などと思っておらぬし、初めて会うものだしな」
「例えそうであっても、その愛が本物なら親子の情は通じるものでございます」
「親の心、子知らずとも言うであろうが。結局何一つ信じてくれず、背を向けられる事を思うと……心が重い」
まぁ、と眉を八の字に落として傍らまで近づき、その背を撫でる。
本来なら不敬とされる行動も、長い付き合いだからこそ許される。神と人の関係とあっても、長く共にいれば情も結ばれるものだ。
「オミカゲ様は、御子様の事を大切にお想いでしょう?」
「然様……。この身より優先されるべきものである」
「それほど強く想っておいでなさっていて、その御心が伝わらぬとは考えられません。オミカゲ様、お気を強くお持ちなさいませ。必ずや、その想いは伝わりましょう」
オミカゲ様はその肩に置かれ手に、自分の手を重ねて幾度か頷いた。
「……そうさな。道理の分からぬ者でもない、理性的に話を聞いてくれよう」
「左様でございますとも。ご心痛お察しいたしますけれど、御子様を信じていれば、きっと良い方へ向かいましょう。心安らかにお過ごし下さいませ」
「うむ……。その言葉を頼りに、この不安を耐えよう」
鶴子の善意には決定的なかけ間違いがあるのだが、それを指摘したところで意味はなかった。
前提が間違っているので、その言葉は慰め以上の意味はなかったが、それでも自身を慕い言ってくれる言葉には励まされた。
鶴子の深い皺が刻まれた顔を見る。
思えば、彼女も長く仕えてきた。オミカゲ様に仕える者は幾度となく代わり、その度に親交を深め、そして別れてきた。誰一人粗末に扱ってきた事はないが、鶴子はその中でも特に親しい間柄となった。
鶴子もまだ元気だが、年齢を考えればそろそろ代替わりの時期だ。
健康を理由に退職する者は少ないが、余生を楽しんで欲しいという思いから早めの退職を促す事が多い。鶴子と一緒にいるのは気が休まるから、つい甘えてしまっていたが、彼女にもそろそろ暇を与えるべきなのかもしれない。
任せるべき後進がいない、という人材不足もない筈だ。
オミカゲ様は皺だらけになった手をやんわりとどけて、小さく笑む。
「茶を淹れておくれ。黙っていては落ち着かぬ、少々無駄話に付き合ってもらおうか」
「はい、只今お持ちいたします。……ですが、無駄話でございますか?」
「たまにはよかろう」
「左様でございますね」
鶴子もおっとりと笑って隣室へ移っていく。
オミカゲ様が所望すれば即座に用意できるよう、茶道具一式揃っている。オミカゲ様付きの女官ともなれば、茶を点てるなど必須技能だった。
畳の間に移り、茶を点てる様を見つめながら過去を思う。
常に鶴子へ頼む訳ではないが、思えばその回数は多かったかもしれない。こうして点てる姿を見ていると、色々な年代の鶴子の姿が思い浮かぶ。
まだ黒髪だった頃、子が生まれた後の頃、子が成人した時の頃、様々な姿が脳裏を流れ哀愁の気持ちが強く出る。それが表情にも出ていたのだろう、鶴子は不思議そうにしながら、点てたお茶を差し出して来た。
畳の上に置かれたそれを、作法に則って受け取り手の中に収める。
「どうかなさいました?」
「そなたの昔を思い出しておったのよ。……うむ、初めてあったのは赤子の頃、我の腕の中で大人しくしていた時だった。そうであると思えばお漏らしを始めて、お前の親は顔面蒼白にして――」
オミカゲ様から忍び笑いが漏れる。
鶴子は目を丸くしては笑い始め、それが今宵限り、愉快な茶会の始まりの合図となった。
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