混迷の真実、明瞭な虚栄 その4
オミカゲ様はミレイユの心情を理解してか、一転気遣いを感じる声音で言う。
「それほど長くはなかろうが、それまで自由に暮らせ。望むものは用意しよう。……例えそれが、僅かな間でも」
――あれはそういう意味だったか。
最初、謎めいた言葉、不安を煽るだけの台詞かと思ったが、色々聞いて分かった今だと、だいぶ心境が変わる。
オミカゲ様の――多くのやり直しを背負ったミレイユの言葉だと思えばこそ、やりきれない思いになる。
どうしたものか、どうしたらいいかを考えてしまう。
そうするべきだと、そうするしかないのだと思っていても、やはり決意する勇気が湧いてこない。
この世界に留まっていても、いずれ孔が拡大し、そして魔境が出来上がるだけ。世界の破滅が待っている。
オミカゲ様の言葉を信じるならば、そういう事になる。しかし今更疑うものでもなかった。
疑いたい気持ちがあるのは、その選択から逃げ出したいからだ。全て嘘なら、決意なくては出来ない選択をする必要がない。
そして、思うのはそればかりではなかった。
せっかく帰ってきたのに、また行かねばならないのか、という嘆く気持ちもまたある。
「こちらに帰って来たんだ、
「いいや。あちらに向かい、
ミレイユは前髪をまたも掻き乱した。せっかく整えたのに、またも無惨な姿を晒している。頭髪というより頭皮を乱暴に搔き乱し、一度顔を下へ向ける。
固く目を瞑り、十秒の沈黙の後、顔を上げた。
「返事は今すぐでなくては駄目か?」
「無論、後で構わぬよ。些か性急すぎたきらいがある。ゆっくり考える時間も必要であろう」
「些かだと? そんな生易しいものじゃないだろうが……」
ミレイユは髪の中に突っ込んでいた指を、頭皮を揉み解すように動かした。考えを纏めるのに幾らか助けにならないか、マッサージのつもりで動かしてみたが、しかし全く何の助けにもならない。
思考は頭の中で渦巻くばかりで到底カタチにはならず、そもそも理解を拒絶したい気持ちすらある。
「なぁ……。結界の破綻まで残り僅かとは言うが、具体的にどのくらい時間が残っているか、予想は着いているのか?」
「そうさな、最大で……」
オミカゲ様は小首を傾げるようにして天井付近へ視線を向け、そうして五秒程度視線を彷徨わせた後、体勢を元へ戻して言った。
「一年あるかどうか、その程度であろう」
「そうか……長いようで短い時間だな」
「あくまで目算に過ぎぬと心得よ。孔の拡大速度が常に一定とは限らぬ。ある程度、波があるものだと判明しているが、これからの状況次第では加速度的に増加していく可能性もある」
「波というと……。ああ、ゴブリン程度しか出ない筈が、ミノタウロスの出現も皆無ではない、という話か……。そのようなこと言ってたな」
ミレイユが即座に理解の色を示すと、満足するようにオミカゲ様は頷く共に、萎れる花のように首を落とした。
「それに何より一千華の寿命もまた、考慮せねばならぬ」
「……長くないのか」
「こればかりはな……。一年か、それとも半年か。その時が来るまでは分からぬが……」
ミレイユは改めて一千華へ視線を向ける。
静かに座り、全員の様子を楽しそうに目を細めて見る姿には、寿命が近いと感じさせない風情がある。寝込んでいる訳でもなければ、その顔に生気がない訳でもない。
縁側でお茶していても不思議ではないのに、既に己の死を予期しているとは思えなかった。
それこそ、全て冗談で老人特有の寿命ネタで笑いを取ろうとしていると言われても、信じる事が出来るように思える。
しかし、瞳に宿る光には諦観に似た色が浮かんでいて、己の死期を悟り、そしてその事を受け入れている覚悟すら見えた。
手を引かれて部屋へ入って来たとはいえ、背はしっかりと伸びていて気品すら感じられる。思わず本当なのか、と疑わずにはいられない程だった。
疑わずに、というよりは信じたくないのだ。
眼の前にいる一千華をルチアと切り離して考えるとしても、それでも完全に別物だと考える事は出来ない。その一千華が亡くなると言われて動揺しない方がおかしかった。
そこまで考えて、ふと思う。
「現状の結界は、既に一千華の手を離れているんだったか?」
「そうさな、だから孔の拡大を許しておる。拡大自体はそなたが帰還より後の事であったが、離れたのはそれより前のことよ。……ふむ、どれほど前の事だったか」
「三ヶ月程前の事でございます、オミカゲ様」
一千華がおっとりとして発言すると、目を合わせてゆったりと頷いたオミカゲ様は小さく笑む。
「そうであったな。……それがどうした」
「いや、まだ元気そうに見えるのに、結界の管理から離れたのが疑問だった。まだ元気そうで健康そうだ。ならば、継続できたのではないかと思って……」
「――生命の火が消えるまで、結界の維持に努めろと? その死の瞬間まで維持を続けろとでも言うつもりか?」
「いや……」
オミカゲ様の声音には明らかな怒気が含まれていた。
ミレイユは己の失言を自覚して顔を顰めた。頭の隅に思い浮かんだとしても、それは口にするべき事でないのは明白だった。まるで電池か歯車のように、遣い潰して交換すればいいとでも言っているようなものだ。配慮も遠慮もない失言だった。
ミレイユは流石にしっかりと頭を下げて、一千華へと謝罪する。
「申し訳ない。そういうつもりで言ったんじゃないんだ……」
「分かっておりますよ。それにわたくしは、そうしても良いとオミカゲ様には申し上げていたのです。最期の瞬間まで結界の維持に努めても良いと……」
予想外な発言に顔を上げて見ると、そこには苦笑としか言いようのない表情が浮かんでいた。
オミカゲ様の方を見てみれば、頑なに首を振り、否定する意思を見せている。
「それは認めぬと言った筈だ。千年ものあいだ苦楽を共にした友だ、もう十分休んでも良い程、そなたは我を支えてくれた。残された時間、有意義に過ごせ」
「そう言われても困ってしまいますね……。では、一緒にお茶を飲んで下さりますか?」
「勿論だ。何なれば、我自ら一服、進ぜよう」
「あら、素敵ですわね」
お互いに微笑み合う姿は睦まじく見えるが、オミカゲ様の表情は切なく泣いているようにも見える。
思えば長い間――気の遠くなるような長い時間を共に過ごして来た仲だ。その正体も本音も、何もかも打ち明けて憚ることない間柄だったろう。人であれば、誰しも永遠には生きられない。
誰にでも順番がやってくる。
そして、その順番が遂に一千華にもやって来たという話だ。多くの別れを体験してきたオミカゲ様だろうが、堪える死というものは慣れないものだろう。
いっそ否定したい事ですらあるだろうに、お互いがそれを受け入れて、そして旅立ちを見送ろうとしている。
ミレイユは改めて自らの失言を恥じた。
効率、あるいは合理的でありつつ無神経な発言。自らにも同じ事が起きれば、とミレイユは盗み見るように、アヴェリンから隣に続く面々へ目を向けた。
今となっては居て当たり前と思える三人。
その誰であっても別れを体験したいとは思えない。抗えるものなら抗いたいと思うのが普通だろう。そして――。
ミレイユは改めて自分たちと対面に座る一千華を見た。
長机に四人で並ぶ一列と、その反対に一人しかいない彼女。
その正体を聞いてから、他の二人はどうしたのかと思わないではなかった。いない事について考えないようにしていた。昼食会にて気づき、オミカゲ様の周囲に
しかし、そこに居ないというなら、それが事実なのだ。
ミレイユはソレ以上を考えないよう、敢えて思考に蓋をする。考えても仕方ないというよりは、考えたくないという稚気にも似た思いだった。
そこで強制的に意識を切り替えるように、オミカゲ様が手を叩いた。
一拍だけの乾いた音を耳が叩いて、沈み込みそうになる意識を強制的に引き上げられる。目を合わせると、オミカゲ様は静かに手を降ろして皆を見渡した。
「さて、長い間、話すに話した。そろそろ疲れた頃合いであろう」
「話した時間の長さから来る疲れじゃないだろう、これは……」
ミレイユがげんなりして言うと、オミカゲ様も苦労を感じさせる表情で頷く。
「しかし先延ばしにも限度のある話故な。今は即座の納得も理解も出来なかろうが、しかと考えておいてくれ」
「まぁ、そうだな……」
ミレイユが力なく口から吐き出すと、オミカゲ様の背後で巨体が身動ぎして立ち上がった。
部屋中の誰もがその動きに注目し、その中にあってオミカゲ様が振り返っては立ち上がる。
「もう行くのか、八房」
「……ウォン」
小さく一鳴きして、その鼻面をオミカゲ様の頭に擦り付ける。
短い間じゃれ合って、そうして他には目もくれずに身体向きを変えた。尻を向けて踵を返した時に、その大きな一つの房がミレイユの頭を慰めるように撫でていく。
果たして気遣いだったのか、ほんの偶然だったのか、その違いが分からないような撫で方だったが、ミレイユはどこか心落ち着くような気落ちになる。
背を見せて縁側を降り、そうして威厳を感じさせる足取りで中庭を横切っていく。姿が完全に見えなくなるまで見送っていると、オミカゲ様も寂しげな声音で声を上げた。
「さぁ、今日の所はここまでにしよう。一千華は今後、こちらに逗留してもらう予定である。何か用事があるか、あるいは話したいというならお付きの者に申しつけよ。我との先約がなければ、最優先で引き合わせるよう取計らう」
「それは大変、よろしゅうございますね。暇なご隠居と話したいと思ったら、いつでもお声がけ下さいませ」
一千華が笑って一礼すると、ミレイユ達はお互いに顔を見合わせては頷く。
特にルチアは非常に複雑そうな顔をしていて、どう反応するか迷っているようだった。それはそうだろう、といったところだが、ルチアにも向き合うには時間が必要かもしれない。
とにかくも、それでその場は終了となった。
オミカゲ様が部屋の外へ声を掛けると、控えていた女官が現れミレイユ達の先導を始める。身体は非常に億劫だったが、動かない訳にもいかない。
アヴェリンに頼めば背負ってくれそうだが、そうしてもらうには余りに理由が酷すぎた。
ミレイユは非常に重く感じる身体を、両手を机を押し退けるように立ち上がる。その際、オミカゲ様と目が合い、不思議な視線だと思った。見ていると落ち着かなくなる、謝罪をしているかのような視線。
ユミルが言っていた己に向けられる目とは、これの事かもしれなかった。
その視線を断ち切るように顔を背け、女官の先導に任せて足を進める。敢えて何も考えないようその背を見つめ、ただ歩く事に専念した。
ミレイユの背に掛けられた、オミカゲ様からの挨拶に反応すらせぬまま、逃げ出すように部屋を出た。
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